第80話 九十日目の覚書
九十日目の報告書には、金色の表紙が付いていた。
ピカピカ。ツヤツヤ。無駄にまぶしい。
表紙の中央には、三国の印章がドンッ。
その下には『歴史的成功』の飾り文字まで踊っている。
……まだ会議、一秒も始まってませんけど?
何なら百七十六枚の異議票が、隣の机で「こっちも読め」と分厚い圧を放っていますけど?
「外してください」
私が言うと、三者合同事務局の書記が目を丸くした。
「正式条約交渉へ進む記念に、用意したものですが」
「気持ちは分かるわ。とても分かる。私だって成功の文字は金色で囲みたいし、できれば号外も撒きたい。でも、異議票を読む前に『歴史的成功』と綴じたら、今日の会議は表紙に答えを合わせる儀式になるでしょう」
「印刷所には、すでに五十部を発注しております」
書記が、ものすごく言いにくそうに告白した。
「五十部!?」
「予備を含めて」
「予備まで金色! 歴史を祝う前に予算が輝いてるじゃない!」
頭を抱えたくなった。
この世界、偉い会議になるほど表紙へお金をかけたがる。中身の紙を増やして。異議票の返信用紙を厚くして。お願いだから金箔を食べないで、制度!
「まだ、進むと決まっていません」
「評価案は、全項目で合格です」
「誰が作った合格項目?」
「事務局でございます」
「その事務局は、試験を運営した側よね」
書記の手が、表紙の上で止まった。
人間国、魔族国、東方諸国の二路線を使った九十日試験。
書類、封印、検査、異議申立ての共通手順が、本当に働くかを確かめてきた。
運営した人たちが努力したことは知っている。
だからこそ、自分で作った物差しだけで、自分へ合格を出してはいけない。
「金色の表紙は、会議が終わるまで預かって」
アンナが書記から受け取る。
「使えるとよいですね」
「ええ。でも、使わなくても、表紙代は公開してね」
「そこまででございますか」
「そこまでよ」
「再利用は可能でしょうか」
アンナが表紙を光へかざした。
「文字を隠せば、次の祝賀資料へ」
「次も会議前に成功を決める気?」
「では、帳簿の補強材にいたします」
金色の帳簿。無駄に豪華。でも捨てない。そこは大事。
◇◇◇
最初の数字は、通過時間だった。
「二路線、合計百二十七便。検問所の平均滞在時間は、比較期間より二十八パーセント短縮しました」
エドワード・ヴァンホルト外務次官が報告する。
「中央値は?」
「二十三パーセント短縮です」
「最も遅かった便は?」
「東方茶葉便。封印番号の転記欠けにより、十四時間停止」
平均だけなら、ほとんどの便が速くなったように見える。
けれど、十四時間止まった一便にとっては、二十八パーセントという数字に慰めはない。
「重大事故はゼロ」
ガルマ外交副長官が続けた。
「封印不一致九件。温度記録の欠落四件。申告数量の差六件。いずれも封緘区画で停止し、販売前に確認した」
「軽微事故は?」
「荷下ろし中の足首捻挫一件、紙で指を切った者が三名、夜間待機中の体調不良二名」
記録には、すべて勤務復帰までの日数と補償が付いている。
「ゼロと書けるのは、重大事故だけです」
ガルマの低い声が会議室へ響いた。
「安全だった、の一言にまとめない」
「紙で指を切った三人まで、国際会議へ載せるのですか」
書記がためらう。
「載せる」
ガルマは即答した。
「三人とも、書類の束を急いで分けている時に切った。書類が増えた制度で起きた傷だ。小さいから消せば、次は同じ急ぎ方を直せない」
「でも、新聞に笑われるかもしれません」
「笑わせておけ。指を切った者にとっては、痛みも治療時間も本物だ」
ガルマの低い声に、書記は黙って記録を戻した。
数字を大きく見せるために、小さい痛みを丸めて捨てない。
金色の表紙より、ずっと誇れる報告だった。
私は、その言葉の横へ丸をつけた。
◇◇◇
書類不備による差し戻しは、最初の一か月の五件から、最後の一か月は二件へ減った。
ミアが作った対応見本と無料記入補助席。
数字の書き方が違う伝票を、人と読取石で二段階確認する手順。
それらが効いた。
「補助席の利用者は九十日で百八人です」
ミアが言う。
「代筆四十一件、自筆補助六十七件。記入内容の写しは保管していません」
「一件あたりの費用は?」
「人件費と用紙で、平均一・八金貨です」
「利用料を取れば、継続できますな」
