レモンパイ
環が帰宅すると、レモンとバターの香りが家じゅうに充満していた。
「あ!」
レモンパイだ、と環は心を弾ませる。それこそ、もともとは母のレシピで、円が国産のレモンを入手した時に作ってくれるものだ。甘くて酸っぱくてレモンの風味が残っていて、彼女は大好きなのだ。
軽くスキップするような足取りで台所へ向かうが、そこには誰もいない。それどころか、テーブルの上にはレモンパイもない。
「んー?」
首を傾げていると、足元で鉄子が自己主張を黙ってしていた。目は口ほどに物をいい、を実践している犬なのだ。
「あ、鉄子、ただいま。円ちゃんはー?」
がしがしと撫でて、環はコートを脱ぎながら各部屋を回ることにした。その後を鉄子が爪の音をさせながらついてまわった。
一通り家じゅうを回って誰もいないことと、レモンパイもどこにもないことを確認した環は、頬を膨らませて椅子に座った。
傍らに鉄子がキレイなオスワリをして、ヤカンは火にかけられていた。
(このレモンとバターの強烈な香りの中、じっと待ってるなんて、拷問以外のナニモノでもないよー)
冷蔵庫も開けた、円がいつもしまっている戸棚も確認した、もちろん円の部屋も確認した。
焼いたのはプレゼント用で家用のものは無いなどとは、環は考えない。どんなお菓子を作っても、彼は必ず家用のものも用意するからだ。
お湯がしゅんしゅん沸いてきて、環は仕方なく立ち上がった。
レモンパイはないのにお茶を飲まなければならない辛さに耐えながら、急須を用意する。レモンパイにはコーヒーが合う。だが、コーヒーを飲む気にはならない。
(うなぎ屋さんの前でごはんをかっ込むんじゃないんだからさー)
環の心の中は、玄関を開けて家の中に入った時から、レモンパイへの期待でいっぱいになっていたのだ。
さっくりしたパイ生地に、酸味の効いたカスタードと、甘酸っぱいレモンのマーマレード。口に入れた瞬間に口の中に広がるレモンの風味がなんとも言えないのだ。
(あああああ、ヨダレがー)
思い出しては流れてない涙を拭う。
心の中で滂沱の涙を流しながら、用意をするのはほうじ茶だ。ここはもう、違う方向に進むしかない。
(せめて、ほかのお菓子がー)
一通り探している最中には、当然別の茶菓子も探した。というか、目に入らないわけがない。それもないとは、未だかつてない事態だ。
(そうだ、これは緊急事態だ)
どんな時でも、なにがしかのお茶菓子がある我が家において、と環は気付いた。
(え、ちょっと…)
誰もいない家、用意されていないお菓子…
(ええっと…、何かメモとかあったっけ?)
先程の探索活動中のどこかでメモを見つけただろうか…。
思い出しながら、環は急須に茶葉を入れる。湯を注いで蓋をして、再度家中を一周して置手紙を探した。
だが、そんなものはどこにもなかった。
(え、やだ。なんで…)
環の脳裏に朝からの出来事がよみがえる。普通に起きて、出かけて、高校に行って、友達と話して遊んで勉強もして、帰宅して。そのどこにも前兆はなかったはずだ。
(なんでなんでなんで…)
どうしてこんな事態に陥ったのか。と、環は泣きたくなった。
(私、何か悪いことしたっけ…)
茶菓子が用意されていない、ということは、家用の茶菓子が用意できないような事態が発生したということではないかと、環は考えた。しかも、置手紙まで用意できないような事態だ。
(え、ええと…)
こんな事態をまったく想定してなかった彼女は、こういう時にどうしたら良いかまったく判らない。
そもそも環は末っ子で、必ず誰かに構われて生きてきた。母はどこか抜けている人だったが、兄たちはそれをフォローできるくらいにはしっかりしていて、置手紙がないようなこともなかった。
こんなふうに放り出されるようなことは、今まで生きてきた十八年間なかったのだ。
急に襲ってきた不安に押しつぶされそうな気持ちになりながら、環は鉄子を抱きしめた。
鉄子は神妙な遠い目をしていたが、ぎゅっと目をつぶっている環は気付かない。が、ふん、という鼻息が聞こえて環の心につきささった。
「鉄子、ひどいよー。どうしたらいいんだよー」
自分の方に載せた鉄子の顎をどかせて、目を覗き込む。が、鉄子はそれから目を微妙にそらした。
「ひーどーいー」
再びがしっと抱きついて、うわーん、と泣きだす。
