バレンタインデーのお返しですよ。
「で、どうして、円じゃなくて俺なの?」
悠は、神様お願いポーズで自分を見つめてくる妹を見降ろした。
明日はホワイトデー、そのお返しに作るものを何かを教えてくれと言うのだ。前日が休日になったのも言い出した切っ掛けの一つだろう。
だいたい、なぜ女の子である妹がホワイトデーのお返しをするのかが、悠には判らない。母などは一緒になって楽しんでいたが、意味不明だ。女子高生とはそういうものなんだろうか。
「円ちゃんは本格的なものしか教えてくれないんだもん」
環は頬を膨らませる。
「簡単なものだって作れるくせに、今回は嫌だっていうんだもん。それに出かけてしまってるし」
「なるほど」
確かにそれは筋は通った話ではある。円は製菓全般が好きで得意だが、自分は簡単なものしか作れない。そんなに凝ってないが美味しいものが、悠の得意分野なのだ。
「友チョコのお返しにそんな本格的なものなんて引いちゃうし、第一私には無理。簡単で美味しくて、みんなが喜ぶものがいいのよ」
「それくらいなら、おまえだって作れるだろうに」
母はある程度の家庭料理と、ごくごく簡単なお菓子作りだけは伝授してくれた。それは兄妹三人すべてに対してで、だから環も作ることはできるのだ。
「新作を持っていきたいの!」
「なるほど」
悠は納得した。少なくとも、環の言い分は、理解できる話ではあった、という意味で。だからと言って、願いをかなえられるかは別の話だ。
「理解はできたが、教えられるようなものはない」
「えー? そんなー!」
抗議の声を上げる妹を、悠はしみじみと見つめる。
「環は知ってるよな、俺とおまえは、同じようなものしか作れないって」
「きっと、私の知らないものがあるはず…!」
悠は期待で目をキラキラさせている妹を、申し訳なさそうに見て
「ない」
「ひーどーいー」
「ひどくない」
きっぱりと言い切って、だが捨てきれないのが悠だった。
「…諦めて、円に本を借りて来い。にーちゃんが、一緒に作るから」
環は満面の笑みを浮かべたのだった。
「ううう。寒いねえ、鉄子」
三月も半ばになったというのに、今日はとても寒い。だというのに、鉄子の足取りは弾むようだ。ほぼ水平に上げられたしっぽが軽く左右にふわふわするのがとても楽しそうに見える。
「まあ、仕方ないか」
結局、あーだこーだ言いながら作ったのは、ナッツの入ったココアマーブルと、ごくごくプレーンな二種のカップケーキだった。
「可愛い……」
焼きあがった小さなケーキたちの粗熱をとるためにテーブルの上に置かれているのを、環はうっとりと見つめ、「味見、味見…」と騒ぐ環を、兄は追い出したのだった。このまま目の前に置いてじっと我慢させるより安全だと考えたのは丸わかりだ。
「でもさあ、持ってかなきゃいけないのに、そんなに食べたりしないよねえ」
鉄子に話しかけながら歩くのはいつものことだ。
少し迷いながらも選んだ道は一時間コースだ。と言っても、一時間コースも何種類もある。田崎家の方針で、散歩コースは決めていない。家を中心になるべくたくさんの道を歩いて、鉄子に道を覚えさせるようにしている。何かあって迷子になった時も、家に帰れるように。犬の帰巣本能に安易な期待をかけるつもりはないのだ。
「帰ったら味見だねー」
味見と書いて「お茶」と読む、と環は心の中で呟く。
カップケーキは、円の持っていたレシピ集の中から、比較的手順が簡単で出来上がりに差が出にくいものを選んだのだ。良い選択だったと、ほくほくしてしまう。
環は、味見をして、美味しくなかった時のことは考えていない。
「あ、鉄子のは、別にね」
鉄子に食べさせるには問題のある食材を使っていることを思い出す。カカオは心臓に悪いし、砂糖もバターも多い。鉄子も食べられるお菓子を作ることもあるが、せっかくのホワイトデーなら、ちょっと体に悪いお菓子のほうが、贅沢な感じがするのだ。これは仕方ない。
だから、鉄子には食べられないよ、と説明する。犬が、人間の言葉を理解できるとかできないとか、環には関係ない。理解できなくても、説明したほうがいい、と考えているのだ。
