第9話 人生初の美容院に行く
俺はアナン君からのLIN〇を24時間待ち続けていた。
その時点で、俺からそれ以上のアクションを起こすことはできなかった。待っている時間は途轍もなく長かった。俺が今できることは自身のアップグレードだ。そう決意すると、まずは服を買いに行くことにした。俺は普段金を使わない人間だから、東京に引っ越してから、服を買いにわざわざ出かけるのは初めてだった。
道を歩いている間、俺はずっとマスクの下でにやにやしていた。
俺はあの子によく思われたくて、部屋もバスルームもきれいに片付けて、服も靴も新しく買いなおそうとしている。それまで生きていて、人によく思われたいという観点が全くなかったから、恋は人を変えるということに改めて驚かされた。
しかし、俺の体温が沸騰寸前なのに、あちらはすっかり冷めているみたいだった。
でも、いいじゃないか。これをきっかけにファッションに目覚めて、こぎれいになれば彼女ができるかもしれない。
いや。俺はあの子がいい。あの子は俺にとって特別な存在なんだ。全身がほてり、胸の中を温泉みたいな熱い物が流れていた。
俺に足りなかったのは人生経験だ。
人との関わり。
恋というものだったんだ。
何て世界が違うんだろう。
恋をしたことがあるかどうかは、童貞か非童貞か以上に大きいものなのかもしれない。恋と言っても、二次元相手ではなく、現実の相手がある恋だ。
俺は始まってもいない恋愛のことで頭がいっぱいで、道行く人にぶつかりそうになりながら、上野駅の構内を歩いていた。
上野で服を買うなんてその時点でちょっとずれているのかもしれないが、結局予算がないから、ファストファッションの店に行くことにした。
今は10月。セールはまだやっていないだろうな。冬物は夏物と比べて高くつくが、一緒にアウターも買おう。
上野の街をうろうろしていた時、たまたま通りかかった美容院があった。ガラス越しに見ると、俺とは正反対の小じゃれたイケメンたちが暇そうに店の中をうろうろしていた。空いてそうだ。おれは髪を切ることに決めた。
美容院に行くのは初めてだったが、レジにいたイケメンが「今からでも大丈夫です」と言った。オレンジ色の茶髪。顔も中性的で色白。モテそうな感じだった。服もセンスがいい。背は平均くらいか。なぜイケメンは美容師になりたがるのか…。ナルシストだからに違いない。
俺はてっきり、レジにいたイケメンが俺の担当になると思っていたのだが、予想に反して若い女の子がやって来たのでひどく緊張した。年は俺と同じくらいの20代前半。髪は肩につかないくらいにウエーブしていて、小顔で色白。目が大きくて笑顔がかわいかった。巨乳ではないが、普通に胸がある女性。彼氏が羨ましい。脳内に変な映像が流れそうになるのを必死で押し殺した。
「よろしくお願いします」
俺は軽く頭を下げた。始終おどおどしていたが、その子は愛想が良く、ずっと笑顔で話しかけてくれた。
「学生さんですか?社会人?」
「あ、学生です」
「今日はお休みなんですか?」
「は、はい」
俺も愛想笑いする。大学で会う女の子たちと違い、営業スマイルで会話もテンポがいい。しかもおしゃれで美人。高学歴の男は女に対して知性を求める人もいるかもしれないけど、俺は絶対こっちの方がいい。
「もう4年で講義がほとんどないんで」
「えー。大学ってそうなんですか?私専門学校なんで」
絶対俺なんかに興味ないと思うが、ずっと笑顔で話を聞いてくれる。あー、いいなこういうの。心なしかいつもより滑らかに喋れてる俺。
かわいい女の子に髪を撫でられ、櫛でとかされてるなんて信じられない心地で興奮してしまった。恥ずかしくて目線を下にしていたけど、時々、鏡越しに美容師さんをチラ見していた。色白で肌がきめ細やかで、髪は茶色できれいにウエーブしてて、まるで雑誌から出て来たみたいだった。
この子の彼氏…いいなぁ!
