003.見覚えのある転校生
春休みはあっという間に終わり、今日から二年目の高校生活が始まった。
始業式ということで、いつもより余裕を持って通学路を歩いていたのだが。
「よう」
耳元から響く、甘く低く重い野郎の声。こんな意味もなく間近でささやいてくる奴は一人しかいない。
俺は声の代わりに肘打ちでお返事。背後からうめき声がするが自業自得だ。
「愛がないな」
減らず口を叩くこいつの名は綿原幸也。一応、中学からの俺の親友だ。気品漂う風格はいわゆる二枚目と形容される容姿だと同性ながら思う。
だが、その人並み外れた奇妙な行動が加わった途端三枚目へ格下げ。
一言でたとえるなら変人だ。
こいつこそが変質者だ。
「朝っぱらから耳元で挨拶する奴に愛なんていらん」
「ほんの冗談ではないか。それに愛は必要だ」
「真顔で言うな。冗談に聞こえないんだよ」
幸也はあまり表情を変えず常に真顔であるため、いつも思考が読めない。ただ、仏頂面ってわけではない。
こいつにも感情は存在する。
「じゃあ笑えばいいんだな。冗談だよっ秋平っ」
満面の笑みを向けながら俺の肩を叩いてくる幸也。
うっぜえ。こいつの喜怒哀楽はとにかくわざとらしい。取って付けたような笑顔が俺の不快指数を増幅させる。
「もう一度ぶん殴られたいのか」
「む……これもお気に召さないか」
まだ続ける気か。その飽くなき向上心には相変わらず頭が上がらない。下げる気もない。
いつだって幸也は本能のおもむくままに行動する。それが良くも悪くもこいつの性分だ。
「今年は待望の新入部員がくるかな?」
幸也が突然聞いてきた。四月からは新入生が加わるため、多くの部活動は人員補強のために勧誘活動が行なわれる。
去年の盛り上がりを見るからに、今年も勧誘のときは大荒れになるだろう。勧誘される立場から卒業出来てよかった。
「さあな。だけど本当の部員が増えたら俺を退部させろよ」
俺は一応、部活動に入っている。幸也に強引に入部させられたため、名目上は合唱部の一員だ。
幸也は合唱部部長で実質上唯一の部員であり、俺は幽霊部員だ。
「考えておこー」
棒読み。絶対こいつ考えてない。退部させる気が感じられない。
ちなみに幽霊部員は俺以外にも十数人かいるようで、おそらく部活存続と音楽室確保のために名前だけを借りているようだ。部員が少ないと活動規模が縮小されるため、それ故の人柱だ。合唱なんてろくにわからんというのに。
……合唱。歌、か。外国の曲も歌うのだろうか。
数十分かけて牧高へ辿り着くと、校門内の掲示板に人が集まっていた。
「新クラスの発表が貼られているみたいだな」
中学の頃は三年間クラスが共通していたので、二年毎にクラス替えされた小学校を思い出す。ちょっとした興奮と緊張が織り交ぜられるこの気持ち。
俺達も掲示板の前に行き、各々の振り分けを確認する。どうやら俺はB組のようだ。
「喜べ秋平。同じB組だ」
にやりと笑う幸也の姿が一瞬垣間見えた。
まるで悪魔でも見たかのように、隣の女生徒が怯えている。
「まあ……今年もよろしくな」
気の許せる奴が一人でもいれば安心するが、あまり油断出来ない相手だからなんとも素直に喜べない。
牧高は四階建ての校舎であり、二階から順に三年、二年、一年と割り振られている。三階に着くと教室には座席表とクラス名簿があった。ドア側から出席番号順で席が指定されている。
俺こと柴門秋平の席は三列目の一番前だった。黒板が見やすいのはいいのだが……
教室内は俺と幸也がたまに会話するだけでまだ静かな空気を漂わせていたが、時間が経つにつれ徐々に教室は騒がしさを覚え始めてきた。
ちらほらと見知った顔も増え、俺は早くも新クラスの雰囲気に馴染みつつあった。
「ねえねえ知ってる? このクラスに転校生がいるんだって!」
後ろの席から気になる会話が聞こえた。前年度も同じクラスだった島吹琴音の声だ。同じだっただけで、互いに顔と名前は覚えている程度の関係だ。
薄い茶髪で若干のクセ毛。化粧はしているのかわからないが顔はさっぱりとしている。
嬉しそうな声で転校生という単語が聞こえたが、高校にもそんな響きは存在するのか。
「ほら、まだ鞄ない席があるじゃない。その子が転校生みたいよ!」
別に聞き耳を立てているわけじゃない。ただ後ろから話し声が聞こえるだけですので。
「なんて名前? 男子? 女子?」
「女子! 水無瀬姫香って名前みたいよ」
「へー、可愛い名前!」
名前だけならお姫様のような印象が浮かばれる。
まあ、女子なら話す機会もそんなにないか。
飾られてある時計に目を向けると同時にチャイムが鳴り出した。
……ん? 水無瀬、姫香?
