第84話 行かない勇気
「俺が行きます」
ロウは、雪のついた外套を脱ぐ前に言った。
肩から雪がバサッと落ち、石床で白く砕ける。
頬は赤い。息は荒い。手袋を外す指まで震えている。
それでも目だけは、もう地図の石橋へ向いていた。
ああ。この顔を知っている。
自分が走れば何とかなる。重い物なら自分が持てばいい。誰か一人が危険を引き受ければ、ほかの人は助かる。
優しくて、真っ直ぐで――だからこそ、止めなければ自分ごと吹雪へ投げる顔だ。
「橋までなら、歩いて二時間です。元冒険者っす。雪道も夜道も経験があります」
大型物流センターの地図板には、最後の地方便を示す札が止まっている。
二時間前、北西の石橋を通過。
御者二人。護衛一人。
荷は、スノーベル村と途中の避難所へ送る保存食、毛布、簡易暖房用の小型魔石。
「中継小屋までは?」
「橋から一時間。馬車が進めないなら、三人だけでも避難できます」
「ロウが迎えに行けば、四人が歩くことになるわ」
「道を知ってる人間が増えます」
「遭難する人も、一人増える」
ロウの目が揺れた。
「でも、待っているだけでは」
「待っているだけに見えるのが、嫌なの?」
ロウの口が止まった。
「……嫌っすよ」
絞り出す声は、怒っていた。
「皆が走ってる。センターも止まった。ハインツたちは吹雪の中だ。それなのに俺だけ暖かい部屋で地図を見て、『風が弱まるまで待ちましょう』って? そんなの、何もしてないのと同じじゃないっすか!」
「同じじゃない」
「俺の足なら行けるかもしれない!」
「その“かもしれない”へ、あなた一人の命を賭けないで!」
声がぶつかった。
私も苦しかった。
救援隊を出せば、“何かをした店主”になれる。止めれば、三人を見捨てたと責められるかもしれない。
それでも、格好よく見えるために四人目を雪へ入れるわけにはいかない。
「待っているだけにはしない」
私は街道観測所の記録を開いた。
行くか、行かないか。
勇気の量ではなく、雪の数字で決めなければならなかった。
◇◇◇
救援隊の出発基準は、去年の宅配規則を広げて作ってあった。
平均風速が秒速十二メートル以上なら、徒歩救援を中止。
目印二本先、約五十メートルを継続して見通せなければ中止。
気温、日没時刻、雪崩警報、避難小屋までの距離も確認する。
「現在の風速は?」
「十五・二。最大瞬間は十九です」
観測員が答える。
「視界は?」
「二十から三十メートル。ときどき十メートル以下」
「基準を、二つとも越えてる」
「平地の観測所です。森へ入れば風は弱まります」
ロウが地図を指す。
「代わりに、枝が落ちる」
警備隊長が返した。
「森を抜ければ、橋までは知った道です」
「雪で道が消えています」
「目印は覚えてる」
「見えない目印は使えない」
ロウは拳を握った。
「基準は、普通の配達員のためでしょう。俺は元冒険者です」
その言葉を、私は前にも聞いた。
村の宅配を始めた日。
四軒の上限を小さすぎると言い、自分ならもっと運べると笑った。
「基準は、弱い人を止めるためじゃないわ」
「なら、何のためです」
「助けたい人が、自分だけは行けると思ったときに止めるためよ」
◇◇◇
ロウは、すぐには納得しなかった。
「御者の一人は、ハインツです」
「知っているの?」
「冒険者だった頃、山道で荷を分けてもらいました。俺が足を痛めたのを隠していたら、何も言わず重い袋を取ってくれた」
「助けてもらったから、今度は自分が?」
「借りを返したいわけじゃないっす」
強い口調のあと、ロウは目を伏せた。
「……たぶん、それもあります」
「助けてもらった時、どんな気持ちだった?」
「悔しかったっす。足を隠したのに、ハインツさんにはすぐばれた。袋を取られて、俺は弱いって言われた気がして」
「実際に言われた?」
「何も。『俺のほうが持ちやすい』って、それだけでした」
「なら、今度は風速表に危険を持ってもらいましょう。あなたを弱いとは言わずにね」
ロウは納得しない顔で数字を睨んだ。
「風速表、口もないくせに偉そうっすね」
「ええ。しかも情に流されない。腹が立つくらい優秀よ」
地図板の札を見つめる。
「俺が行って、三人を連れて帰れば、役に立てる。ここで荷物の数を読むより、ずっと」
「ここで何をすれば、三人が帰れる?」
「それを探しているんでしょう」
「なら、それが今の仕事よ」
「伝令が届かなかったら?」
「届く方法を増やす」
「小屋にいなかったら?」
