第69話 王家の病と空白
王都へ向かう馬車の中で、私は黒い封書を何度も読み返した。
『国王陛下、執務中に倒れ、いまだ意識戻らず』
病名は書かれていない。容体の推測も、治療法もない。王室医療団が確認した事実と、王族評議会から私への召集命令だけだった。
「戻られますか」
向かいに座るアンナが尋ねた。
「王都へは戻る。でも、王女へ戻るわけではないわ」
「その二つを、王宮の方々が分けてくださるでしょうか」
アンナの声は静かだったが、膝の上の手は固く握られていた。
「分けさせるわ。……って、格好よく言いたいけど、怖い」
喉が乾く。
「門をくぐった瞬間、また王女の役目を押しつけられたら。『国のため』『父親のため』って言われたら、私は断れるのかな」
「断れます」
「即答ね」
「もし声が出なければ、私が先に断ります。そのあとで、リリアーナ様ご自身の言葉を待ちます」
「……ありがとう。アンナがいるなら、あの門もただの大きな扉に見える気がする」
「ただし、とても重くて警備の多い扉ですが」
「今は勇気を補充する場面でしょう!?」
笑った途端、目の奥が熱くなった。
泣く代わりに笑ったのだと、アンナはたぶん気づいていた。
声にしたのに、胸は決まらなかった。
父は、私が大広間で価値を奪われた時、止めなかった。
辺境送りの命令にも、王家の印があった。
許せない。
それでも、幼い頃の私は父の肩へ乗り、王宮の庭で咲いた最初の白薔薇を一緒に見た。その記憶まで憎しみに塗り替えたら、傷つく前の私を、もう一度追放することになる気がした。
「お会いして、どうされるのです」
「分からない」
私は封書を畳んだ。
「分からないままでも、会いに行く。今度は誰かに決められたからではなく、私がそうしたいから」
アンナは、しばらく黙っていた。
「では、私も参ります」
「怖い?」
「はい。王宮がまた、リリアーナ様を都合よく使うのではないかと」
「私もよ」
「それでも、お一人にはいたしません」
馬車の車輪が、王都へ続く石畳を刻んだ。
◇◇◇
王宮の病室で、父は眠っていた。
王冠のない頭は、記憶よりずっと小さく見えた。右手には治療魔法の光を安定させる布が巻かれ、王室医療団の医師が交代で脈と呼吸を記録している。
「原因は何ですか」
「現段階では断定できません」
医療団長は慎重に答えた。
「急な意識消失と片側の力の低下が見られます。毒物の簡易検査は陰性ですが、すべてを否定できる段階ではありません。治療内容はご家族の同意を得て、医療団が決めます」
「私にできることは?」
「今は、お声をかけることだけです」
前世の言葉が、いくつも頭へ浮かんだ。
でも、私は医師ではない。知っている病名を当てはめ、治療を命じることはできない。
父の手へ触れた。
「お父様」
返事はない。
「私は、店を作りました。あなたが送った村で」
皮肉を言いたかったはずなのに、声は震えた。
「あの日、助けてほしかった。何も言わないあなたが、一番つらかった」
「悔しかったの。ローランに役立たずと言われたことより、お父様が黙っていたことが」
声が途切れ、息を吸う。
「私、ずっと頑張ってた。褒めてほしかった。王女だからじゃなくて、あなたの娘として……一度くらい『信じる』って言ってほしかった!」
眠る手を強く握りそうになり、慌てて力を抜いた。
「なのに今さら倒れるなんて、ずるいわ。私が怒鳴っても、あなたは聞き返さない。謝りもしない。これじゃ私だけが、病人へ文句を言う嫌な娘みたいじゃない!」
涙が一滴、巻かれた布へ落ちた。
「……嫌いよ。大嫌い。でも、死んでほしくない」
眠った顔は、謝らない。
私は許すとも、許さないとも言えなかった。
「目を覚ましたら、今度は聞いてください。私が何を作ったかではなく、あの日、何を失ったかを」
握った指が動いた気がした。
けれど、医師は「反応とは断定できません」と記録した。
それでよかった。希望のために、事実を変えたくはなかった。
◇◇◇
国王が倒れた翌日には、三つの動きが表へ出た。
第一王子を暫定統治者にすべきだという軍務貴族。
第二王子を推す財務・地方貴族。
そして、国際的な信用を得た元第三王女リリアーナを王籍へ戻せ、という商人と市民の一部。