「おら席に着けー。ホームルーム始めるぞ」
新担任が教室に現れると、生徒達は急いで自席に戻った。口と顎に万遍なくヒゲがあり、手入れを施しているのか不潔さを感じさせない外見を装っている。
授業はよく脱線して世間話をすることがあるため進行度は遅いが、そんな緩さがあってか学生からの人気は高い。
「俺のこと知っている奴もいるかもしれないが、このクラスの担任になった厚海茂雄だ。担当教科は日本史。まあ今年一年よろしくな」
通称、ヒゲ先生。あだ名は本人公認なのでそう呼ばれても怒られない。大人の余裕。
「これから体育館で始業式を始めるが、その前にひとつ知らせがある。転校生の紹介だ」
おおー、と教室内が盛り上がる。
ふと脳裏に走る、先週の記憶。歌声の印象が強すぎて忘れていた、少女の名前。
「それじゃあ入ってくれ」
教室から新しい生徒、もとい転校生が教室に初めて足を踏み入れる。本来なら皆と同様に初対面から始まるはずだったが、俺だけは姿を見るのは二回目だった。
小柄で幼い顔立ち。この高校の制服を着ていなければ中学生を彷彿とさせ、見る人によっては小学生と間違えられるかもしれない。
てっきり俺より年下、中学二年生ぐらいかと思っていたのにまさか同学年だったとは。
間違いない。この子はあのときの、一週間前に開催された演奏会の主役。
水無瀬姫香だ。
緊張しているのか、転校生は若干目が泳いでいた。肩までの髪が歩く度に揺れる。後ろから「かわいー」という女子の声が聞こえた。
確かに、容姿は美人というよりは可愛いの方が適している。俺としては小動物のイメージが拭えないが。
「それじゃ名前を黒板に頼む」
ヒゲ先生から白チョークを渡されると、転校生はせっせと書く。
左利きのようだ。名前を丁寧に書き終えた水無瀬姫香は、俺達の方を向いてはっきりと自己紹介を始めた。
まっすぐ、それでいて全体を見渡せるかのような瞳で。
しかし、俺のことはまだ気付いていないらしい。忘れられているのかもしれないな。
「九州から来ました水無瀬姫香です。少し緊張してますが、みなさんと少しでも早く仲良くなりたいと思っています。これからどうぞよろしくお願いします」
小さくお辞儀をすると盛大な拍手が沸き起こった。中には歓迎を声で表す者もいた。
俺も小さくとも拍手で姫香を迎える。これからは同級生か。覚えていなくとも一年間はよろしくな。
姫香は照れつつも辺りを見回しまた小さく礼をしていた。小さい身体が更に小さくなり、丸まったらどうなるんだろう。鞠みたいになるんじゃないだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、リズムをとるかのように拍手をしている俺だったが。
目が合った。
その瞬間、姫香はまるで珍獣にでも出くわしたかのような表情を見せた。俺は軽く頭を下げて精一杯の苦笑いで応えてみる。
やあ、柴門秋平です。覚えていますか。
この一瞬に周りはまだ気付いていないようだ。姫香は俺から視線をそらし、ヒゲ先生の方を見た。拍手も歓声も止まない状況になんとも困っているようだ。
沈静化を促すように、ヒゲ先生に合図を送っている。ヒゲ先生はそれを察するかのように口を開いた。ナイスヒゲ。
「じゃあ水無瀬はあの席に座ってくれ。そんでお前ら静かにしろー」
名前順故、俺とは数列離れている席だ。姫香は頷いて自席となった椅子に座る。