何かあったと思うのに、どうしたらいいか判らないという不安の持って行き場が判らなくて、とうとう本物の涙が溢れてきた。
ひとつぶこぼれたら、次から次へとこぼれだした。
「うー」
泣いていても、なんにも解決しないことは判っていたが、溢れてくる涙を止めることはできない。次から次へと不安がやってくるのだ。
仕方ないので、環はもうこのまま泣くことにした。
しゃくりあげる声が台所に響く。それをどこか他人ごとのように聞きながら泣いていた環は、ふっと我に返った。
「ごめん、鉄子。ありがとう」
とりあえず、鉄子を解放する。彼女の首筋に顔をうずめるようにして泣いていたため、変に濡れているのを、ポケットからハンカチを取り出して拭きながら、頭を軽く撫でた。すると、彼女はぶるんと体を震わせた。そのいつも通りの仕草に、心が少し落ち着いた。
「よし、大丈夫。まだ連絡とってないから、電話ができるし、夕方まで待ってから困ってもいいし、本当に困るのはまだ早い」
思いついたことをとにかく言葉にしてみる。
(うん、大丈夫)
手のひらで頬の涙を拭って、深呼吸をする。
(うん)
鼻をすすって。
「よし、大丈夫」
そう呟いた時、ドアの開く音がした。
「ただいまー」
円の声だった。いつも通りの声に、微妙な疑問を覚えながら、環は玄関の方を見て円が姿を現すのを待った。そして姿が見えたところで、
「お……かえ……り…」
声をかけた。
円は環の様子を見て少し驚いた顔をして足を止め、台所の中を見渡した。
「どうしたんだ?」
円が声をかけているのを無視して、鉄子は定位置の窓際に移動してフセの姿勢になる。
それを目の端で確認しながら、環は床に座り込んだまま手の甲でまなじりを拭った。
「円ちゃん、レモンパイ…」
言いたいことはたくさんあったのに、環の口から出てきたのはその言葉だった。
結局、レモンパイはオーブンの中に入っていた。
円はお菓子をオーブンの中に入れっぱなしにすることはめったにしない。オーブンの中に入っていれば時間が来て切れても温度はかかり続けて焼き過ぎになってしまう。天板の上でさえ、載せっぱなしにしておけばオーブンから出しても温度はかかり続ける。だから、作るものによって、取り出すタイミングや、天板からおろすタイミングを変えているのだ。
レモンパイは、環の中では早めに取り出すもので、まさかそんなところにあるとは思いもよらなかったのだ。
そして円は大笑いしていた。
あまりにも酷い顔をしている環を椅子に座らせて、落ち着かせるためにコーヒーをいれてレモンパイを切り(ほうじ茶は出過ぎの上にすっかり冷めていたので始末され、レモンパイが出てきた時には環は大騒ぎをした)、話を聞きだしたのだ。その途中から吹き出して、終わる頃には息も絶え絶えといった調子で笑い続けている。対照的に環は不機嫌な顔でコーヒーをすすっている。
「だって、こんなこと初めてだったんだもん」
切り分けてもらったレモンパイをフォークで小さく切りながら口に運ぶ。
口の中にひろがるレモンの香りを堪能してから、頬を膨らました。
「うん、ごめんごめん」
円は素直に謝った。……已然笑いながらではあったが。
円が言うには、レモンパイはやはり二つ焼き、そのうちの一つを届けに行ってきたらしい。オーブンに入れていた理由は、ありえない存在を台所で発見したから、とのことだった。いつもの戸棚では隙間から入り込むことができそうだし、テーブルの上は論外。冷蔵庫には魚が入っているため一緒に入れたくなくて、残る安全な場所というと、オーブンの中くらいしか思いつかなかったのだそうだ。運よく庫内の温度も下がってきていたので、問題なかろうと実行したのだそう。
「それで、その、アレはどこに…」
単なる偶然が重なっただけであると理解した環は、見過ごせない事実について確認することにした。
いわば諸悪の根源。
(ヤツさえ出てこなければ、私はレモンパイを食べながら幸せにひたってたのに!)
とは、逆恨みがかってはいるが環の本心だ。
だが、一匹見たら三十匹いると思え、と言われるようなイキモノだ。「そうだったの、それは大変だったね」で済ませるわけにはいかない。きちんと調べて、今後出会うことのないようにしなければならない。
「あ、それは大丈夫。ちゃんt始末したから」
と、円は胸をはったので、環はそれは信じることにするのだった。