それは母も言っていたことだった。犬にはたくさん話しかけなさい、と母はよく言っていた。そして、言ったことには責任を持ちなさい、と。判らないからと嘘をついては、犬と会話ができなくなるから、と。
環は、何故か犬と意思の疎通に苦労しない。でも、母の言うことはよく判るのだ。
犬を良く見ること、観察することは当たり前のこととして、多少一方通行でも話しをすること。そうすると、犬はその言葉や調子を覚えるのだ。犬は、相手をよくよく観察する生き物だ。どんな表情で、どんな気持ちで、と、そんなことを見て学習する。その機会を与えることが、よりよい関係を作ることになるのだ。
犬を室内で飼うことの利点はそこなんだと、母は力説していたものだ。
室外飼いを否定はしない。だが、そばに置いて、良いことは良いと伝え、悪いことは悪いと伝え、話しかけ、互いに考えを読み取ろうと努力するのには、室内飼いのほうが向いている、と。
「トイレの躾ができて、いろんなイタズラをしないようになったら、室内でも全然苦労しないのにね」
ときおり話しかけられる内容に、鉄子はチラリと視線をくれるだけだ。理解しているのかするつもりがないのかも判らない。でも、それでいいと思う。
「苦労するのは長くても最初の一年くらいなのに」
犬の一生はその十倍以上なのに、どうして人はその一年の努力ができないのか。環は不思議でならない。でも、それを言葉にすることはない。
「難しいねえ」
小さく息を吐いて、環は背筋をしゃんと伸ばした。
そして、さくさく歩いて帰ろう、そう鉄子に話しかけた。
「ただいまー」
ドアの開く音がして、環の声がした。しばらくして、フローリングの床に爪の音が響いて鉄子が姿を見せる。
「鉄子おかえり」
まっすぐに悠のところまでやってきて挨拶をするので撫でてやると、今度は円の所へ挨拶をしに行く。円も軽く頭を撫でてやると、それで満足したように、窓際の自分の場所へと行って水を飲んだ。
「あ、円ちゃんだ。おかえりー、ただいまいー」
台所までやってきた環は円の姿をみつけて声をあげる。
「おかえり、ただいま。コーヒー入れるよ。味見しようか」
円がにやりと笑ってカップケーキを指す。
「う……」
見た目は良い出来だが、味にうるさい円には食べてもらいたいような食べてもらいたくないような複雑な気持ちの環なのだ。
悠はくすりと笑って、戸棚からマグカップを取り出す。
「うん。俺も食べたい」
「うー」
うなる環も、最終的には承諾し、コーヒーの香りが漂う頃には、食べることへの興味の方が勝っていた。
その様子を見て、悠もカップケーキに手を伸ばした。
直径五センチほどの小さなカップケーキは、バターケーキの生地を使ったもので食べやすい。ナッツとココアマーブルはココアの苦さがコーヒーによく合った。もう一方のプレーンタイプは普通はオレンジの皮がすりおろされて入っていてこちらはこちらでなかなか爽やかだ。
「うん、いいんじゃない」
「ほんとう?」
円の言葉に、環はがばっと顔を上げた。
「カップケーキにしたのが正解だよね。見た目が可愛いし、小さいから食べやすい」
悠が言えば円もうんうんとうなずく。
「見た目がプレゼントに向いているって点で、八〇点。それでこの味なら、貰ったほうも満足すると思うよ」
「そうかー。ありがとう」
環はほっとしたように頬を緩めた。
「うん。頑張ったね。そしたらご褒美に、ラッピングの材料はわけたあげよう」
「え?いいの?」
「うん。貰ってなお嬉しいように、可愛くラッピングしような」
料理は目でも食べる、という言葉を悠はふっと思い出す。食事のときは、悠もそれなりに気を遣う。いろどり、食べやすさなど。でも、ラッピングという発想はない。やはりそこが違うということなのだろう。
「円ちゃん、ありがとう」
まだもう半分のカップケーキを食べていた円に抱きついてて感謝の意を示す妹に笑いながら、悠は晩ご飯の支度のために立ち上がった。