早くも周りの女子から話しかけられているようだ。
「九州のどこからきたの?」
「一人っ子?」
「どの辺に住んでるのー?」
「ちっちゃいねー!」
最後のはただの感想じゃないか。俺もそう思うけど、もし本人が気にしていたらどうするんだろうか。皆と同じように、ついつい姫香の方を向いていた。
姫香は嫌そうな顔一つせず、小さな微笑みを浮かべていた。ただ少し、皆に注目されまくって戸惑っているように見える。
一瞬、目が合った気がしたが気のせいだろう。
「それじゃそろそろ体育館行くぞ。出席番号順で男女別に並んで出発するからな」
ヒゲ先生に言われるがまま俺達は男女それぞれ一列に並んで体育館へと向かった。
姫香は相変わらず女子に囲まれている。
……今度は一瞬ではなく、会話しながらも俺の方をじっと見ている気がする。
そして若干俺を睨んでいるのは気のせいだろう。
始業式は何事もなく進み、約一時間の経過をもって終了した。現在はホームルーム中。
「それじゃーそろそろ終わるか。お前達四十人はこれから一年間共にするわけだから、なるべく仲良く過ごせよ!」
多数の「はーい」という返事。すでに仲良しクラス感が滲み出ているが、どうなるやら。
「それじゃ今日は終了だ。日直号令!」
日直になった出席番号一番が号令をかけ、ホームルームは終わりを告げた。
「ヒメちゃん帰ろー!」
島吹をはじめ女子達が姫香を誘っていた。ヒメちゃん、もうあだ名が出来たのか。
……そのヒメちゃんが俺に視線を向けているのは気のせいだろう。
二度あることは三度ある。気にしない方向で。
そうして振り返ると幸也が手を広げて俺を迎えていた。
「シバちゃん帰ろー!」
絶対に俺はワタちゃんとは返さない。天変地異が起きようとも、絶対だ。
「シュウちゃんの方がよかったのか?」
黙れ。
「転校生、小学生だったな」
帰り道にて転校生の印象を述べる幸也。小学生は言いすぎでは……なくもないか。
「まあ、童顔だよな」
本人はいないが当たり障りのないことを返す。もしも気にしていたら申し訳ないが。
「で、彼女か?」
突拍子もないことを言われたので思わず咳き込んでしまった。
「なんでそうなるんだよ」
「自己紹介のとき、あの娘がお前のことを知っているふうに見えたからな」
どうやらあの一瞬を見逃さなかったようだ。幸也は昔から細かなところまで目が届く。届きすぎて怖いぐらいに。
「知り合いだからといって彼女なわけじゃないぞ」
「そりゃそうだ。その理屈なら俺とお前は愛人関係にあたる」
その真面目な顔をあんまんで台無しにしてやりたい。
「とにかくあいつとは一度会ってるけど、恋人でもなんでもないぞ! 当然お前ともだ!」
「ふむ。残念だな」
……言葉を返したくない。返したら危険だ。
三方向の分かれ道で俺はまっすぐ横断歩道を渡るが、幸也は左折するのでここでお別れだ。
去り際、「じゃあな」と互いの声が揃ってしまった。奴のガッツポーズが憎たらしい。
「ただいま」と習慣で言ってしまうも返事はない。まだ十二時前だ。両親は仕事中、姉貴は大学か遊び歩いているのだろう。
部屋着に着替え、居間のソファーに横たわった。眠いわけではないが、体を預けるだけで身も心も楽になる。単純な人間でよかった。
それにしても驚いたな。もう会うことはないと思っていたのに、まさか再開するとは、夢にも思わなかった。
……そういえば、今日だ。