001.はじめまして変質者
三月ももう終わりだというのにまだ肌寒い午後十時五十分の空気。
どうして俺はこんな時間に、熱々のあんまん手にして外を出歩いているのだろうか。警察に補導されないだろうか心配だ。
もしそうなったらあの酒乱女のせいだ。
「つまみがないのでさっさと補充してきなさい。あんまんねっ」
お断りします。親指を下に突き立てて丁重にノーサインを送ったのにも関わらず、姉貴は俺が買いに行くまで空のビール缶を投げ続けるのを止めなかった。迷惑極まりない。
家からコンビニまで徒歩十三分と中途半端にかかる道のり。自転車さえ壊れてなければ数分で済んだおつかいなのが非常に悔やまれる。
「十一時までに帰ってこなかったら、あんたの部屋は宴会場になります!」
出かける直前に姉貴が時間制限を設けたことを、いまになって思い出した。腕時計の針はどちらもほぼ十一の方角を指している。
……やばい!
こうなったら最短経路を通ろう。
行きは平坦で、通学路にも使われている一般的な道を歩いていたが、帰りはもう一つの方法を採用。いちいち右や左へ曲がったり信号待ちをしなくてもいい、一本道の経路。
そこなら体力さえ持てば三分強で家路に着ける。あと、ずっと右手に持っているあんまんを、走っている勢いで握り潰さなければいいが。包みのビニール袋じゃなくて、手提げの方をもらえばよかった。
峠のような長く緩やかな坂が続く島枝坂。ここを一直線に進めば最短で家に辿り着ける。数十メートル以上ある上り坂を前に、そっと深呼吸。
準備、もとい覚悟は出来た。
さん、に、いち、スタート! まずは第一の上り坂。ここが難所だ。長い坂が続く上、傾斜はそこそこある。続いて第二の上り坂だが、ここは第一に比べればそこまで長くない。
……第一よりも更に急な斜面なだけで。
だが、その二つを乗り切れば後は下り坂の連続なので楽勝だ。これなら十一時には余裕で間に合う。
両手を広げ、笑顔で坂道を駆け下りるイメージも浮かんでくる。
完璧だ!
俺が馬鹿だった。
早くも第一の上り坂で息が切れそうである。速さには多少の自信はあるのだが、体力には人一倍自信がないことを忘れて……はいなかったけども、甘くみていました。
だがここで諦めてはいけない。
乱れた呼吸を整え、再度駆け上りに挑戦しようと意気込んだそのときだった。
両耳が、聴覚が反応した。
ふと聴こえてきた謎の音。いや、声、歌声? どこから? 手を添えて耳を更に澄ませてみる。
姿は見えないが、どうやらもっと高いところから女性が歌っているようだ。特に左耳が敏感に反応している。
左方向には草木の間に作られた木製の上り階段があり、その先には島枝神社という小さな神社が存在する。控えめ、というか人目のつかない場所に建てられているため、参拝客が全くいない。
とにかくそこに歌声の持ち主がいるみたいだ。歌の練習でもしているのだろうか。
ってそんなこと考えている場合じゃない! この急ぎの状況、さっさと帰ろうとしたはずだったのだが、自然と足が階段を上っていた。思考よりも身体が先に動いたんだ。
――まるで、歌声に惹かれるように。
一段ずつ上る毎に音量が増していく。まだ歌声は俺よりも高いところにいる。
この安心感はなんだろう。まるで歌声が俺を包みこむような感覚。俺よりも上で歌っているからか? 上から歌声を被せてくるからこんな感覚に陥るのか?
なら、同じ位置からだとどんな感覚に……
歌声が更に近くなる。間違いない。神社で誰かが歌っている。日本語じゃない。英語? でもない。何語だろうか。
ようやく階段を上り終えたとき、熱々だったあんまんは程よく温くなってしまっていた。
何十段あるんだこの階段。全身が痛い。だがこれで、やっと同じ高さから歌声を聴けるはずだ。
乱す息を整えて辺りを見回してみる。
そして、左を向いたとき。
心が震えた。
見間違いだろうか。いま俺が目の前にしている光景は、まるで演奏会そのものだった。
三人用のベンチが舞台、照らされた月の光と外灯は照明、そして、舞台の上に立ち、スポットライトを満遍なく浴びて独唱している少女が、歌手。おおかた俺は観客で、この階段は観客席といったところか。
だが、この演奏会は観客が一人では物足りないほど、もったいないほど心を、魂を、強く、荒く、激しく、優しく、揺さぶられた。
なんだ? この感覚は。正直、なにを歌っているのかさっぱりわからない。あまり音楽には興味がないはずなのに、何故だか俺は、舞台に立つ見知らぬ少女の演奏に見惚れて、聴き惚れていた。
同じ高さでほんの数メートルの距離のはずなのに、少女の歌声は俺よりもさらに高く、月まで届くじゃないだろうかというぐらい遠くへ奏でられていた。
まっすぐ、そして高く、力強く、頭の中まで少女の音が響いてくる。
それがやけに心地良くて、気持ち良くて。
観客である俺の存在に気付くことなく少女の演奏は続く。常に目を見開き、小さな身体を大きく見せようと動かし、その姿は必死という言葉が似合っていた。
貶しているわけではない。一所懸命、そしてのびのびと、歌を届けようとしている意志が、骨の髄まで隅々まで伝わってくる。言い過ぎかもしれないが事実だ。初めての感覚だった。
少女はまるで星のようだった。俺よりも高いところにいて、光輝いて、歌声を空に響かせて、人の心を動かして。
演奏が止んだ。少女がそっと口を閉じてからの数秒後、風が吹き乱れた。少女の肩までの長髪が思い切り煽られる。
それはまるで、大歓声のごとく。
それでも少女は微動だにしない。ただ正面を向いて、遠くの景色を眺めているだけ。俺は拍手をしようか迷っていた。もしも少女が誰にも聴かれたくなかったとしたらどうしようか。
……その割には階段の最下段まで歌声が聴こえていたが、まさかそこまで届くとは予想していなかったのかもしれない。この時間帯なら余計にだ。
黙って帰るか。気付けばもう十一時を過ぎている。胃が痛い。もうどうにでもなれだ。
ありがとう、名も知らぬ少女。歌声一つでこんなにも心が揺さぶられるなんて思いもしなかった。君なら間違いなくプロになれる。プロになったらいの一番にサインをもらいに行くから、またそのときまで!