「私の復帰派?」
王都旗艦店の事務室で、私は新聞を机へ置いた。
「本人へ何も聞かずに?」
「旗まで作られています」
ゼルドが、気まずそうに折り畳んだ布を見せた。
中央に私の横顔。背後には、なぜか巨大な肉まんから朝日が昇っている。
「誰よ、この絵を許可したの! それに肉まんが太陽って、国を治める前に絵師の感性を統治したいわ!」
「評判はよいそうです」
「余計に悔しい!」
笑い飛ばしたいのに、旗の下で知らない誰かが私の名を叫ぶ光景を想像すると、背中がゾワッとした。
また私の人生が、本人のいない場所で決められようとしている。
「集会では、『夜明けの星が王国を治めれば豊かになる』と」
ゼルドが困った顔をする。
「商売と国政は違うわ」
物流センターを作れたからといって、軍、司法、福祉、外交を一人で決められるわけではない。まして、人々が店を好きだという気持ちは、統治への同意ではない。
私はその日のうちに声明を出した。
『私は王位を求めず、いずれの継承派にも参加しません。私の名、店名、従業員の姿を、本人の許可なく政治運動へ使用しないでください』
「支持してくださる方を、裏切ることになりませんか」
ミアが尋ねる。
「私へ期待してくれたことには感謝する。でも、期待に応えることと、できない約束を受けることは違うわ」
私にできるのは、今夜も必要な物を棚へ並べること。
小さく見えても、その責任を捨てて、大きな椅子へ座りたくはなかった。
◇◇◇
派閥からの接触は、声明だけでは止まらなかった。
最初に来たのは、第一王子派のマクシミリアン伯爵だった。
「リリアーナ殿下、第一王子と並んで民衆へお姿を見せていただくだけでよいのです」
「今は店主です。そして、お会いするだけでも支持表明に使われるでしょう」
「王国の安定のためです」
「なら、記録を残します」
アンナが同席し、日時、要請内容、私の回答を二部作る。伯爵にも確認の署名を求め、一部を王族評議会へ送る。
「信用していないのですか」
「どの派閥にも、同じ手順を使います」
翌日、第二王子派の宮廷侍従ロベルト卿が来た時も、同じ椅子、同じ時間、同じ記録用紙で対応した。
「第二王子は、王女復籍も検討すると仰せです」
「私の人生を交渉材料にしないでください」
「ですが――」
「国政を正常に戻す提案は、王族評議会へ。私への支持表明の依頼は、お断りします」
二人の使者は、どちらも不満を残して帰った。
中立とは、誰にでも愛想よくすることではない。
同じ距離で断り、その記録を残すことだった。
◇◇◇
政情が不安定になると、夜の店へ来る客は増えた。
会議帰りの官吏。自宅へ戻れず宿を探す地方商人。警備交代を終えた兵士。噂を怖がり、食料を買いに来た家族。
売上は上がった。
けれど、それを喜べる状況ではなかった。
街道の検問が増え、物流センターからの便は平均18分遅れた。小麦と油の入荷量は2割落ち、同じ客が保存食を大量に買う例も出た。
「一人あたり、保存食は3日分までにします」
私は購入上限を掲示した。
「お金を払うのに、なぜ好きなだけ買えない!」
怒鳴る客もいた。
「次に来る方の3日分を残すためです。家族が多い方や介護が必要な方は、人数を確認して個別に対応します」
「商売なら、売れるだけ売るのが得だろう!」
「今日の売上だけならね。でも、あなたが棚を空にしたあとで、子どもの夕食を買いに来る人がいる。私はその人にも店を開けていたいの」
「綺麗事だ!」
「ええ、綺麗事よ。だから綺麗なまま言えるように、数字を数えて上限を決めたの!」
怒鳴り返しそうになる声を、最後のところで接客用の高さへ押し戻した。
胃がキリキリする。政争特需なんて響きだけは立派だが、中身は在庫不足と謝罪と残業の山である。
夜番の店員には、予定外の残業をさせない。列が長くても4時には新規入店を止め、翌日の開店準備は別の組へ渡す。
「こんな時こそ、店を開け続けないと」
ミアが言う。
「だからこそ、休んで」
私は彼女の勤務札を裏返した。
「あなたが倒れたら、明日の店が開かないわ」
日常を守るという言葉は、美しい。
実際には、買える数を断り、列を切り、疲れた人を帰す判断の積み重ねだった。
