38話『迷い子の選択:B3の分岐点』
B2へと繋がるハッチに手をかけた、その瞬間だった。
研究室の黒電話が鳴った。
唐突で、場違いで、あまりにも“人間的な音”。
この施設全体の呼吸から切り離された、古い時代の残響。
ダリストは動かないまま受話器を取る。
思考ではない。判断でもない。
ただ、反射としての接続。
『ヘンリーか? 実験体が三名、そちらへ向かう』
『ブラックボックスで回収した幼児だ。異形化に失敗すればB10廃棄で処理しろ』
『記録には残すな。いつも通りだ』
通信はそれだけで切れた。
ツー、という単調な断絶音だけが残る。
静寂。
だがそれは“無音”ではない。
何かが、内部でゆっくりと位置を変える音だった。
ダリストの中で、B2への最短経路が自動再計算される。
軍の構造。
上層制圧。
災厄としての進行ルート。
すべては合理のままだ。
変化はないはずだった。
――そのはずだった。
「……幼児、三人か」
言葉だけが、遅れて落ちる。
意味としてではない。
“ノイズ”として。
B10。
廃棄場。
そこは「失敗」が落ちる場所ではない。
そもそも“成功に含まれなかったもの”が最初から沈められている領域。
かつての自分が、わずかでもズレていれば辿っていた場所。
ダリストはハッチから手を離した。
落下するように、思考が一段ずれる。
理性ではない。感情でもない。
もっと低い層。
喰った記憶のどれかが、そこで微かに“鳴いた”。
多足が床を叩く。
反転。
その動きには迷いがない。
だが最適解でもない。
これは戦略ではない。
選択でもない。
ただの接続だった。
腹部の奥で、かすかな共鳴が走る。
アストン。バイオレット。セドリック。A。リナ。J。
それぞれの記憶がバラバラのまま、一瞬だけ同じ方向を向く。
命令ではない。
合意でもない。
ただ“構造的な一致”。
「解析終了」
声は冷たい。
だが、その奥に微かな熱が混じる。
「優先目標を変更する」
ダリストは天井へと沈むように移動した。
翼を畳む。
牙を隠す。
殺意だけが残る。
廊下の奥。
金属音。
車輪の軋み。
何かが“運ばれてくる”。
ダリストは静かに息を止めた。
これは戦いではない。
捕食でもない。
ただ、
――間に合うかどうかの問題だった。
B3・搬送通路
低い駆動音とともに、防壁が開く。
乾いた金属音。
規則的な足音。
三人の幼児。
擦り切れた衣服。
焦点の合わない目。
恐怖が限界を超え、反応そのものを失った“空白”。
泣くという機能すら、もう残っていない。
その周囲を四人の護送兵が囲む。
最新式のタクティカルスーツ。
整備された銃火器。
退屈を隠さない歩調。
「今回の個体、ずいぶん小さいな」
「B10送り確定だろ。いつもの処理だ」
「ブラックボックスのガキはいつもこうだ」
笑い混じりの声。
それは会話ではない。
手順の確認だった。
その瞬間。
天井の“闇”が反応する。
ダリストの赤眼が、静かに開く。
捕食ではない。
解析でもない。
“処理対象の確定”。
兵士の頸動脈。
心拍。
装甲の継ぎ目。
視線の死角。
そして幼児たちの微細な震え。
四本の腕のうち一本が、肩の銃身をそっと押さえた。
不要。
音は不要だ。
この空間は、すでに“終わること”だけを許容している。
ダリストは重力の意味を書き換える。
落下ではない。
侵入でもない。
「死」という結果だけが、最短距離で上から降りてくる。