税関の役人が提案した。
「利用料が必要になったら、書けない人だけが、共通制度の費用を払うことになります」
ミアが即座に返す。
「読み書きのできる商人も、税金と使用料を払っている」
「大商会は、自社の書記へ費用を払っています。でも、小商人に同じ書記を雇えとは言えません」
「では、誰が負担する」
私は試験の運営費を見る。
封緘区画使用料の一部を、記入支援へ回せる。
ただし、その使用料自体が、次の問題だった。
「補助席の無料継続は決めたい。でも、財源を大商会と小商人へ同じ割合で乗せない方法を考えましょう」
◇◇◇
異議票は、百七十六枚あった。
そのうち百二十九枚が、荷馬車二台以下の小規模業者から届いている。
「一番多いのは、研修費です」
アンナが分類表を示す。
共通票の研修へ一人を出せば、その日は店や馬車を止めることになる。
都市部の会場まで往復二日かかる地域もあった。
二番目は、封緘区画の使用料。
一箱でも百箱でも、最初の受付と検査に必要な基本料金が同じだった。
「大商会にとっては小さな固定費です」
ガルマが言う。
「一箱だけ運ぶ者には、利益の多くを消す」
会議に呼んだ東方の老商人が、ゆっくり手を挙げた。
「私は茶を十二箱運びました。通る時間は短くなった。紙も、今は一人で書けます」
「一人で書けるまで、何枚捨てましたか?」
ミアが尋ねる。
「最初の三日で十七枚です。書き損じの紙代だけで、孫へ土産を一つ買えた」
老商人は苦く笑った。
「『ここは違う』『また数字が逆だ』と言われるたび、わしは商人ではなく、字も読めぬ子どもへ戻った気がしました。補助席の娘は丁寧だった。だから余計に、できぬ自分が悔しかった」
「やめようとは思わなかった?」
「思いましたとも。茶葉を全部、国内市場へ戻そうと。だが、孫が『じいちゃんの茶が魔族の菓子に合うって』と喜んでな。もう一度だけ、と紙を握りました」
便利になった、という成功の裏で、誰かが十七枚ぶん自尊心を削っていた。
その紙屑を見ずに、通過時間だけ二十八パーセント短縮と祝うわけにはいかない。
「では、制度に賛成ですか」
書記が尋ねる。
「便利になったことと、安くなったことは違いますな」
老商人は支払票を机へ置いた。
「前は宿に一泊した。今は、その宿代がいらない。だが、封緘区画と研修で、最初の月は宿二泊分を払った」
「長く使えば、得になります」
「長く商える者なら」
「私は来年も足腰が動くか分からん。年に一度の商人へ、『五年使えば得です』と言われても、五年を先に売ってはもらえませんからな」
老商人の指は、紙の端で止まった。
「一年に一度しか国境を越えぬ者もおります」
◇◇◇
事務局案では、年間利用量にかかわらず、登録研修を必須にしていた。
「安全手順を知らない者を通すわけにはいきません」
エドワードが言う。
「研修を免除しろとは言っていないわ」
「では、どうするのです」
「会場へ来る方法だけにしない」
研修を三つに分けた。
常時利用者向けの半日講習。
年四便以下の小規模業者向けに、最初の通過時に受けられる一時間の実地説明。
文字を読めない人向けに、絵と実演による確認。
「一時間で十分でしょうか」
税関役人が疑う。
「扱える品目と数量を限定します。冷蔵、危険物、高額品は半日講習が必要。乾燥食品や日用品の小口便だけ、実地説明で通す」
「規模によって、安全基準を下げるのか」
「基準は下げない。最初から扱える範囲を狭くするの」
実地説明を受けた人の伝票には、対応できる品目を記す。
範囲を広げたいときは、追加研修を受ける。
「無料で?」
「年四便以下は無料。費用は、利用量に応じた段階料金から出す」
大規模利用者ほど、基本料金ではなく取扱量へ応じて負担する。
小口一箱の封緘区画使用料は、従来の半分へ減免。
損失見込みも、制度案の横へそのまま書いた。
◇◇◇
「小規模減免を入れれば、三国の収入が年間で約八パーセント減ります」
財務官が難しい顔をした。
「正式条約になる前から赤字では、議会を通りません」
「小商人の負担が減っても、制度そのものが潰れれば全員が困る」
財務官は表を強く叩いた。
「私は弱者を切り捨てたいのではありません! 財源の説明もなく『優しくしました』と議会へ持ち込めば、反対派は制度全部を止める。その時に困るのは、今ここで守ろうとしている者たちです」