◇◇◇
店内では、政治の話そのものを禁じなかった。
何に不安を感じているかを、友人同士で話す自由まで奪うことはできない。
ただし、腕章を配る、寄付を集める、他の客を勧誘する、所属を聞き出す、無断で顔や発言を記録することは禁止した。
ある夜、第一王子派の貴族と第二王子派の官吏が、隣り合う席へ座った。
二人とも相手の徽章に気づき、椅子を引きかける。
「席を替えますか」
エリックが尋ねた。
「いや。もう動くのも疲れた」
貴族がスープへ息を吹く。
「私もです」
官吏は、おにぎりの包みを開いた。
二人は和解しなかった。政策を語り合いもしなかった。
ただ、食べ終えるまで互いを追い出さなかった。
政治の嵐の中で、店が作れた平和は、その程度だった。
でも、その程度の静けさを必要とする夜がある。
◇◇◇
午前2時、王都旗艦店の入口へ王族評議会の護送馬車が止まった。
降りてきた男を見て、私は息をのんだ。
「リリアーナ」
元婚約者、ローランだった。
偽造命令書事件の処分で王位継承権を剥奪され、期限を定めず王都への自由入都と居住を禁じられている。
「なぜ、ここに」
「王族評議会の召還です」
護送官が、命令書を見せた。
「国家緊急時の例外条項により、過去の継承手続きと印璽記録について聴取しました。継承権は回復していません。今夜は指定宿舎へ戻る途中、30分の休憩許可が出ています」
ローランは、以前より痩せていた。
「温かい物を、もらえるだろうか」
「豆のスープと、おにぎりがあります」
「それを」
私は通常の代金を受け取り、通常の札を渡した。
彼は店の隅で、黙ってスープを飲んだ。護送官は少し離れた席にいる。
「ここは、平和だな」
「静かなだけよ」
「同じことではないのか」
「違うわ。言えない人が黙っているだけかもしれないもの」
ローランは器へ目を落とした。
「昔の君が正しかった」
「その言葉で、何を望んでいるの?」
「分からない。君に許されたいのか、反省した自分を認めてほしいのか……たぶん、後者だ。最後まで身勝手だな」
「そうね。『正しかった』なんて今言われても、ちっとも嬉しくない。私はあの日、その言葉が欲しかったの」
「ああ」
「辺境で凍えた夜も、最初のお客様が来るか震えた夜も、あなたはいなかった。今の店を見て褒めるだけなら簡単よ。私は、簡単に許してあなたを楽にするために生き直したんじゃない」
胸の奥に溜めていた言葉が、熱いままこぼれた。
ローランは顔を上げなかった。
「それでも、聞けてよかった。いや……よかったと言うのも、私の都合か」
「許しを、と言えば、また自分のためになる」
長い沈黙のあと、彼は続けた。
「私が奪った立場も、あの日の時間も返せない。君が正しかったと言えば、自分が理解した人間になれると思った。今の言い方も、たぶん同じだ」
私は、答えなかった。
許さないと言って傷つけたかった。許すと言って、過去から自由になりたかった。
どちらも、今夜すぐに選ぶ必要はない。
「スープが冷めるわ」
「ああ」
ローランは残りを飲み、器を返却台へ置いた。
「ごちそうさま、店主さん」
「ありがとうございました、お客様」
30分後、彼は護送馬車で指定宿舎へ戻った。
一度の食事で、過去は消えなかった。
それでも私は、彼が出た扉を見ても、追放の日のように足が震えなかった。
◇◇◇
混乱が長引くにつれ、王都では平和的な請願行進が行われた。
要求は、政争の停止、暫定統治の設置、予算と治安業務の再開。そして、食料店、診療所、運送所など生活基盤となる事業者を、派閥が徴用したり、支持表明を強要したりしないこと。
最初の案には、『夜明けの星を政治的中立地帯に』と書かれていたという。
私たちは、店一つだけを超法規的に守るのではなく、すべての生活基盤事業者へ広げてほしいと意見書を出した。
「特別扱いを断るのですか」
ゼルドが尋ねる。
「私たちだけ守られて、隣のパン屋が徴用されたら、町の日常は守れないでしょう」
請願代表者は文案を直した。
行進は無許可区域へ入らず、武器を持たず、夜間外出制限前に解散した。一部で罵声はあったが、警備隊との大きな衝突はなかった。
