プロローグ
「これ、読んでください!」
俺は一瞬たじろいだ。
目の前に突然差し出された白い封筒。
その瞬間、目の前がスローモーションになった。
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あの日。
すべてが唐突だった。
俺はどこにでもいる平凡な大学生で、常々目立たないように暮らしていたはずだった。
大学でもバイト先でも、可も不可もない空気のような存在を演じていた。
俺はいつも通りに駅から商店街までの道をふらふらと歩いていた。
学生風の若い男の通行人として、完璧に周囲に溶け込んでいたに違いない。
自信があった。
そんな何気ない感覚が俺を安心させていた。
商店街は何年経っても何も変わらない。
毎日見ていると、店もショーケースも古びて汚れていくのに気が付かない。
自分が日々老いていくのと同様だ。
その単調さと安心感が停滞する舞台に、俺は埋没していた。
あの日も異常に安い揚げ物が、店先のテーブルの上に山のように積まれていただろう。
古い油で揚げた茶色い唐揚げ。
体によくなさそうなのに週3回くらいは買ってしまうあれだ。
和菓子屋の団子はほとんど作り置きされないのに、数個しかショーケースに飾られていない。
店先には誰もいない。
客も来ない。
店主は店の奥にいてテレビでも見てるんだろう。
そんな店ばかりなのになぜか潰れない。
俺はバイトに行って家に帰る途中だった。
時間的には午後4時くらいだったろうか。
家に帰ったら今日こそ学術書を読むんだと万年同じことを心に誓いながら、その前にちょっとドラマでも見て気分転換しようとぼんやり思っていたに違いなかった。
商店街の往来では、いつものように夕飯の買い物をする主婦やお年寄りが俺の進路を邪魔するように進んで来た。
俺はぶつからないように無意識に避けた。
俺は道を譲るタイプの至って穏健な人間なのだ。
斜め前から足音が聞こえた。
革靴でコンクリートブロックを走ってくる音。
電車に乗り遅れそうになってる人のそれに近かった。
その音が、俺の目の前で急停止した。
うっつ。
宗教の勧誘かセールスか…そんな感じかなと身構えた。
とにかく断るんだ、俺は飛んできたボールを打ち返すように身を固くした。
高校の制服を卒業したら、数限りなく出くわす現実だ。
成人して社会から無条件に保護されなくなるという立場。
その閃きは1秒もないほど一瞬のものだった。
しかし、次の瞬間、俺の脳内で認識されたのは、制服姿の《《男子》》高校生だった。
「これ、読んでください!」
真っ白で繊細な手から差し出されたのは、白い封筒だった。
几帳面な性格を表すように、クリスマスカードみたいにきれいに封がしてあった。
は?
その子は商店街の近所にある、某名門高校の制服を着ていたが、ジャケットもズボンもしっかりアイロンがかかっていて身ぎれいだった。
そして、男でもドキドキするくらい顔のかわいい子だった。
目が大きくてニキビが一つもない肌はアイドル並みに整っていた。
は?
うつむき加減で真っ赤な顔をして、震えているが気の毒なくらいだった。
どうして俺ごときに?
それに、君は男だろう?
俺は言葉が出て来なかった。
しかし、差し出されたものは受け取ってしまう、貧乏人の性で俺は反射的に手を差し出してしまった。
そして、なんでもかんでも、常に口に出してしまう、ありきたりな言葉。
それでいて、いい人を演出できる魔法の言葉を呟いた。
「ありがとう」
俺は何も考えていなかった。
そもそも喋るのが大の苦手だった。
俺にはそれが精いっぱいだった。
それは…ラブレターに違いないのに。
俺なんかに?
どうして!
どうして俺を知ってるんだ?
非モテで目立たないド陰キャの俺に。
なぜ…賢いイケメン高校生がラブレターなんかくれたんだろう?
俺が手紙を受け取ると、「すいません!」と言って、彼は頭を低く下げた。
そして、次の瞬間、彼は脱兎のごとく走り去っって行った。
まるでスリがバッグをひったくって逃げていくように。
彼は何から逃げているのかわからなかった。
俺の反応をその場で見たくないのか?
俺の事、特別に感じてくれているんじゃないのか?
彼の小さくなっていく背中が俺の視力の限界を超えるまで、俺はずっと見送っていた。