「最後の位置と移動できる距離から、避難先を絞る」
「けがをしていたら?」
答えられなかった。
ロウは、その沈黙を見逃さない。
「ほら。俺が行くしかない」
「分からないことがあるたび、人を一人、吹雪へ入れるの?」
言葉が強くなった。
ロウの顔がこわばる。
「ごめんなさい。でも、あなたを止める理由は、あなたを役立たずだと思うからじゃない」
私は風速記録を彼の前へ置いた。
「帰ってくる約束を守れない条件だから」
◇◇◇
中継小屋には、緊急用の受信石がある。
通常の伝令石より短い文しか送れない代わりに、吹雪でも地中の中継杭を通して届く仕組みだ。
問題は、センターの主回路停止で、北西中継杭への送信盤も止まっていたことだった。
「地域ハブから送れます」
ゼルドが共通板を開く。
ヴェルナー北倉庫の送信盤は、街道西の杭へ届く。
国境南からは遠すぎる。
港町は嵐の影響で出力が不安定。
『北倉庫、送信可能。文は二十四文字以内、一回につき三分』
「何を送る?」
私はロウへ尋ねた。
「俺が決めるんすか」
「雪道を知っている。ハインツも知っている。今ここで役に立てる人は、あなたよ」
ロウは地図と緊急手順書を見比べた。
「『徒歩移動禁止。最寄小屋で火を守れ』」
「荷物は?」
「捨てていい。毛布と魔石だけ持てる分。馬を外につながない」
「二十四文字を越えます」
送信係が言う。
「二回に分ける。最初は移動禁止。次に持つ物」
ロウは短い言葉へ削った。
『歩くな。小屋へ。荷は捨てよ』
『毛布、魔石、馬も小屋へ』
二つの文が、北倉庫から雪の下の杭へ送られた。
◇◇◇
返事は、三十分たっても来なかった。
「受信石に着いても、誰も小屋にいなければ返せません」
送信係が言う。
「もう出てもいいでしょう」
ロウが外套を取る。
「風速は?」
「十四・八」
「下がってる」
「基準より上よ」
「たった二・八です」
「その二・八を、あなたの気持ちで消さないで」
「たった二・八で、人を見捨てるんすか!」
「たった二・八で、あなたを失いたくないの!」
言った瞬間、部屋がシン……とした。
ロウが目を見開く。
「あなたは救援の駒じゃない。便利な元冒険者でもない。ハインツさんを心配している、私の大事な仲間よ。“行けるかもしれない”だけでは出せない」
「……そういう言い方、ずるいっす」
「命令で止まらないから、店主の本音まで出したのよ。ずるくて結構」
ロウは外套を握ったまま、扉の前へ立った。
警備隊員が二人、目を合わせる。
「止めますか」
「俺は子どもじゃないっす」
「ええ。だから、命令します」
私は彼の名前が入った当直表を指した。
「救援判断担当ロウ。徒歩救援は中止。伝令と避難確認を継続してください」
「俺が担当なら、行くと決められるはずです」
「基準を変える権限はない。私にも」
長い沈黙のあと、ロウは外套を机へ戻した。
「……中止、了解っす」
その返事は、吹雪の音より苦しそうだった。
◇◇◇
最後の位置から、中継小屋までの道を三つに分けた。
橋を渡った場合。
橋の手前で馬車を止めた場合。
横風を避けて、河原の林へ入った場合。
「河原は増水していませんか」
ロウが観測記録を確かめる。
「上流は凍結。水位は平常以下です」
「なら、林へ入った可能性がある。ハインツは風が強いと、馬の顔を外套で覆って木陰へ寄せる」
林に近い別の避難小屋へも、受信文を送る。
街道宿には、三人が到着した場合の温食と治療を依頼した。
翌朝の救援隊は、風速が十未満、視界が五十メートル以上へ二時間戻った時点で出す。
「二時間も待つ?」
「一時的に風が止んだだけで出れば、途中でまた閉じ込められます」
ロウが答えた。
さきほどまで、たった二・八だと言っていた人の声だった。
「救援隊は六人。先導二、医療一、馬担当二、連絡一。全員の装備を今から確認する」
「ロウも行くの?」
「基準が戻れば。戻らなければ、行かないっす」
その一言に、私はうなずいた。
◇◇◇
午前二時十七分、北倉庫から受信音が届いた。
『三名無事。橋手前小屋。馬二』
十九文字。
会議室の全員が立ち上がった。
「けがは?」
こちらから送る。
『ハインツ右手痛。出血なし』
「固定材は小屋にある」
ロウがすぐ手順書を開いた。
『指輪外せ。板で固定。手を高く』
返事。
『了解。火、残り八時間』
「小型魔石は?」
『荷から二個。毛布十二』
避難所用の荷を、三人が生きるために使っている。
「勝手に使ったと責める人はいないわよね」
