その一
シリーズものの第三弾ですが、こちら単品でもお楽しみいただけるように書いて行きます。
よろしかったらシリーズ前回の「蝋梅」「雪解けの足跡」も読んで頂ければ幸いです。
最近、お向かいは楽しそうである。
神田の長屋暮らしの侍の清次郎が縁あって連れて来た化け狸は、向かいの棒手振りの喜市の元ですっかりこの長屋に慣れ、最近ではその妙に大人びて賢い物言いもあって
「ぼん」
と呼ばれて長屋の皆から可愛がられている。
三月にもなり、だいぶ暖かくなった江戸は、みながどことなくふわふわとうかれていて穏やかに賑やかで、ものを考えることすら億劫になるような雰囲気だった。
昼間、向かいから聞こえる笑い声を子守歌にして夢に入る少し前、朧気な意識の中で故郷は未だ寒かろうなあ、と寒風に揺れる木々を頭に浮かべたが、その寒々しい景色に自然と身震いしてしまい、すぐにかき消して寝返りをうった。
古い布団は、もうそろそろ打ち直してもらわなくては畳の縁の出っ張りが寝心地を悪くするくらいに薄っぺらかったが、長屋暮らしの清次郎にはその金を工面するのにも苦労がいった。
狩野清次郎。
この名前には大分慣れたものである。
不意に名を問われても、隔てるものが無くすらすらと出てくる。
狩野のご先祖の功名のおかげで、狩野家は末代まで扶持の継承が保証された御家人の家である。
端から見ればどうみても名家に変わりなく、狩野家の長男である清次郎は読み書きも剣も他より進んでいたので、はじめは親類などには随分と躍進の期待を持たれたものだった。世間には扶持をもらってもほぼ無役の貧乏侍は多く、狩野家も例外に漏れずそうであったのだ。
世間の同じような御家人には、家族全員を食べさせるために商売もどきに手を染める物もいたが、武家にあって商売の才覚がある者はまれで、多くは逆に借金をこさえるなどして更なる没落を余儀なくされた。
そういう家々は、その名家の威厳を、養子に迎えるという形で他人に銭で売り、食いつないだ。それを買うものの多くは、身分を欲する豪商やその息子、武家の次男などであった。
巷ではそれを御家人株と言い、狩野家も実のところその御家人株を売った家の一つであった。
買ったのは白河藩で祐筆を勤めていた柘植正道という武士であった。
狩野家の長男となる以前、清次郎はその柘植家の長男であった。
長男でありながら付けられた清次郎という名前には、清次郎もまた祐筆として役を得られるよう、でしゃばらず清く生きよという意味が込められていた。
その名の通り、若くして温厚で誠実な清次郎はまた文武共に秀で、周りからもその将来の如何に有望かをうたわれていた。
清次郎に母はなく、父と後妻、そしてその息子である腹違いの弟と何人かの中間や下女などとともに、何不自由ない暮らしをしていた。
しかし、17歳の春のことである。
突然、家から出ることを禁じられた。しかも父から直々に命じられたので、わけの分からぬままであれ命にしたがったが、部屋に下男下女すら寄せ付けぬ徹底ぶりは、奇妙であった。
日がな一日、道場にも出られない清次郎は本を読むかひっそりと畳の上で徒手を行うかで時をつぶしてはいたものの、頭の中は常に得体の知れない不安に駆られていた。
そうして一月ばかりしたある夜、代々柘植家に使えているもっとも信頼ある中間の田宮と言う男が、目に涙を溜めて清次郎の部屋を訪ねた。
手には振り分け行李と、決して良いものとは言えない着物がある。
田宮はそれらを横に置くと、床に頭を擦り付けんばかりに土下座をした。
「清次郎様、どうぞお許しくださいませ。柘植家の御為にございます」
この日この時より、清次郎は狩野清次郎となったのだ。
田宮が言うには、こうであった。
義理の母である“お圭”の父である白河藩御家老の秋山の孫の中で、男子の孫は清次郎の義弟の虎之介とその三つ上の従兄のみであった。
秋山には男子が無く、その従兄を養子にするつもりであったが、その従兄がつい先日病に倒れあっさりと逝ってしまったのだ。
そこで虎之介に白羽の矢が立ってしまった。 虎之介は幸いにも次男であったので、秋山は喪が明けるのを心待ちにしていると言う。
しかし、お圭が嫁いで十年、虎之介は念願かなって漸くできた子であった。お百度も踏み、まじないもし、いい祈祷師がいると聞けば呼びつけて囲うくらいに執心した末に出来た子である。手放せばいくら子と言えど、家老のご子息となるわけであり、そうそう会えるわけではなくなる。
ましてや、隠してはあったがお圭は秋山の妾腹の子であった。
そのような間柄の孫を、秋山の妻がどのように扱うのかと思うと、お圭は心が休まらなかった。
そして、わが子可愛さに優しい継母だったはずのお圭は一計を巡らせた。
夫である正道に泣きつき、虎之介を養子にやらぬよう懇願した。正道も若く美しい妻が死ぬの生きるのと泣き叫ぶのを不憫に思ったのと、可愛いわが子のため、それを受け入れたのだった。その後、苦心した正道の出した策は、虎之介に家督を継がせることであった。
しかし、家督を継ぐのは基本的には長男である。
そのために長男である清次郎は
「俺は死んだと言うことにされたのか」
行き着いた答えにそう呟くと、田宮は
「滅相もない」
と涙と鼻水で滅茶苦茶になった顔を袖で拭いながら首を振った。
自分の不憫さを悲しんでくれている田宮の心遣いはひしひしと感じたが、何が滅相もないのだ、と清次郎は心の内で笑っていた。長男でなくなることはとんだ滅相ではないか。
「清次郎様はご病気にございまして、御家を継ぐには体に不自由と言うことになり申した。
そうして、医者の多い江戸にいる親族の養子となり、ご養生を尽くされる手はずに。
しかし、清次郎様は秀でたお方でございます。江戸に置かれましても、ご活躍なさることと御館様も仰っておりました。」
そう言い、再び頭を床に擦り付ける田宮に、清次郎は半ば哀れみを持って目をくれると、身の回りのものは全て売り払うように言いつけ、わずかな荷物を纏めた。