使用人ヘレナは暗がりで願う
第一巻発売記念
クラヴィス達がノゲイラに来る前のお話です。
――幼い頃、村にいた老婆が良く言っていた。
『生きることを諦めないで』と、『未来を諦めないで』と。
『私達はまだ、見捨てられていないから』と。
最期までそう語り続けていたあの人は、何故あれほど希望を抱いていたのだろうか。
こんな土地に、未来なんてないだろうに。
その証拠とばかりに廊下の向こうから聞こえてきた声に、私は使用人らしくすぐさま通路の端へ寄って頭を下げた。
「ったく、なんで俺達があんな仕事しなきゃいけないんだか」
「ホントにな。あれぐらいヴェスパーにでもやらせとけば良いのにさ」
「まったくだ」
何か気に入らないことでもあったのか。
ちらりと様子を窺えば、苛立った様子の文官様が二人、大きな足音を立ててこちらへと向かってきている。
できればどこかへ逃げたいけれど、この距離でそんなことをすれば余計に目に付いてしまう。
だからせめて目を付けられないように。気に留められないように。
ただそこに居るだけの存在になれるように、息を殺してその場に佇む。
けれど、そんな足掻きは無意味だったらしい。
床しか映っていなかった視界に男性物の靴が入り込んで、小さく肩が揺れてしまった。
「おい」
「……は、い。何か御用でしょうか」
「付いて来い」
今までは何とか逃れられていたけれど、そう幸運は続かないのだろう。
声が詰まりそうになりながらもなんとか決められた通りの返事をすれば、淡々と命令が告げられる。
付いて行けばどうなるか。どんな目に遭うか。
今まで見て来た全てがその答えを示していて、拒絶の言葉を紡ぎそうになる唇をぐっと噛みしめた。
「こいつにするのか? こんな痩せた奴じゃ大して楽しめないだろ」
「あのなぁ、俺達は出遅れてるんだぞ? どうせ良いのは早い者勝ちで埋まってるって」
こちらのことなど一切気にせず好き勝手飛び交う言葉の数々に、震える手を握り締める。
憂さ晴らしに殴られるのか、それともこの身を暴かれるのか。
どちらにせよ、ここで目を付けられてしまった以上、私はもう受け入れるしかないんだろう。
本当は今すぐ逃げ出したい。
でもここで応じなければきっと殺されてしまう。
だってこの人達にとって私達平民の使用人なんて、いくらでも替えの効く存在でしかないのだから。
私も、どこかに打ち捨てられてしまうのだろうか。
今までこの城にいた多くの平民達がそうだったように。
誰にも見つけてもらえないまま、どこかで朽ち果ててしまうのだろうか。
――そう諦めていたのだけれど、こんな暗闇にも僅かな光は届くのだろう。
「そこの二人、ちょっと良いかな」
柔らかくも圧のある声に、文官様達がハッとした様子で振り返る。
遅れて私も端へと寄って再び頭を下げるが、そんな私のことなど見えていないかのように、声を掛けて来た政務官様――ティレンテ様が書類を手に文官様お二人へと近付いていった。
「どうかなさいましたか? 書類でしたら先ほど届けさせたはずですが……」
「そう、そのさっき提出してもらった書類なんだけど……いくつか不備があってね。
悪いけど一から書き直してもらえるかい?」
「い、一からですか!?」
顔を見合わせる文官様達に構わず、ティレンテ様は持っていた書類の束をお二人へと手渡す。
ちらりと見えてしまった書面には赤字がいくつも書き込まれていて、内容こそ理解できなかったものの相当な不備があったのが窺える。
「こんなに……!? でも、いつもならこれぐらいは……!」
「どうにかしてあげても良かったのだけど、これだけ誤差が多いと後が大変でねぇ。
特にこれは君達の署名があるものだから、一度やり直してしまった方が良いと思って」
「……別に誤差があったところでここでは問題にもならないのですから、良いのではありませんか?」
きっとこの人達は問題にならないのなら何をしても構わないと思っているのだろう。
赤字ばかりの書類を見て、酷く面倒そうな声色で食い下がる文官様。
それに対し、ティレンテ様は穏やかな微笑みを浮かべて一歩文官様達へと近付いた。
「……これはあくまでも噂だけれどね、王都で何やら動きがあったらしい。
まだ詳細も何もわかっていないが、どうやら誰かを王都から派遣しようとしているそうだ」
「まさか、ノゲイラに?」
「さぁ? そこまでは。ただ『随分と大物らしい』という噂だけさ」
本当に噂しか知らないのか、それとも何か知っているのか。
私も気になるけれど、文官様達はもっと気になるのだろう。
文官様の追及にティレンテ様はただ肩を竦める。
「まぁ騒ぎになるほど大層な人物なら、こんな辺鄙な土地に送られることはないだろうけれど、少し気を付けておいた方が安心だろう?」
そう締めくくったティレンテ様に、文官様達も諦めがついたのだろうか。
何か言いたそうな雰囲気はあるものの、お二人はそれ以上は食い下がることなく書類の束を受け取る。
そしてすぐに視界から彼らの足先が見えなくなって、近くにあった人の気配が遠ざかっていって。
助かった、と吐息が零れそうになったところで、ティレンテ様が不意に声を掛けてきた。
「君、ちょっと良いかな?」
「は、はい……!」