「いれば、俺が説明します」
「今すぐ説明へ走らなくていいからね」
「室内の荷主へは走っても遭難しないっす」
「あなたの場合、勢い余って外まで行きそうなのよ」
ロウの口元が、ようやく少し緩んだ。
ロウが答えた。
「荷物は、こういう時のためにある」
彼の両手は、まだ机の端を強く握っていた。
それでも、扉へは向かわなかった。
◇◇◇
小屋との連絡は、一時間ごとに行った。
火の残り。
ハインツの手の腫れ。
馬の状態。
三人の意識。
質問を増やしすぎれば、受信石の魔力を使う。
必要な四項目だけを聞き、世間話はしなかった。
午前四時、外では風が十八まで上がった。
救援中止の判断が正しかったと、数字は示している。
でも、ロウは地図板の前を離れなかった。
「休憩して」
「まだ勤務中っす」
「救援判断担当は、二人交代よ」
「眠れません」
「眠れなくても、横になる。判断力を残すのも担当の仕事」
ロウは苦い顔をした。
「昔と同じことを言われてるっすね」
「昔より、責任が大きいから」
「俺が休んでいる間に、連絡が来たら?」
「次の担当が受ける。あなたしか分からないことは、引き継ぎ紙へ書く」
ロウは、ハインツの癖と、林側の道の注意を紙へ残した。
それから、二時間だけ休憩室へ入った。
行かないだけでは足りない。
待つあいだに、自分まで壊さないことも必要だった。
◇◇◇
ロウが休憩室へ入ってまもなく、ハインツの兄がセンターへ来た。
村の狩人二人と、縄、かんじき、手斧を持っている。
「弟の場所は分かっているんだろう」
「橋手前の中継小屋です。三人とも無事。火もあります」
当直担当が説明する。
「なら、今のうちに迎えへ行く。俺たちはこの雪を知っている」
「徒歩救援は中止です」
「役所の隊は遅い。家族を助けに行くのを止める権利があるか」
「弟が小屋で凍えているのに、数字を見て座っていろっていうのか!」
兄は手斧の柄を握りしめた。
「もし火が消えたら、俺は一生、行かなかったことを後悔する。役所も店も責任を取ると言うだろう。でも弟を埋めるのは俺だ!」
その叫びに、誰もすぐ返せなかった。
正しさで殴って止めれば、この人は扉を破ってでも出る。
必要なのは「危険だから黙れ」ではない。弟が今どこで、あと何時間守られ、次にいつ声が届くのかだ。
声を聞いたロウが、休憩室から戻ってきた。
「あります。今夜の救援判断担当は、俺です」
「お前も行く顔をしているじゃないか」
「行きたいっす。でも、風速十八。視界十メートル。小屋にいる三人より、外へ出る俺たちのほうが危険です」
「弟の火が消えたら?」
「残り六時間。小型魔石がもう一個あります。次の連絡は五十分後です」
「それでも、家族なら」
「家族だから、帰ってくる人を一人増やさないでください」
「お前に何が分かる」
「分かります。俺もさっきまで外套を握ってました。止められて、腹が立って、役立たずにされた気分だった」
ロウは自分の外套を指した。
「でも弟さんは火のある小屋にいる。次の連絡時刻も分かる。今出るのは助けるためじゃない。“待てない自分”を楽にするためっす」
「……言うじゃないか」
「自分にも言ってますから」
ロウの声は震えていた。
自分へ言われた言葉を、そのまま他人へ返すのではない。
ハインツの兄が何を恐れているかを聞き、火の残りと次の連絡時刻を渡した。
「待てないなら、ここで一緒に受信を待ってください。弟さんへの二十四文字も、あなたが決めていい」
兄はしばらく扉を見たあと、手斧を床へ置いた。
「『母は無事。小屋から出るな』と送ってくれ」
伝令文が送られた。
返事は短かった。
『了解。兄も出るな』
狩人たちの肩から、少しだけ力が抜けた。
「俺は休憩へ戻ります」
ロウが言う。
「次の連絡は、当直が受けます。異常があれば起こしてください」
自分を止めるだけでなく、助けたい家族を止め、担当を次へ渡す。
それが、今夜ロウに任された責任だった。
◇◇◇
翌朝八時、風速は九・一まで下がった。
視界は七十メートル。
その状態が二時間続いた十時、救援隊が出発した。
ロウは先導ではなく、連絡担当に入った。
「一番前じゃなくていいの?」
「地元の街道員のほうが、昨日の雪崩跡を知っています」
「役に立てる場所を、譲ったのね」
「俺はハインツの返事を聞き分けられる。それで十分っす」
正午前、三人と馬二頭は無事に戻った。
ハインツの右手は捻挫。ほかに重いけがはない。