勝手に上手くまとめた気になり、いざ帰ろうと階段を下りようとしたときだった。
舞台上から、一瞬なにかが光った。
さっきまでの少女の輝きではない、もっと何か禍々しい、鋭く尖った物。
ナイフだった。
少女は銀のナイフを両手で握り、刃を自分の方へ向けていた。両腕をしっかり伸ばし、自身もしっかり直立して。
その刃の先は――ノド?
おい、なにをする気だ? 声が出ない。さっきとは違う意味で心が揺れ動く。全く心地良くない、びくびくした鼓動。
ちょっと待て。声が出ない。足が動かない。止めたいのに、止めさせたいのに、何故動かない。緊張と不安が俺を縛り付けていた。
少女とナイフの距離は確実に縮まっていく。腕が震えているのがわかる。
どうやらまだ決心がついていないようだ。だが、それでも前進はしている。
このままだと、ノドに、刃が、
おい、ふざけんなよ。なにとんでもないことしてくれてんだ。声を出せ。動け、動け! お前、人の心動かしといて、今度は違う意味で動かすつもりかよ、ふざけんな!
双方の距離は数センチ。これはもうナイフの勢い次第でマイナス距離になる間合いだ。
そうなったら、少女は。
待ってくれ、ふざけんな、ここで俺が動かなかったら、あいつのノドは、あいつの歌声は、俺の心は!
早く、叫べ!!
「ッアンコール!」
ノドに力を込めた叫びとともに、肌身離さず持っていたあんまんを少女に投げつけた。あんまんは勢いよく一直線に飛び、少女の顔面にデッドボール。
中身はつぶあんだった。
「ひぁ!?」
声にならない叫びが聞こえた。思わぬ声援と贈呈品に、少女は何が起こったのか理解出来ていない。顔にあんこが若干ついていることも気付いていない……両腕を狙ったつもりがなんてことだ。
あんまんが当たった拍子に、ナイフが地面へ転がった。少女は咄嗟の出来事に固まっていた。
いましかない、俺は急いでナイフを回収しようと走った!
転んだ! 勢いよく地面へダイブするその姿は、まるで少女に近づきたくて舞台の前まで急接近する興奮した観客の図。いろんな意味で痛い。地面が土でまだ助かった。
「な、なに? 誰?」
視界に俺の姿が入ったのがきっかけで我に返る少女。口元にあんこをつけながら、怪しいものでも見るかのように。ベンチから降り、二、三歩後ずさる行動が警戒心をより露わにしている。
当然の反応だ。いきなりあんまん投げる奴に対して心開く奴はいない。
「へ、変質者! 変態!?」
ふざけんな。確かに変な行動はしたが変態ではない。変質者でもない!
「違う、断じて違うからな!」
「じゃあなに! こんな時間にお参りにでもしに来たっていうの?」
お参り?
ああそうか、ここは神社だった。入口の鳥居よりもだいぶ離れているからすっかり存在を忘れていた。まだここは境内の範囲でないはずだし。
立ち上がって付着した土を払って言い返した。
「違うって、俺は……」
言い返そうとしたものの言葉が思い浮かばない。どう説明すればいいものか。こういうとき説明が長いとややこしくなるし、若干興奮気味な相手は落ち着いて聞いてくれないだろう。
ほら、携帯取り出してるし。絶対一一〇押すつもりだ。
「俺は……えっと……」
おそらく一を二回押している。いかん。なにか手短に、一言で理解してもらう言葉は……焦ると余計ごちゃごちゃになる。
「俺は!」
もうこうなりゃ勢い任せだ!
「俺は、お前のファンだ!」
空気が凍るとはこのことを言うのだろうか。少女も硬直し、俺も凍った。
とてつもなく、恥ずかしい、です。
『午後、十一時、八分丁度を、お知らせします』
携帯から時報が淡々と流れてくるのが、またなんともシュールだった。