話の流れから、きっとこのまま去るのだろうと頭を下げたまま待っていたのだが、一体どうしたのだろうか。
恐る恐る顔を上げれば、ティレンテ様は小さく溜息を吐き、困ったように後ろの方を指差す。
「今、手は空いているだろうか? 空いているのならあそこの彼を手伝ってきてほしいんだが」
指差された方向に視線を向けるとそこには良く見知った作業服姿の男性が居て、安堵から声が漏れてしまいそうになるのを必死に抑え、再び頭を下げる。
まだ近くでこちらを見ていた文官様達から顔を隠すためだったけれど、ティレンテ様は了承と受け取ってくださったのだろう。
その場にいる全員に聞かせるようにもう一度溜息を吐いたティレンテ様は、誰かが口を挟むのも許さないかのように言葉を続けた。
「どうやら家具が壊れていたそうだ。
状況から察するに、先日起きた酔っ払い達の諍いのせいだと思うんだが……領主様もお使いになるものだから急いで片付けないといけなくてね」
確かに一昨日、酒に酔った文官様達が騒いで城の一室が散らかってしまったことがあった。
すぐに同僚達と片付けたはずだけど、見落としがあったのだろうか。
もしそれが本当なら、早く片付けないと片付けられなかった私達が処罰されてしまう。
「詳細は彼が知っているから、急いで行ってあげておくれ。
領主様がお気付きになる前に綺麗にしておかないと、我々まで怒られてしまいかねない」
「わかりました……!」
物が無くなったところで気付かない事もある領主様だが、我々の不始末に気付けば何をされるかわかったものではない。
ティレンテ様が緩く手を振ったのを合図に、一礼してその場を後にする。
そしてできる限りの早足で示された方向へ向かえば、顔を強張らせた幼馴染が私を迎え入れた。
「ゼフ……!」
「ヘレナ……! とにかく今は行こう……!」
私があの場を離れられたことに安心したのか、一瞬ホッとした様子を見せたゼフ。
その様子に何だかこちらも力が抜けそうになるけれど、その前にゼフが私の手を取りぐっと引っ張っていく。
「ここなら……」
そうしてゼフに手を引かれるまま廊下を駆けて。
辺りを軽く見渡し、そう呟いたゼフが近くの部屋へと飛び込むように入り込む。
私もそれに引き込まれ、どこかわからずに入ったけれど、どうやら倉庫だったらしい。
窓から射し込む光だけが仄かに照らす室内で、ゼフが扉を閉じた音を聞いた途端、足から力が抜けて行った。
「ヘレナ!? だ、大丈夫か……?」
「な、なんか力が抜けちゃったみたい……」
倉庫の中に居るのが私とゼフだけだからだろうか。
先程までの緊張が一気になくなり、ついその場にへたり込んでしまった私に、ゼフも慌てた様子でその場に膝を突く。
ドクドクと鳴る胸が煩くて、呼吸もちょっぴり荒くなってしまうけれど、今はここでへたり込んでいる場合ではないだろう。
心配そうに私の周りを彷徨っていたゼフの腕を掴み、立ち上がろうと足に力を入れ直す。
「それより、壊れた家具はどこ……!? 早く片付けないと……!」
「あれはあの方の嘘だから! 焦らなくて大丈夫だから、な!?」
「そ、そうなの……?」
上手く力の入らない体に焦りながら、重い腰を少し上げられたところで、ゼフの言葉にまた力が抜けていく。
確かに文官様達からしたら自分達の不始末でもあるわけで、深く追求しにくい話題だったろう。
あの時あの場から私を離れさせるには丁度良い言い訳だったということか。
本当に、あの方にはいくら感謝しても足りない。
そう、面と向かっては伝えられない感謝を祈り、やっと深く息ができたところで、私を支え続けてくれている腕をそっと撫でた。
「……ゼフが呼んでくれたんだよね? 本当にありがとう」
偶然ティレンテ様が書類の不備を見つけて、偶然あの二人を探していた。
そんな奇跡みたいなこと、自然と起きるとは到底思えない。
だからそう確信をもって感謝を伝えれば、ゼフは眉を下げて小さく頷く。
「ヘレナが無事で良かった……」
ぽんぽんと私の肩を優しく撫でるゼフ。
その手と声の温かさに、何かが融けていくような気がして。
「ずっと、こうなのかな」
ぽつりと、小さな呟きが零れ落ちる。
「私達はずっと、こうして怯えながら生きるしかないのかな」
ただ生きたいだけだった。
生きる道を求めてこの城に来た。
でも結局、どこも変わらない。
城の外で飢えて死ぬか、城の中で殺されて死ぬか。
私達にはそのどちらかしかない。
「……変わることは、無いのかなぁ」
吐き出した息と共に、小さく言葉がぽろぽろと零れ落ちていく。
それはきっと、この城にいる多くの人が抱いている願いだろう。
それはきっと、このノゲイラに生きる多くの人が望んでいる未来だろう。
それでいて、叶わないと諦めてしまっている夢なんだろう。
それまで黙って寄り添ってくれたゼフが、そっと私の手を握る。
幼い頃はそんなに変わらなかったのに、いつしか随分と大きくなってしまった彼の手は、あの頃と変わらず温かくて。
「変わって欲しいな……」
「……変わって欲しいね」
優しく私の手を包むその手を握り返し、二人、小さく呟き合う。
――そう、薄暗い倉庫の中、二人で祈った願いがもうすぐ叶うことになるなんて、この時思いもしなかったのです。




