料理長ディックはただ笑う
第一巻発売記念
ちょくちょく出てくる料理長のお話です。
時系列としては『養父と養女は一蓮托生』の後のどこか。
――あれはもう随分前、十年以上前になるのだろうか。
『この城で生き残りたければ、疑問に思うな』
それが当時の料理長であり、恩師であるその人が最初に教えてくれたことだった。
シェンゼ王国の北の辺境。千年以上在り続ける地。
由緒はあれど冬には雪で閉ざされるこの土地は、公にはしたくない悪意が育むのに丁度良い場所だったらしい。
いつの頃からは知らない。少なくとも俺の祖父母が若い頃からそうだったと聞いている。
領民を自らが肥えるための餌だとしか思わない者がこの地を治め、それに追従する者達が領民から何もかも搾り取る。
何十年もの間悪意を育み、深く蝕まれたこの地で、城に勤めるのは自ら危険に飛び込むようなものだった。
それでも城に勤めたいと願う者が居続けるのは、単にまだその方が生きられるからだ。
まともな商売をしようものなら、誰かしらの悪意によって引きずり降ろされる。
領地の外へ逃れようとしようものなら、誰かしらの悪意によって全てを奪われる。
そもそも泥水を啜らなければ今日すら生きられない。そんな土地。
だからこそ道を踏み外してしまうか、道を踏み外さずにいられる生き方を選ぶしかなく、俺は後者を選んだ。
幼い頃の俺は、この地に生まれた人間にしては随分と恵まれた環境にあったと思う。
祖父の代から営んでいる食堂で、父が温かな料理を作り、母が腹を空かせた客へ料理を届ける姿をいつも見ていた。
叔父が商人をやっていたのもあって、幼い頃から様々な食材に触れることができて、自然と料理をするようになっていった。
だから、叔父が行方知れずになり、両親が流行り病に罹って死んだ後、独りになった俺は料理で生きる他なかった。
当時俺のように生きるために城へ来た人間は大勢居た。
配属される場所によっては、非道なことであれ強いられるとわかっていた。
それでも皆、生きるためにこの城に来て、死と罪と隣り合わせになりながら生きる道を選んだ。
その中で俺はきっと幸運だったろう。
実家が食堂だったと知られていて、すぐに厨房へ配置されたから。
そして料理長だったあの人が、俺の父と友人だったから――
「料理長ぉ? 鍋吹いてますよぅ」
「おっと、わりぃ」
料理長、そう呼んだ同僚の声に止まっていた手を動かす。
多少吹きこぼれてしまったが、この程度であれば問題ない。
火を調整し、鍋をかき混ぜ調理を続ける俺に、同僚は少し呆れた様子で続けた。
「調子悪いんなら休んだらどうです? なんだっけ、『だつぶらっくきぎょう』? ってのを目指してるって話ですし」
「おー、気が向いたらなー」
「聞きゃしねぇ」
長年一緒にいる仲だ。俺がどう答えるかもわかっていたに違いない。
軽く聞き流した俺に対し、けらけらと笑った同僚はそれ以上追及などせず、自分の作業へ戻っていく。
昨夜、新しい領主様に呼び出されたのを知っているだろうに、何も触れないのは俺と同じ教えを受けていたからだろう。
ちらりと周りを見れば、最近入ったばかりの若手がこちらを気にする素振りを見せていて、俺は沸々と沸騰し続ける鍋へと視線を戻し、小さく息を吐いた。
――単純な話だ。
以前行われた一斉摘発で、捕まった者の中に俺の叔父を知る者がいたらしい。
どうやら商売の過程で犯罪に加担してしまったようで、そのまま利用していたらいつの間にか消息を絶っていたという。
領主様は生死を確認したわけではないため、一縷の望みに賭けるのならば捜索も視野に入れる、と言ってくださったが、俺はすぐに断った。
学のない自分でもわかっている。きっと俺に伝えられた情報はそう大っぴらにしてはならないものの一つだ。
それでも、たかが料理人の親族の情報が得られたからと、伝えてくれた優しい領主様。
厳しく恐れ多い方だと思っていたのに、その心は俺の知る貴族とは全く違う、民を思う優しいお方。
俺は、舌が肥えているのだと、味が濃く見た目が派手なだけの料理を好んだ前領主しか知らなかった。
いくら城の者達が腹を空かせていようとも、自分に出される料理に満足いかなければ料理ごと皿を投げつけてくるような貴族しか知らなかった。
同じ貴族でありながら、何故ここまで在り方が異なるのか。何故あの領主はああなったのか。何故あの方はこの地に来てくださったのか。
そう疑問に思いかけて、跳ねた熱湯に顔を顰めながら生まれかけた疑問を押し殺した。
貴族の在り方なんて大層なこと、自分のような何の力もない人間が疑問に思ったところで何にもならない。
疑問に思ったところで、自分を苦しめる毒になるだけだ。
目の前で料理を捨てられても、味が濃いだけの料理を美味いと言われても、疑問に思ってはならない。
