第78話 二つの看板、六か月目
六か月目の朝、暗夜の月の看板に、白い塗料がかけられていた。
夜露の残る石畳へ、白い雫がポタ、ポタ、と落ちている。
翻訳も通貨も返品も、六か月かけて同じ帳簿へ載せた。
その全部を、刷毛の一往復で「吸収された」と決めつけられた。
腹の底が、カッと熱くなる。
「……やってくれたわね」
今すぐ落書きをゴシゴシ消したい。ついでに書いた人を探し出し、「半年分の議事録、最初から全部読んでから出直して!」と机へ積みたい。
議事録は鈍器みたいに厚い。殴らない。徹夜で読ませるだけ。
「リリアーナ様、お顔が少々、処罰を考えておられます」
「教育よ。とても丁寧な再教育」
「徹夜はお勧めいたしません」
『人間の店に吸収された』
魔族国側の入口に、大きな文字で書かれている。
反対側の夜明けの星には、別の言葉。
『魔族へ売った店』
「両方から嫌われれば、公平と言えますかね」
ザインが乾いた声で言う。
「言えないわ」
「ですよね。少しだけ、そう思えば楽になれるかと試しました」
「同じだけ傷つけば公平だなんて、共同店を始めた時には考えていませんでした。私はもっと……両方から必要とされると思っていたんです」
「私もよ」
二つの看板が同時に汚される景色は、見たくなかった。
私は塗料の垂れた看板を見上げた。
今日は、国境共同店の六か月監査。
試験営業を終え、閉店するか、恒久化するかを決める日だった。
「消しますか」
マルクが布を持ってくる。
「写真と位置を記録してから。開店時刻までに落ちなければ、隠す布を掛けましょう」
「客に見せるのですか」
「見せ物にはしない。でも、なかったことにもできない」
ザインが、二つの看板の記録用紙へ同じ時刻を書いた。
「どちらか一方の被害として扱わない。共同の安全記録へ入れます」
六か月前、私たちは問題が起きたときに同じ用紙を開けたことを喜んだ。
今朝も、その約束から始めるしかなかった。
◇◇◇
監査会は、客数の報告から始まった。
「六か月の来店記録、延べ二万八千四百十一人」
リリスが表を掲げる。
「入口札による概数です。人間国側四十八パーセント、魔族国側四十六パーセント、中央市場入口六パーセント。種族とは結びつけていません」
「売上は計画比百二十一パーセント」
マルクが続ける。
大きな拍手が起きそうになり、私は次の表を示した。
「苦情は?」
「百三十二件です」
会場が静かになる。
翻訳の誤り二十七件。照明と音への申告十九件。辛さや原材料表示二十二件。両替と端数二十一件。通関説明十六件。接客十三件。そのほか十四件。
「多すぎませんか」
人間国の役人が言う。
「最初の一か月は四十八件。直近一か月は十一件です」
リリスが答えた。
「減った理由は?」
「苦情を言う人が減った可能性もあります。そこで、匿名票の回収率と再来店の聞き取りも見ました」
匿名票の利用は減っていない。
同じ問題の再発が減り、代わりに、新商品や混雑時に新しい苦情が出ている。
「苦情ゼロではありません」
ザインが言う。
「でも、同じ壁へ何度もぶつかる店ではなくなりました」
◇◇◇
通関時間は、開店当初の一箱平均二十六分から、十四分へ短くなった。
三者共通票と封印番号、責任時刻をそろえた効果だった。
ただし、差し戻しは六か月で三十九件。
冷蔵温度の記録欠け十二件。翻訳された品名の不一致九件。印章の擦れ七件。数量差六件。その他五件。
「差し戻した品は、全部売れなかったのですか」
魔族側の商人が尋ねる。
「いいえ。確認後に三十四件を受領。五件は返送しました」
「なら、三十四件は止めなくてもよかった」
「結果を知ったあとなら、そう言えます」
マルクが答えた。
「止めた時点では、売ってよいと証明できなかった。だから止めました」
返送した五件のうち、一件は冷蔵魔法の切断。
二件は封印された箱の中身が申告と違い、残る二件はアレルギー表示の欠落だった。
「三十四件の遅れと、五件の危険を、同じ失敗としてまとめません」
私は監査表へ線を引く。
「手続きを改善して止める回数を減らす。でも、止めた人を責めて、次の五件を通すことはしない」
店が速くなったのは、止めなくなったからではない。
止めたあと、誰へ聞けばよいか分かるようになったからだ。
◇◇◇
雇用の報告では、拍手は起きなかった。
「人間国側十五名、魔族国側十四名。半年間の退職者は四名」
