新章1-2 新橋の涙と、国境の壁
新橋の涙と、国境の壁(後編)
成田からの長いフライトを経て、サユリとマナブが降り立ったのは、ニューアーク・リバティ国際空港だった。
新橋の湿った暑さとは違う、アメリカ東海岸の乾いた風が肌を刺す。
休む間もアプリ配車のタクシーに乗り込み、ニュージャージー州のビジネス街にある中堅法律事務所『グレイソンファーム』へと向かった。
「よく来たね、サユリ」
会議室で2人を迎えたのは、仕立ての良いスーツを着こなした日系アメリカ人弁護士、パトリック・山田だった。
大学時代の日本のキャンパスで見せていた少年のような笑顔には、今や連邦法を戦うタフな法律家としての鋭さが備わっている。
「急な依頼でごめんなさい、パトリック。でも、あなたしか頼れなくて」勿論、成功報酬も約束していた。
「水臭いな。僕たちの仲じゃないか」
パトリックはそう言って、サユリが日本から持参したアンディ・ファイファーの詐欺立証データを素早くめくり始めた。
アメリカでの弁護士資格を持たないサユリは、この地ではパトリックの「パラリーガル(法律事務員)」
そして被害者キリコの「法廷通訳人」として動くことになる。
深夜二時。会議室のテーブルは、膨大な英文の資産凍結申立書(TRO)の書類で埋め尽くされていた。時差ボケと疲労で、サユリの視界がわずかに霞む。
「サユリ、少し手を休めろ。……はい、これ」
パトリックがオフィスのミニキッチンから持ってきたのは、大きめのマグカップと、小さなガラス容器だった。
フタを開けた瞬間、スパイシーなクミンの香りと、トマトの甘い匂いが広がる。
「これ……チリコンカン? それに、このプリン……」
サユリの目が丸くなった。ガラス容器の中には、少し不格好に固められた手作りのプリンが、ほろ苦いカラメルソースを纏って揺れている。
「忘れたのかい? 君が疲れた時は、いつだって甘いプリンが必要だった」
パトリックは懐かしそうに目を細めた。
「大学時代、よく学校帰りに『しながわ水族館』に行っただろ。あの巨大なトンネル水槽の下で、ウミガメや魚たちを見上げながら、お互い法律家になる夢を何時間も語り合った。……あの時、君が『緊張すると甘いものが食べたくなるの』って笑ってた。
だからあの日の夜、僕のアパートで初めて君に作ったんだ。一線は越えないって決めてさ。
僕たちの、あのプラトニックな青い季節の思い出の味だ」
サユリは胸が締め付けられるような愛おしさを覚えながら、スプーンを口に運んだ。
卵の濃厚な甘みと、あの頃と全く変わらないカラメルの苦味。そして、ピリッと辛いチリコンカンが、冷え切っていたサユリの身体の芯を劇的に温めていく。
「美味しい……。パトリック、あなた、あの品川の地下鉄の駅で『いつか僕がビッグな弁護士になったら、サユリを支えるよ』って言った約束、本当に守ってくれたのね」
「当然さ。あの水族館の青い光の中で、僕は君の横顔を見て決めたんだ。……さあ、エネルギーは補給できた。ニューヨーク連邦地裁をあっと言わせる書類を仕上げよう。アンディ・ファイファーに、新橋の、そして品川の意地を見せてやるんだ」
パトリックの力強い言葉に、サユリの瞳に「新橋のジャンヌ・ダルク」の鋭い光が完全に戻った。
かつての純粋な絆の記憶を燃料に、2人のリーガルバディが、ついにアメリカの法廷の門を叩く。