自分達が調理した量よりも遥かに多い量のアムイが消えていても、疑問に思ってはならない。
この城で起きた出来事を疑問に思い、誰かへの不審を抱いた者は、すぐに消えていくのだから。
昔、俺には同期が三人いた。
一人はとある文官が腹を空かせた民の目の前で不味いからとパンを踏みつぶしたことに怒りを抱いて。
一人は不自然に消えているアムイについて調べるようになって。
そうして姿を消してしまった同期達に対し、残ってしまった俺達は、何も疑問に思わないことを選び、ここまで生き延びた。
俺達は料理人だ。ただ毎日料理を作り、誰かが満足するものを提供するだけの存在。
限られた食材からあの男が満足する料理を作り、他の者達にはせめて少しでも腹を満たせるものを作る。それが俺達がここで定めた在り方だった。
しかしあの方が領主となってから、何もかもが変わり始めた。
あの小さなお嬢様が厨房に来られるようになってから、何もかもが変わり始めたんだ。
普段から調理の音で騒がしい厨房で、いつもと違う騒がしさが広まりはじめたのを感じ、同僚と目配せする。
手早く作業を済ませた同僚と立ち位置を代わり、軽く手を拭きながら入口へと向かえば、慌てている若手の影から小さなお嬢様がひょっこりと顔を出した。
「ディックー、来たよー」
「へいお嬢様! ようこそ厨房へ!」
どうやら今日のお供は従者殿らしい。
シド殿を連れ、にこにこと子供らしい楽しそうな笑顔で手を振るお嬢様に、料理長ディックとしての笑顔を作り歓迎する。
本来であれば厨房のような使用人の仕事場に貴族の方が来てはいけないそうだが、幼いお嬢様からすればそんなの気にすることではないのだろう。
どう対応したら良いのかと戸惑っている若手に、自分の作業に戻るよう手振りだけで指示を出し、俺はいつもよりご機嫌そうなお嬢様に視線を合わせるべくその場に屈みこんだ。
「それで、今日はどういったご用件で?」
「今日はねー、ベーキングパウダーみたいなのが手に入ったから、ホットケーキっていうの作ってみたいんだー」
「ふむふむ『べーきんぐぱうだー』に『ほっとけーき』ですか」
「そーなの。えっとね、ふっわふわで甘めのパンみたいなのなんだってー」
「そりゃあ美味そうですね! すぐやりやしょう!」
恐らくシド殿が持つ瓶の中にある粉がべーきんぐぱうだーとやらなのだろう。
ほっとけーき、とは、以前聞いたケーキという菓子の一種か。
聞き慣れない名称を繰り返しつつ、これはあくまでも誰かから聞いたものなのだと言いたげな幼くも聡明なお嬢様へいつもの笑みで頷き返す。
これでも料理長としてそれなりの研鑽を積んだ身だ。
聞いたことのない食材や料理が気にならないと言えば嘘になる。
けれど、この身に刻まれた教えは、今も俺をそう在らせる。
「材料はどうしましょうか。甘いパンってことならアムイ粉とオルガ糖は必要ですかね?」
「うん! あと卵と牛乳ぐらいかなぁ……道具はボウルとフライパンと泡立て器でいけると思う」
「わかりやした、すぐに用意しますんで少々お待ちください!」
「お願いしまーす」
元気で明るい子供の声が厨房に響き渡る。
大人ばかりのこの城で唯一といって良いその声に、誰もが頬を緩ませたことだろう。
湖で倒れていたところを領主様に拾われたという齢三歳程度の幼子は、異質なほどに聞き分けが良い。
食堂に来た使用人達の話を聞くに、我儘らしい我儘も聞いたことがないという。
俺達も、こうして時折未知の料理や菓子を作って欲しいと頼まれるが、それは子供の我儘にしては俺達に得が在り過ぎるもの。
一体その小さな体に何を秘めておられるのだろうか。
それとも、あの方のようにその身に宿る才覚がそうさせるのか。
領主の娘として、貴族の娘として甘やかされて然るべき存在だというのに、こちらの言った通り大人しく待ってくださっているお嬢様の視線を感じながら必要なものを手早く揃える。
そして最後にお嬢様専用にと用意した踏み台を置いて、お嬢様へと振り向いた。
「準備できましたよお嬢様! 今日もよろしくお願いいたしやす!」
「こちらこそよろしくー」
知るつもりはない。知ろうとも思わない。
例え時代が変わろうと、例え周りが変わろうと、俺は変わらないと定めている。
あの人の教え通り、何も疑問に思わず、ただ主の求める料理を作り続ける。
しがない料理人がこの方達にできることなど、それぐらいだとわかっているから。
──だけど、もし叶うのなら。
知らない料理を知りたい。作ってみたい。食べてみたい。
そうしていつか、貴女が心から満足する料理を作って差し上げたい。
そんな願いを抱いて、俺は今日も何も知らずに笑うのだ。
こんな感じの書き下ろしが収録された第一巻が発売中です。
もし見かけましたらお手に取っていただけると幸いです。