従業員代表に選ばれたミレナが読み上げる。
「退職理由は、夜勤が体に合わなかった二名、転居一名、接客中の嫌がらせ一名です」
「嫌がらせ?」
「魔族の店員へ、人間の言葉だけを使えと繰り返した客がいました。退店要請をしましたが、その後も市場で待ち伏せをされた」
「何度?」
「確認できたのは三度です。本人は、もっとあったと言っています」
「どうして、その時点で私へ上がっていないの」
怒りで、声が震えた。
「二度目に警備記録へ上がっています。ただ、人間側の通路で待たれた日は人間側へ、魔族側の門まで追われた日は魔族側へ渡されました。どちらも『店外なので共同店の記録ではない』と……」
「店の制服を着て帰る人が、店から十五分の道で追われているのよ。それを線の外へ押し出したら、記録から人まで消えるでしょう!」
机を叩きたくなった。
でも、叩いた音で守れなかった事実が軽くなる気がして、拳を膝へ押しつけた。
「彼女は、最後の日に何と言ったの?」
ミレナが唇を噛む。
「『店の中だけなら、好きだった』と。人間のお客様が魔族語でありがとうと言ってくれた日もあった。でも帰り道が怖くて、閉店鐘が近づくたび、お腹が痛くなったそうです」
好きだった場所を、好きなまま辞めなければならない。
その悔しさを、退職手当の一行で済ませてはいけない。
警備記録には残っている。
けれど、その店員は、店を辞めた。
「安全手順は働かなかったの?」
私が尋ねる。
「店内では働きました」
ミレナは私から目をそらさなかった。
「でも、勤務後の市場通路は管轄外だと、双方の警備隊が相手側の担当を待ちました」
規則の境目に、人が取り残された。
私は言葉を失った。
「本人へ、補償は?」
「退職手当と転居費を店から支給しました。でも、それで戻るわけではありません」
「ええ」
「恒久化するなら、店の外の帰路も共同警備の範囲にしてください。従業員が終業後十五分以内に通る二つの道だけでも」
「警備隊と協議するわ」
「協議できるまで、私たちには恒久化を止める票がありますか」
ミレナの指は震えていた。
「私たちは、この店を続けたいです。続けたいから怖いんです。『ここで止めたら売上が消える』『せっかくの半年が無駄になる』と言われたら、また一人の怖さを後回しにしてしまう。だからお願いではなく、票が欲しいんです」
会場がざわめいた。
ミレナが聞いているのは、意見ではない。
店を止める力だった。
◇◇◇
昼の休憩中、ザインは魔族側の客に囲まれた。
「暗夜の月の商品棚が減っている」
「人間の温かい食事ばかり増えた」
「帳簿も配送も夜明けの星の方式だ。お前は店を売ったのか」
ザインは一人ずつの言葉を聞いた。
「棚が減ったのは、売れなかった商品を入れ替えたからです」
「売れないから捨てるなら、共同とは名ばかりだ」
「売れた人間側の商品も、作り手は魔族です。反対に、暗夜の月の闇菓子は人間国側で売れ、製造量が三倍になった」
「数字で、看板の誇りを測るな」
年配の客が吐き捨てた。
ザインの顔が硬くなる。
「では、何で測ればよいのです」
「お前が決めろ。暗夜の月の店長だろう」
「ずるいですね」
ザインの口から、低い声がこぼれた。
「人間に決められるなと言いながら、決める責任は私一人へ押しつける。私が闇菓子を残せば伝統を守った店長、売れない薬酒を外せば魂を売った店長。どちらを選んでも、皆さんは手を汚さず私を責められる」
年配の客が振り返った。
「客へ、そんな口を利くのか」
「店長だから言うのです。私は暗夜の月を守りたい。でも、あなたの思う魔族らしさだけを守る店にはしません。残してほしい物があるなら、名前を出して、作り手を連れて、売る方法を一緒に考えてください」
ザインの声は震えていたが、目は逸れなかった。
客は返事をせず去った。
勝った空気ではない。
それでも、言えずに飲み込むより、ずっと店長らしい背中だった。
客たちが去ったあと、ザインは看板の下へ座り込んだ。
「私が決めろと言われます」
「店長だもの」
「人間の店に吸収されたと言われる一方で、魔族らしさを私一人に決めろと言われる」
「矛盾してるわね」
「私が選んだ商品だけが魔族文化になるなら、それこそ吸収より傲慢です」
「さっき、怖くなかった?」
「怖かったですよ。次から来ないと言われたらどうしよう、売上が落ちたら従業員へ何と説明しよう、と頭の中は大騒ぎです」
「顔はスン……としていたわ」