怒鳴り声には、冷たさより焦りがあった。
「ええ。だから減免する、で終わらせない。誰が追加分を払い、その人にもどれだけ得が残るかまで出すわ」
「数字が合わなければ?」
「案を縮める。でも小商人の異議票を、都合の悪い紙として捨てて合格にはしない」
「大口料金を上げた分を入れても?」
「差し引き四パーセントの減収です」
ヴェルナーが、傍聴席から口を開いた。
「その四パーセントで、小商人が市場から消えなければ、荷の種類は残る」
「大商会が負担する側ですが、よろしいのですか」
「よくはありません」
会場に小さな笑いが起きる。
「ただし、小規模の定義を固定しないでください。大商会が荷を分けて減免を受ける穴ができます」
「よくないのに、賛成するの?」
私が尋ねると、ヴェルナーは眉間へ皺を寄せた。
「大商会に負担を移す、と綺麗に言われれば反対します。我々が効率化で得た利益を、善意で差し出せと言われても腹が立つ」
「正直ね」
「しかし、小商人が消えれば、珍しい茶も地域の薬草も、最後は我々が自前で探すことになる。その費用より四パーセントが安いなら払う。慈善ではなく、仕入れ網への投資です」
「その言い方なら、大商会の議会にも通しやすいわね」
「感謝されるために払うのではありませんから」
まったく可愛くない。けれど、可愛くない理屈ほど長く続くこともある。
「同一所有者、同一荷主、同日便は合算する」
アンナが書き込む。
「名義だけ別会社なら?」
「実質的な支配関係を申告。虚偽があれば、減免取消と差額請求」
「それなら、我々も議論できます」
制度を優しくすると、抜け道が生まれる。
だから優しくしない、ではなく、本当に必要な人へ届く確認を作る。
それもまた、便利を続ける費用だった。
休憩を挟み、費用負担を荷主の規模ごとに並べ直した。
年間百便を越える大商会。
二十便から九十九便の中規模業者。
五便から十九便の地域商会。
年四便以下の小規模業者。
全体平均だけを見れば、試験前より一便あたりの費用は九パーセント下がっている。通過が速くなり、御者の待機手当と宿泊費が減ったからだ。
しかし規模別に分けると、大商会は十四パーセント減、中規模は八パーセント減、地域商会はほぼ同じ。小規模業者だけは、初回研修を含む年では十二パーセント増えていた。
同じ制度の中で、便利になった者と、高くなった者がいた。
私は四本の棒が並ぶ表を見た。
一本の平均線にまとめていたら、最後の短い棒の痛みは消えていただろう。
減免案を当てはめると、小規模業者は試験前より三パーセント低くなる。大商会は十パーセント減に縮まるが、それでも以前より負担は軽い。
「大口料金を上げても、大商会は得を残せます」
アンナが計算を確かめた。
「なら、減免は施しではないわね」
大商会の効率化で生まれた余裕の一部を、共通制度へ参加する入口に戻す。
小商人へ無理に感謝させる仕組みにしない。
さらに、研修参加日の休業損失が大きいという異議へ、巡回講習を追加した。三地域を月に一度、講師が回る。五人以上集まれば、市場の空き室や集配所で受講できる。
講師の旅費は共同基金から支払い、受講者の商売内容は研修名簿から切り離す。競争相手へ取扱品や取引日を知られないためだ。
記入補助席には、利用したことを通過記録へ残さない規則も加えた。
何度使っても、次回から自力で書けと追い返さない。
ただし、同じ欄で三回以上止まった場合は、本人の同意を得て、見本の作り方や説明方法を変えるための聞き取りを行う。
助けを使った人を問題にせず、同じ場所で人を止める説明を問題にする。
その一文を入れたとき、ミアが静かにうなずいた。
◇◇◇
正式交渉へ進む条件として、年一回の公開再評価を加えた。
「条約は、毎年やり直すものではありません」
エドワードが慎重に言う。
「関税や外交条件を、毎年白紙にするわけではないわ」
「では、何を再評価するのです」
通過時間、差し戻し、事故、異議票、事業規模別の費用負担、補助席の利用、研修の到達率。
制度が大商会にだけ便利になっていないか。
無料支援が、名ばかりになっていないか。
公開会議には、三国の役人だけでなく、大規模業者、小規模業者、御者、検査員、購入者代表を入れる。
「評価の結果、条約を止められますか」
