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その三

先ほどまでの部屋とは違い、与えられた部屋は畳も比較的綺麗で文机もまだ新しく、がらんとした部屋の真ん中に腰を下ろすと、自然と清次郎の目頭は熱を持ち始めた。そういえば、幼い頃からともに通った剣道場の仲間にすら挨拶もしていないことに、今更気付いたのだ。

彼らが、清次郎が江戸で療養していることを知って、もしわずかばかりでも心を痛めていたとしたらと思うと、苦々しいものが一気に胸中を駆け抜けた。


江戸までの道中はそんなことを考えたことはなく、家族のことやこれからのことをぽつぽつと考えていた。そしてその他の大半の時は何も考えずただ歩いていた。考えることは億劫であったし、どこか漠然と恐ろしかったからだった。


しばらくして、障子向こうの御新造の声で意識を戻した。

旅の疲れは清次郎に泣くことを許さず、どうやらすっかりうたた寝をしていたらしい。

清次郎は慌てて起き上がり襟を直すと、主人を迎えに出ようと立ち上がった。

すると障子が俄かに音を立てて開けられ、まだ十ばかりであろう男子とその父親であろうこの館の主人が揃って手を突き頭を下げた。


「ようこそお出でくださいました清次郎様、お出迎えできず誠に申し訳ございません」

主人の余りに恭しい様子に一瞬清次郎は呆気にとられたが、すぐさまその向かいにきちんと座り直した。そうして手を着き頭を深々と下げると


「お父上様、どうぞお顔を上げて下さいませ。今日より私は父上の子にございます。どうぞ、厳しくご指導下さいませ」

と、負けない恭しさで口にした。

それでもなおとんでもないと頭を下げる義父に、清次郎が坐したままにじり寄って「おやめください」と求めるとようやく頭を上げたが、その顔つきには父親らしい威厳のかけらもなかった。


ある程度予想はできていた通りの事に、清次郎は驚くこともなかったが、それでも落胆は心に刺さり辛かった。

翌日からも、一家の様子は変わらず居心地はわるかったが、しばらくして旅の疲れもいえた頃、義父は前もって口利きをしていてくれたらしい奉行所の事務方の仕事を手配してくれた。それだけが一縷の望みのように思えて、清次郎は嬉々として義父に感謝を述べた。


狩野家の貧困の原因は義父にあった。

義父は体が弱く、働きに出ることが困難であったようで、四日とあけずに医者に通い、その医者代と薬代はばかにならず、駕籠も使えぬほどだった。自然と御家人の間で狩野家の御家人の間での肩身は狭くなり、それが寄り一層この家族の雰囲気を重くしているように思えた。

清次郎は、自分がこの家のために働くことができれば、そのうち家族としてこの家に溶け込めるのではないのかと、密かな期待を抱いていたのだ。


清次郎はその誠実さゆえに事務方の仕事は適任だったようで、毎日張り切って仕事に出かけた。いつかは、と思えば、どんな仕事も楽しかった。里のことも、段々と思い返すことが自然と少なくなっていった。

思い出す暇もないほど働いた。


だが、その期待と努力が実を成すことはなく、扶持相応の役を持って家の再興に砕身する清次郎に家族は日々一層諂い、余所余所しくなるばかりであったのだ。

中でも、十二になる義弟の様子はことさらに痛々しい。

清次郎は子供が好きであったので、ことあるごとに土産を買ったり、遊びに誘ったりしたのだが、弟はそれらを全て丁重に断る。それは兄に敬意を抱いてのことではなく、丁重とは形ばかりの、よそよそしさであった。


ある日

「突然兄ができては、戸惑うのも無理はないな」

縁側で転寝している義弟を眺めつつ、いたわりからつい口から出た言葉に義弟は突然目蓋を上げると、清次郎をきっと睨み、そのまま飛び起きるようにしてどこかに行ってしまった。皮肉なことに、初めて義弟の感情と言うものが見て取れたのはそれが最初だった。


清次郎はその時、義弟が自分を避ける理由がまさしくそれだと気づいた。自分がいなければ、義弟は長男としてこの家を継ぐことができた。父母のため、何よりお家のために尽くすことができた。武家の長男として、男子が抱く志は、良くわかる。


しかし、実の父がそれを売り払い、赤の他人がその位置にちゃっかりと居座っているのだ。

父への失望と、己の未来の消失への絶望の程は計り知れない。それは、清次郎自身が一番良くわかっていた。

わかっていたからこそ、それ以上声を掛けることははばかるしかなかったのだ。


清次郎はその後、来日も来る日もひたすら働いた。田舎出で、実直に執務をこなし穏やかで優しい新入りは、荒々しい同心などにも弟のように可愛がられた。

彼らに夕餉に誘われることもあったが、清次郎はそれに応じることはなく、いつもまっすぐに家に戻った。


しかし急いで帰ったところで家には話す者もなく、漸く雇った中間も、渡り中間に過ぎないので、余計なことは一切話さず、日の勤めが終わればそそくさと帰ってしまう。

相変わらず義弟は自分を避けていたし、長男とはまさしく名ばかりで、まるで居候の身の上であった。油代を節約するために夜更かしもせず、ただ静かに一人で朝までの時を過ごしていた。


早々に寝入るせいで自然と目覚めも早く、仕事に出るまでは時間があり、それはすべて庭の掃除や水汲みに費やした。

うっすらと日の射す白んだ空に飛ぶ雁の群れを眺める時が、心を和ませることができる数少ない時間であった。

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