「店長ですから」
「便利ね、その店長の顔」
「王女の顔ほどではありません」
外向きの顔の裏は、案外にぎやかだ。
私は、塗料を落としきれず薄く白んだ看板を見た。
「ザインは、暗夜の月を守りたい?」
「守りたいです。でも、変わらない棚を守ることとは違う」
「なら、一人で決めない仕組みにしましょう」
◇◇◇
恒久化案の原案は、夜明けの星本部とザイン商会が、出資比率に応じて票を持つ形だった。
出資は五十対五十。
意見が割れれば、双方が合意するまで決まらない。
「一見、公平でございます」
アンナが言う。
「でも、働く人の票がない」
「安全委員会で意見は聞けます」
私はミレナの質問を思い出した。
「聞いたあと、私たちが決めるのよね」
「はい」
「それでは、帰路が危険でも、売上を止めたくない二者が賛成すれば開く」
ザインが新しい図を描いた。
夜明けの星本部、一票。
ザイン側、一票。
従業員代表、一票。
「出資していない従業員が、経営を止めるのか」
人間側の役人が反対する。
「止めることで損をするのは、働く人も同じです」
ザインが返した。
「賃金の原資が減る。でも、危険を最初に受けるのも働く人です」
「商品変更や利益配分まで一票を?」
「日常の仕入れは店長権限。予算、営業時間、雇用規則、大規模な棚変更、閉店は三者会議。安全停止は、票を数えず誰でもできます」
従業員代表の任期は半年。
人間側と魔族側から一人ずつ候補を出し、全従業員が秘密投票する。代表と副代表は異なる側から選び、次期は入れ替える。
「一人が二つの側を代表できるの?」
私が尋ねる。
「できないでしょう」
ミレナが答えた。
「だから、私の票は『人間と魔族の従業員』の票ではありません。今ここで働く人が、議題ごとに話して決めた一票です」
◇◇◇
安全停止権では、最後まで意見が割れた。
人間国側の警備責任者は、人間側の許可区画だけを止められると主張した。
魔族国側も同じだった。
「片方だけ閉めれば、客が中央通路へ集中します」
マルクが店内図を示す。
「火災や群衆事故では、半分だけ止めるほうが危険です」
「他国側の営業許可へ干渉できない」
「干渉ではなく、共同会社の契約として止めるのです」
ザインが二枚の許可証を机へ置いた。
「どちらかの側で停止条件が満たされたら、店全体を一時閉店する。再開には双方の安全確認が必要。人間側にも、魔族側にも、一方だけで止める権利を残す」
「悪用されたら?」
「停止理由と時刻を公開し、あとで監査する。でも、止める前に相手の同意を求めない」
私は大型センターの赤信号を思い出した。
止める者が、正しかったと先に証明しなければならない仕組みでは、警報より会議が遅い。
「売上目的の虚偽停止なら、監査後に責任を問う。それでも、危険な一回を通すよりいいわ」
両警備責任者は、渋い顔で同じ条文へ署名した。
◇◇◇
採決の直前、ミレナが動議を出した。
「帰路の共同警備が決まるまで、恒久化へ賛成しません」
役人たちがざわめく。
「試験期限は今日です。延期すれば、明日から営業できない」
「分かっています」
「従業員も賃金を失う」
「分かっています」
「怖くないの?」
私は尋ねた。
「怖いです! 今夜の賃金がなくなる人もいる。お客様に『従業員がわがままを言ったから閉まった』と恨まれるかもしれない。私だって、本当は誰か偉い人に決めてほしいです!」
ミレナの声が会場へ響いた。
「でも、止める票が欲しいと言ったのは私です。最初に使うのが怖いからって引っ込めたら、次に危ない目に遭った人へ『制度はあります』なんて言えません」
ミレナの声は震えていた。
「辞めた人に、次は守ると言いました。今日ここで急いだら、あの人へ嘘をつくことになります」
私は採決札を置いた。
「夜明けの星本部も、延期に賛成します」
「リリアーナ様」
アンナが私を見る。
「明日の売上は失う。でも、働く人の票を作る会議で、その最初の反対を無視したら、票は飾りになる」
ザインも札を置いた。
「暗夜の月側も延期に賛成です」
その日の夜、店は開かなかった。
いつもなら二つの入口から漏れる灯りが、今夜はない。
暗い店先を見た瞬間、胸がギュッと縮んだ。
一晩ぶんの売上。仕込み済みの食材。待っていた客。積み上げた来店習慣。
休業札一枚の後ろで、金貨が羽を生やして飛んでいく。あああ、待って。せめて廃棄になるスープだけでも戻ってきて!