「重大な安全欠陥や不公平が改善されない場合は、対象手順の一時停止を勧告できる。ただし、国境そのものを閉じる権限ではない」
ガルマがうなずいた。
「勧告を拒むなら、三者は理由と代替策を公開する」
「数字の良い年だけ発表する祝賀会にはしない」
私が言うと、アンナが金色の表紙を見た。
「表紙の出番が、ますます遠のきましたね」
◇◇◇
午後、三者の代表が最終覚書を一行ずつ読んだ。
一、二路線の共通手順を、正式条約交渉の基礎とする。
二、小規模事業者への使用料減免と無料研修、無料記入支援を継続する。
三、重大事故だけでなく、軽微事故、停止、異議、費用負担を公開する。
四、年一回、公開再評価を行う。
五、関税率、通貨制度、路線拡大、移住・労働資格は未合意であり、本覚書に含まない。
「通貨統一を決めた、と書いた新聞がすでにあります」
書記が小声で言う。
「まだ署名もしていないのに?」
思わず声がひっくり返った。
「どうして未署名の会議が、新聞では通貨まで統一してるのよ! 会議室より記事の中の世界のほうが三倍くらい速いんだけど!」
「見出しには『歴史的』という語も」
「金色の表紙と同じ病気じゃない!」
書記がそっと視線をそらした。そこは反省してください。
「三通貨換算札を、統一通貨の準備と解釈したようです」
エドワードが額を押さえた。
「共同会見の最初に、未合意項目を読み上げましょう」
「成功発表なのに、できなかったことから?」
「できなかったのではない」
ガルマが訂正する。
「今は決めないと、三者で決めた」
通貨は同じ顔をしない。
関税も、国境も、九十日で消えはしない。
違いを残したまま、二路線だけを少し通りやすくする。
覚書が約束するのは、そこまでだった。
◇◇◇
署名の直前、東方の老商人がもう一度手を挙げた。
「一年後の会議に、私どもも来られますかな」
「小規模業者枠があります」
「その枠の者を、役所が選ぶ?」
私は答えかけて、止まった。
役所が話しやすい人を選べば、小規模業者の席は、役所の二つ目の席になる。
「登録業者から候補を募り、同規模の利用者が匿名投票する。旅費は共同基金から出す。それでどう?」
「私が選ばれなくても、選び方は分かりますな」
「ええ。議事録も全員へ送る」
老商人は、自分で書いた共通票を持ち上げた。
「最初の日、私は三枚の紙に、自分が間違っていると言われた気がしました」
会議室が静まる。
「今も、三枚はあります。安くもない。だが、なぜ三枚あるかは分かる。分からぬ時、聞く席もある」
「制度に賛成?」
「次も直せるなら」
それは、金色の合格印より重い条件だった。
私たちは三者の署名欄へ印を押した。
◇◇◇
会見では、最初に未合意項目を読み上げた。
記者たちは少し落胆し、そのあと、正式条約交渉開始の言葉に筆を走らせた。
金色の表紙は使わなかった。
代わりに、通常の灰色の表紙へ、百七十六枚の異議票の公開番号を付けた。
「祝杯はなさらないのですか」
エドワードが尋ねる。
「店で温かい物を食べるくらいは」
「それを祝杯と呼ぶのでは?」
「夜明けの星では、夜食です」
「お祝い用の甘味くらいは?」
ミアが期待に満ちた目で尋ねる。
「……一つだけなら」
「祝いではなく夜食なのですよね」
「夜食にも甘味は必要よ。むしろ必要不可欠よ」
制度の合格は保留でも、九十日を走り切った皆のお腹まで保留にする必要はない。
国境共同店へ向かおうとしたところで、エルデンが駆け込んできた。
顔色が悪い。
「リリアーナ様。冬季の魔石供給予報が届きました」
「大型センターの使用量?」
「センターだけではありません」
冷蔵設備、物流ハブ、各店の照明、暖房、調理補助、連絡石。
夜明けの星と共同店をつなぐ灯りの網全体。
「北方鉱山の採掘量が、予測より三割少ない。最も寒い四十日間、現在の設備をすべて同時に動かせません」
署名したばかりの覚書の向こうで、窓の外に初雪が舞い始めた。
九十日の試験は終わった。
けれど、私たちが増やした灯りを、冬の夜にも全部つけておける保証はなかった。
私は金色の報告書を閉じ、その上へ灰色の供給予報を広げた。
「夜食は延期ね」
誰も惜しいとは言わなかった。
店の暖炉が、パチン、と小さくはぜる。
祝いの席で守ると誓った暮らしが、もう次の判断を求めていた。