保存食は雪をかぶり、一部の箱が濡れた。毛布十二枚と小型魔石二個は小屋で使用した。
「損失として記録しますか」
ゼルドが尋ねる。
「使用として記録して。届け先が避難所から、目の前の三人に変わっただけ」
ハインツがロウへ左手を差し出した。
「来なかったな」
「行きたかったっす」
「知ってる。お前なら飛び出すと思って、受信石へ『来るな』と先に送りたかった」
「信用ないっすね」
「信用してるから怖いんだ。お前、助ける時だけ自分の命を安売りするだろ」
ロウが言葉に詰まった。
「今回は、値上げしたっす」
「いくらに?」
「風速十未満、視界五十メートル以上、二時間継続」
「高いな」
「命っすから」
「来てたら、俺が殴って小屋へ縛った」
「右手、痛いでしょう」
「左で殴る」
二人は笑い、左手で握手した。
◇◇◇
帰還のあと、荷主への説明会を開いた。
濡れた保存食は三十六箱。
外箱だけを交換して使える物が二十二箱。中まで水が入り、廃棄が八箱。検査保留が六箱。
毛布と小型魔石は、三人の避難に使用済み。
「なぜ、馬車を捨てて人だけ小屋へ入れなかった」
荷主の一人が尋ねた。
「馬を外へ残せば、凍死します」
ロウが答える。
「馬を入れるために扉を広く開け、雪が吹き込んだ。それで荷が濡れたのでは?」
「そうです」
「商品より馬を優先したのか」
「人、馬、荷物の順です」
ロウは言い切った。
「契約に、馬の救助費はありません」
「では、次の契約へ入れます。馬がいなければ、次の便も運べません。何より、荷物のために生き物を外へ置く判断はしません」
損失は、運送側へ負わせなかった。
街道閉鎖と救援規則に従った緊急避難として、共同基金から先に補償する。外箱の防水不足は製造側、荷台固定の緩みは運送側、到着後の検査は受取側。原因ごとに、再発防止の費用を分けた。
「ロウさんが出発していれば、もっと早く荷を運び出せたのでは」
別の商人が言う。
「俺が着けた証拠はありません」
「元冒険者でしょう」
「だから、吹雪で道を失う怖さも知っています」
ロウは風速表を掲げた。
「俺が行かなかった結果だけでなく、出発を中止した時点の数字で評価してください」
結果が良かったから、行かない判断が正しくなるのではない。
三人が無事でも、もし小屋で事故が起きていても、基準を越えた吹雪へ新しい人を入れない判断そのものを検証する。
荷主たちは全員が納得したわけではなかった。
それでも、救援中止の記録と損失補償案は、同じ紙へ残った。
◇◇◇
救援記録の責任者欄へ、ロウが署名した。
出発中止一回。
緊急文六回。
救援隊出発一回。
帰還者三名、馬二頭。
「何もしていない気が、まだします」
「悔しい?」
「悔しいっす。手を固定したのは本人たち。火を守ったのも本人たち。救援隊の先頭は街道員。俺はずっと、文字を二十四字に削ってただけです」
「“歩くな”の五文字で、三人を吹雪へ出さなかった」
「数字にすると、そうなんすけど。剣の音も、荷物の重さもないから。助けた実感が紙の上にしかない」
私は救援記録を彼の前へ押した。
「なら、その紙をなくさないで。次に吹雪で扉へ走る人を、この記録が止める。今日のあなたは、未来の救援担当まで助けたのよ」
ロウが言う。
「何をしたか、そこに書いてあるわ」
「歩いていない」
「三人を歩かせなかった」
ロウは記録を見つめた。
「行けば助けられる、って考えるのは簡単だったっす。行かないで助ける方法は、ずっと面倒ですね」
「ええ。地図と風速と、待つ人が必要だから」
「次は、俺が誰かへ中止を命じるんすかね」
「もう、今夜の救援隊へ命じたでしょう」
ロウは少し驚き、それから署名の横へ時刻を書いた。
そのとき、スノーベル村への連絡石が途切れた。
吹雪で中継杭が凍り、音が届かない。
「一号店の魔石残量は?」
アンナが最後の報告を確認する。
「通常営業なら六時間。避難所から温食の要請が入っています」
本部の指示は、もうミアへ届かない。
十六歳の店長代理が、自分で店を閉めるか決める夜が来ていた。
ロウが途切れた連絡石を握る。
「迎えに行けない。指示も送れない。……任せるしかないんすね」
「ええ」
答えた私の声は、思ったよりかすれていた。
任せるとは、きれいな言葉ではない。相手が自分とは違う判断をするかもしれない恐怖ごと、鍵を渡すことだ。
無音になった伝令石の向こうで、ミアが何を見ているのか。
私たちはただ、彼女が一人きりで決めなくて済む仕組みを残せたと信じて、待つしかなかった。