民衆の声がすぐ法律になるわけではない。
それでも、その声は王族評議会が協議期限を定める後押しになった。
◇◇◇
第一王子、第二王子、印璽評議会代表による予備協議は、警備上の理由から国境共同店の昼間休業時間に行われた。
私は仲裁役を引き受けなかった。
「店の規則と時間だけ管理します。継承法の解釈も、政治的な合意文も、王族評議会の書記と法官が担ってください」
正三角形の席も作らない。誰が上座かで政治的な意味が生まれないよう、長机の配置は評議会側に任せた。
私が出したのは、通常販売しているスープと水だけだった。
協議は順調ではなかった。
第一王子は軍と治安の指揮を一つへ集めるべきだと主張し、第二王子は単独摂政なら財務を利用されると反対した。印璽評議会は、国王の容体が定まらないまま継承を宣言することを拒んだ。
何度も休憩が入り、声が廊下まで響いた。
私は扉の外で、空いた器を下げた。
食事を出しても、正しさは一つにならない。
それでも、誰かが席を立つたび、法官が未合意の項目を読み上げ、書記が消さずに残した。
「今夜、すべてを決める必要はありません」
私は、二度目の休憩で言った。
「ただ、明日の給与と警備命令を、誰が出せるかは決めてください。店も、運送所も、待てません」
最終的にまとまったのは、王位ではなく、30日間の暫定統治だった。
第一王子が国防と治安、第二王子が財務と民生を担当する。新しい課税、宣戦、王位継承の変更、王宮資産の処分には、両者と印璽評議会代表のうち2者以上の承認に加え、法官の適法確認を要する。
すべての命令は翌日までに公開台帳へ記載する。
私は署名しなかった。
合意書が正式なものになったのは、翌朝、王宮の評議会室で法官と各身分代表が確認したあとだ。
店は、話し始める場所にはなった。
国を治める権限まで、イートイン席から生まれたわけではない。
◇◇◇
暫定統治が始まると、止まっていた衛兵の給与と地方向け予算が動いた。
派閥が生活基盤事業者へ支持を強要することを禁じる、30日間の緊急命令も出た。対象は夜明けの星だけではない。食料店、薬舗、診療所、運送所、井戸管理者など、条件を満たす事業者すべてだった。
問題が消えたわけではない。
第一王子側の将校が命令公開を遅らせ、第二王子側の地方官が予算配分に異議を唱えた。王位継承そのものは、父の容体と法に従い、先送りされた。
1か月後、王室医療団は、国王の呼吸と脈が安定したと発表した。
意識は短い時間に限って反応が見られるものの、執務へ戻れる状態ではない。暫定統治は、評議会の再審査を受けて、さらに30日延長された。
「政治的混乱は、収束したのでしょうか」
アンナが尋ねた。
「倒れずに踏みとどまった、が正しいと思う」
私は、王都店の入口へ営業札を出した。
「明日も同じとは限らない。だから記録と期限が要るのよ」
◇◇◇
その夜、三つの公印が押された書状が届いた。
人間王国。魔族国。そして、東方商業連合。
暫定統治の混乱と、国境検査の見直しが重なり、東方から入る茶葉、薬草、保存布の便が滞っている。三者で検査手順と通行保証を協議したいという。
場所の候補は、国境共同店。
「『政治的に完全中立』『どの国にも属さない』と書かれています」
アンナが眉をひそめる。
「共同店を開く時にも、違うと確認したばかりね」
私は返書用の紙を取った。
「共同営業区画で、両国法が適用されること。店に協定を決める権限はないこと。通常営業と会談を分けること。それを認めるなら、場所は貸せます」
「お引き受けになるのですね」
「お茶が届かない理由を、肉まんで解決はできない。でも、同じ検査票を広げる机なら用意できるわ」
王国の空白は、まだ埋まっていない。
それでも私たちは、空白を権力で奪い合うのではなく、明日までに必要な約束から書き込んでいくことができる。
「王位の話は、どうしますか」
アンナが静かに尋ねた。
「決めるべき人たちが、期限と記録を残して話す。私は今、その椅子を奪わない」
迷いがないわけではない。
父の手を思い出すたび、娘と元王女と店主の気持ちが胸の中でぶつかる。
それでも今夜の私は、止まった茶葉の便を開くための返書へ先に署名した。




