そのニ
植物さえも息を潜めて凍りつくような夜中、まるで逃げるように門をくぐった。
もうおそらく、二度と戻ることはないだろう出立に、父上も母上も終ぞ会いに来る事はなく、降り注ぐ雪のような白い梅の花だけが、吹きぬける風でその枝を振って見せていた。旅の伴を装った中間に連れられ、江戸の狩野家へと向かう足取りを何歩かとった後
「江戸でのご活躍、ですか」
と呟きただ一度だけ、清次郎は振り返った。
どんよりと湿った曇り空を引っさげ山に囲まれた国から、いくつもの関所を越えてやってきたのは、それとは全く反対のからからと乾いた江戸の町だった。昨日剃った髭の後が、ひりひりと痛む。
感じたのはそれだけではない。郷とは違う、風土に似てあっけらかんとした江戸の人々の空気に清次郎は気おされた。町人たちは武士などにわき目も振らず裸足に尻からげでそこらじゅうを駆けている。
それに驚くのもつかの間、行き着いたまるで狢に化かされたかと思えるほどに同じ白壁の群れの中、江戸は市ヶ谷にその屋敷はあった。
並びの家々に引けをとらぬ立派な門構えの大きな屋敷であったが、しかしどうもひっそりとしている。
中間は門前で待つ様に清次郎に言うと、家の者に声を掛けるでも無く、勝手に脇の小さな木戸から中に入ってしまった。
風に肌を任せてみれば、もうそれはすっかり春めいていて、ついこの間まで感じていた故郷の寒風と梅の香りを思うと何だかすっぽりと記憶が抜け落ちてしまった様な感覚だった。
程なくして中間は、白髪交じりの四十歳ほどの女を連れて出て来た。
浅黒くかさついた肌を張り付け、落ち窪んだ目の女は、どこかおどおどとして落ち着かない様子でいる。
「此の方は狩野様の御新造さまにてございます。お後のことは此方の御方にお聞きください」
中間はさした感情もなくそう述べると、深々と頭を下げ、一度も振り返る事なく来た道を戻って行った。
途端に、寂しい。郷にいた頃も、道中も大して言葉を交わした思い出さえない中間であったが、今となってはもはや故郷を思い出す物は、持参した筆だけであった。
着物や下着は、せめてもの心尽くしのつもりか、江戸趣味の真新しいものが幾つか揃えて入っていたし、手紙や本などは荷造りの際に全て除けてしまった。
もう、戻ることはないこの地を思い返すことは自分の為にならぬと思ったし、それならばいらぬものばかりであるから、結果、荷造りとは名ばかりの大そうじに変わりなかった。
しかしただ唯一、手になじんで便利だった筆だけを箱に入れ、行吏の中に大事にしまったのだ。
寂寥感に苛まれ突っ立つ清次郎に丁寧に頭を下げた御新造は、頬を緩ませることもなく
「お待ち申しておりました。狩野の妻にございます」
と無愛想に言うと、脇の木戸へと案内した。
まだ昼で、ましてや御新造がわざわざ迎えて下さったのに、横の立派な門は手付かずであったので、清次郎は不思議で
「こちらの門は使わないのですか」
と尋ねた。
御新造はごまかす様に
「いえいえ」
と言いながらようやく笑うと、中へ入るように再び促す。変だなあと思いながら、促されるままに足を踏み入れると、御新造は直ぐに今入った木戸を閉めた。
そしてくるりと清次郎に向き直ると、困った様な顔を作り
「おりませんもので」
とだけ一言口にし、そそくさと屋敷へと向かった。
主人と子供は出かけてまだ戻らぬと言うので、御新造はまた直々に屋敷の部屋部屋を案内してくれた。
そうして気付いた。
心遣いでご新造が自ら案内してくれている訳ではない。御新造しか案内する者がいないのだ。
それを表すように、作りの立派な門や塀とは打って変わって家の中はきわめて粗末であった。いや、欄間や部屋数などは手の大層込んだ、どうして立派な武家屋敷であった。
しかしながら肝心の生活道具がないのだ。
隅にある年季の入った文机に出しっぱなしになっていた硯は、端が大きく欠けていたし、箪笥もなければ、畳は所々擦り切れているという有様だった。
挙句使っていないとみえる部屋の天井の隅には蜘蛛が悠々と大きな巣をこさえ、その主さえ干からび死んで落ちていた。
清次郎は十分に納得が行った。
自分は養子に入ったのではない、 自分は実際はこれからこの家の主になるのだ。おそらく父は、養子の名目で御家人株としてこの家自体を買ったのだとわかった。
多少名の通る家ならば、ひどく金に困窮すれど、清次郎の活躍しだいでお引き立てもあるやも知れぬと一縷の望みを持ったのだろう。
そして、扶持ではままならぬ家、これが父が自分に出せる精一杯の餞別であったのだと思うと、恨みなどをはるか通り越してただただ悲しい気持ちで一杯であった。
御新造が、息子になろうという清次郎にどこかおどおどとしているのもおそらくそのせいなのだろう。一家がそういう気持ちで自分を迎えるのかと思うと、陰鬱な気持ちがじっくりと満ちていった。
案内が一通り終わると、清次郎には恐らく一番良いと思われる部屋があてがわれた。
荷物を全てその部屋に入れると御新造は、主人と子供が戻ったら来ると言って、そそくさと行ってしまった。
4月2日訂正:白河藩だということをすっかり忘れ、文中で海沿いの藩などと書いてしまいました。正しくは現在の福島県白河市ですので、まったく海沿いではありません、申し訳ありませんでした。