その人は本当にプロ根性の座った人で、髪を触っている間もずっと微笑みを絶やさなかった!
そして、シャンプー台へ。
ここで最悪のことが起きてしまった。
不覚にも勃起してしまったのである。
顔から火が出るほど恥ずかしかった!
俺はとっさにケープの両端を持ち上げて目立たないようにごまかした。
多分、ばれていないと思いたい。
そしてヘアカット。
美容師さんがずっと喋ってる。
俺は今まで生きていて、女の子とそんな風に喋ったことがなかった。
この人、俺よりカウンセラーに向いてるわ。
喋りながらもカットの手は休めないマルチタスクの鏡。
素直にすごいなと思った。
1000円カットの店は基本無言。
ずっとそれが楽だと思っていたけど、美容院のホスピタリティは金を払ってもいいくらいの快適さだった。
「〇〇さんに似てるって言われませんか?」
「え、全然」
誰かの名前を言ったが聞き取れなかった。
「一緒に眉毛整えませんか?そしたらもっと素敵になると思う」
「一応、値段教えてもらえますか?」
「プラス500円です」
「じゃあお願いします」
俺は今まで眉毛を整えるなんて考えたことはなかったが、せっかくだからやってもらうことにした。
目をつぶって眉をカットしてもらっている間、俺はもう一回勃起してしまった。
まるでキスをする寸前みたいな気持ちになった。
ケープが椅子のひじ掛けにかかっているので多分ばれていない…と思いたい。
次に目を開けた時、鏡に映った俺は数段垢ぬけていた。
「絶対〇〇に似てますよ!かっこいい」
俺は噴き出す。今まで生きて来てかっこいいなんていわれたことはなかった。
もしかしたら彼女できるんじゃないか!
俺はすごく前向きな気持ちになった。
髪型も完璧だ。
髪型だけならテレビに出てるイケメン俳優とかわらない。
いつもより5割増しくらいにイケメンに見えている気がした。
「すごい垢ぬけました。別人級」
俺はふと不安になった。
「セットとか苦手で」
「ワックスで毛先をふわふわって遊ばせてあげれば再現できますよ」
「ふわっと?」
「そう!」
俺の心もふわふわした。
「また来てくださいね」
女の子が笑った。
「な、名前聞いていいですか?」
俺はとっさに言った。俺すごくない?
自分でもびっくりした。
イケメンになったら自信はつくし、行動も大胆になるもんだ。
「前澤です」
「じゃあ、次来るときも…」
「はい。お待ちしてます」
ビッグスマイル。可愛すぎた。
前澤さんが出口まで送ってくれる。
「ありがとうございました」
キャバクラとかだったら、相当課金しないといけないけど、美容院だと5000円くらいでかわいい子と喋れて、髪も整えてシャンプーもしてもらえる。なんてお得なんだ!俺はまた行こうと決意していた。
しかし、店を出た瞬間、あの子にキモがられてるんじゃないかと急に怖くなった。俺が非モテの童貞だってことは、喋って5秒でわかるだろう。もう、行かない方がいいかな…。なら次は違うところに行けばいいんだ…。
いや、その美容院の担当が男だったら…あの楽しい時間を経験できない。
また行くんだ!そして経験値を上げろ。
それが天からの声だった。
俺はそのまま服を買いに行った。御徒町に某ファストファッションの系列店がまとまっているでかいビルがあった。そこでしこたま服を買い、その足でアメ横に靴を買いに行った。
俺はその日異常なほど散財しまくっていた。
俺はイメチェンするんだ!
しかし、このまま大学に行ったらみんな引くだろうな。
大学に行くときは、今まで通り髪はぼさぼさで今までの服で行こうか…。
一瞬、弱気になる。
空気のように地味で目立たない大槻君が色気づいていると笑われるだろう。
それでもかまわない。俺は生まれ変わるんだ。
上野にいる間は、アナン君の存在も、俺がこれからSMをやらなくてはいけないことも忘れていた。