……と叫びたい経営者の私を、もう一人の私が首根っこで止めた。
ここで開けたら、従業員の票は開店飾りになる。
看板の灯りを消し、入口に理由を掲示した。
『従業員の帰路安全について合意できていないため、本日は休業します』
客から苦情は十六件届いた。
そのすべてに、再開見込みではなく、協議の進み方を返した。
◇◇◇
翌日の午後、双方の警備隊と市場管理者が合意した。
終業前後三十分、二つの指定帰路を共同巡回する。
待ち伏せや追跡の申告は、どちらの詰所でも受け付け、管轄を理由に送り返さない。
被害者が望む場合は、帰宅または宿舎まで同行する。
「これで十分?」
私は従業員全員へ尋ねた。
「十分かは、続けてみなければ分かりません」
ミレナが答える。
「一か月ごとに、巡回時刻と申告対応を監査してください。それなら、賛成します」
恒久化は三者全会一致で可決された。
新しい共同会社の名は、夜明けの星でも、暗夜の月でもない。
『境界市場共同販売所』
法人名だけは地味にし、二つの看板はそのまま残した。
利益配分は、最後まで帳簿の余白を埋めた。
「出資が半分ずつなら、残った利益も半分ずつです」
人間側の会計官が言う。
「異論はありません。ただ、その『残った』を先に決めましょう」
ザインが費用欄を指した。
賃金、税、仕入れ、修繕、共同警備、返品準備金。
夜明けの星本部とザイン商会へ分けるのは、それらを支払った後の利益とする。
「従業員の改善提案に使う予算も必要です」
ミレナが言った。
「利益の一割を従業員へ配る?」
「それでは、賃金の代わりだと思われます。改善予算として会社に残してください。休憩室、研修、帰路の灯り、表示の直し方を、全員会議で決めます」
「使わなかった年は?」
「翌年へ繰り越す。三年使わなければ、なぜ使えなかったかを公開する」
私は条文へ書き足した。
純利益の一割を現場改善基金へ。二割を事故・返品・設備更新の準備金へ。残る七割を出資者が半分ずつ受け取る。
利益が少ない年は、出資者への配当から先に減らす。
「従業員の基金を先に置けば、投資回収が遅れます」
「店が続くための費用を引いた残りが利益です」
私が答えると、会計官はため息をつきながらも式を書き直した。
同じ五十対五十でも、何を分ける前に守るかで、店の形は変わる。
「どちらが本当の店名ですか、とまた聞かれますね」
ザインが言う。
「両方、と答えればいいわ」
「納得しない人もいます」
「好きな入口から三回ずつ入り、中央席でおにぎりを食べながら悩んでもらう」
「解決していませんね」
「名前を一つにすることが解決じゃないもの。ついでに二品売れたら、店としては大勝利よ」
ザインが、ようやく声を上げて笑った。
「会社の名前は?」
「契約書と納税のときだけ、しっかり答える」
白い塗料の跡は、完全には消えなかった。
ザインは看板を交換しなかった。
「傷を誇るつもり?」
「いいえ。次に塗り直す予算を、帰路の灯りへ回します」
それは、看板より店を守る答えだった。
◇◇◇
再開した夜、二つの入口から客が入った。
白い跡を指差す人もいれば、見ないふりをする人もいた。
棚には、暗夜の月の商品だけを集めた区画を作らなかった。
代わりに、商品の由来、作り手、原材料、変えてよい作り方と変えてほしくない部分を、本人の言葉で掲示した。
モルガナの香辛料、港町の干し魚、人間国の小麦、魔族国の黒蜜。
文化は一人の代表が棚へ置く完成品ではない。
誰が作り、誰が食べ、どこを変えたかを話し続けるものだった。
閉店後、アンナが分厚い束を抱えてきた。
「十二地域から、国際食文化交流組織の設立案が届いております」
「十二?」
「港町、北方、東方、魔族国内三地域、獣人自治圏、山岳都市、そのほか四地域です」
一番上の設立案には、すでに役職名が書かれていた。
『世界食文化交流会 初代会長 リリアーナ・フィオーレ』
「私、引き受けるって言った?」
「どなたにも」
ザインが紙をのぞき込み、苦笑した。
「二つの看板を一人で代表できないと決めた日に、世界を一人で代表してほしいそうです」
私は、重たい設立案を両手で持った。
世界は、看板よりずっと大きい。
一人の名前で覆えば、見えなくなるものも、きっとずっと多かった。
私は窓の向こうを見た。
傷だらけの『夜明けの星』と、新しく塗り直した共同店。二つの看板は、同じ夜風の中で、それぞれ違う音を立てて揺れている。
「返事を書きます」
「就任承諾で?」
「まさか。会長は辞退。代わりに、設立準備会へ十二地域すべての席を用意すること。あと――」
私は『初代会長』の文字を太い線で、ズバッと消した。
「本人の返事より先に役職を決めないこと。これ、いちばん大事!」
ザインが吹き出し、アンナは真顔のまま、議事規則の第一項へそれを書き加えた。




