第68話 和平の種は湯気の向こうに
「列が、国境標石まで伸びています!」
マルクの声に、私は共同店の窓へ駆け寄った。
境界市場の広場には、人間国側と魔族国側の両方から人が集まっている。料理人、家族連れ、行商人、新聞記者。開場まで1時間もあるのに、二色の案内縄の外まで列が続いていた。
「すごい人……成功ね!」
「まだ始まってもいません」
「分かってるわよ。でも見て、あの列! 人、人、人! 昨日まで『200人も来るの?』って眠れなかった私へ、今すぐこの光景を届けたい!」
「昨日のリリアーナ様なら、隣の部屋にいらっしゃいましたが」
「比喩よ! そこは『努力が報われましたね』って言うところでしょう!?」
高揚で足がフワフワする。
頭の中ではもう、新聞の一面に大行列、売り切れ札、拍手喝采――夢の成功絵巻が高速でめくられていた。
危ない。
こういう時の私は、客数を人ではなく景色として見始める。
ザインが、受付台へ200枚の整理札を並べる。
「事前申し込みは200人。当日枠は、退出した人数だけ入れ替えます」
「せっかく来た人を帰すの?」
「定員を超えて入れ、事故を起こすよりは」
「……うう。正しい。正しすぎて、浮かれていた私の頭へ冷水を一桶かけられた気分」
「追加でもう一桶、必要ですか?」
「いらない! 整理札、配ります!」
昨日の私なら、列の長さを新聞へ見せたいと思ったかもしれない。
けれど、人気の証明に使う一人一人にも、暑さがあり、空腹があり、帰る時刻がある。
「待ち時間を入口に表示して。入れない方には、出店者の紹介と次回の案内を渡しましょう」
「次回があると決まったのですか?」
リリスが笑う。
「今日、無事に終われたら考えるわ」
人間・魔族共同食文化フェア『和平の食卓』。
通常の店は午前0時から4時までだが、今日は境界市場の昼間行事として、10時から18時まで別の許可を取った。夜勤の店員をそのまま働かせず、催し専任の有給スタッフと交代要員も用意している。
平和を名乗る一日は、休めない誰かの犠牲から始めたくなかった。
◇◇◇
開場前、私は二人の料理人を紹介した。
人間国から来たハンス・シュミット。宮廷厨房に勤めた経験を持ち、今は王都で小さな煮込み料理店を営んでいる。
魔族国から来たモルガナ・ダークフレイム。香辛料の調合と保存食を専門にし、3つの街道宿へ料理を卸している。
「人間国の優しい煮込みと、魔族国の情熱的な辛さを――」
司会用の原稿を読みかけると、二人から同時に手が上がった。
「私の煮込みは、優しいだけではありません」
ハンスが言う。
「寒い季節に働く人へ塩気を強くした物もある。宮廷の一皿だけを、人間国の味と呼ばないでいただきたい」
「私の料理にも、辛くない物はあります」
モルガナも腕を組む。
「子どもの頃、病気の弟へ作った豆粥に香辛料は使いませんでした。魔族の情熱を、唐辛子の量で測られるのは困ります」
「それに、私は今日、見世物になりに来たのではありません」
モルガナの声が低くなる。
「『これが魔族の料理だ』と一皿だけ撮られれば、故郷の違う料理人から嘘つきと呼ばれる。私が話したいのは、何を学び、誰へ食べさせたくて作ったかです」
ハンスも腕を組んだ。
「私も同じです。宮廷の肩書きだけで豪華な料理を期待される。今の小さな店で、寒い朝の職人へ出す濃い煮込みの方が、私には大切なのに」
喉の奥がチクリとした。
私は二人を、分かりやすい“人間代表”と“魔族代表”へ押し込めかけたのだ。
「ごめんなさい。紹介しやすさを優先しました。お二人の料理を借りて、自分の理想を語ろうとしてた」
「気づいたなら、直してください」
「ええ。原稿は捨てます。今日ここにいる、ハンスさんとモルガナさんを紹介させて」
「ごめんなさい。紹介を直します」
私は原稿を裏返した。
「こちらは、煮込み料理人のハンス。こちらは、香辛料と保存食の料理人モルガナ。今日は、お二人が選んだ料理と、その理由を紹介します」
二人の肩から、ほんの少し力が抜けた。
国を越えて交流するからこそ、一人へ国全体を背負わせてはいけない。
◇◇◇
10時、最初の客が会場へ入った。
出店台には、料理名、材料、辛さ、甘さ、温度、調理した人の名を表示した。肉、乳、卵などは、異文化メニュー研究所で試した図形と文字を併記する。
目玉の『友好肉まん』は、ハンスとモルガナが6回試作した共同料理だった。
ハンスが生地の発酵と包み方を担当し、モルガナが黒麦、豆、香草を使った具を作った。辛さは0、2、4の3種類。どれが人間用、どれが魔族用という分け方はしない。
「これが、両国の味を一つにした料理ですね!」
記者が声を上げる。
「一つにしたわけではありません」
モルガナが答えた。
「生地と具、それぞれの作り方が残っているから、一緒に食べてもおいしいのです」
ハンスも肉まんを半分に割る。
「混ぜて境目をなくすことだけが、協力ではありません」
湯気の中から、黒麦色の具が現れた。
人間の若い商人が辛さ4を選び、涙を浮かべて笑う。魔族の旅人は辛さ0へ蜂蜜を足して買った。
「魔族なのに甘い方ですか」と聞きかけた記者を、隣の記者が肘で止めた。
少なくとも、共同店を開いた頃より一つ、言葉が届いていた。
◇◇◇
屋外調理場は、華やかな客席より忙しかった。
入口で手を洗う。生肉用と野菜用の台を分ける。煮込みは中心温度を感知石と目視の両方で確認する。冷たい料理は、大型物流センターから届いた保冷箱に入れ、30分ごとに温度札を記録する。
「リリス、辛さ2の肉まん、追加20個!」
「待ってください」
リリスが、受け渡し台の札を持ち上げた。
「この札、卵不使用になっています。でも今日の生地には、艶出しで卵を使っています」
周囲の手が止まった。
昨日までの試作品は、卵を使っていなかった。今朝、焼き色を整えるためにハンスの助手が表面へ卵液を塗ったが、表示札の変更が調理台まで届いていなかったのだ。
「もう80個、出ています」
マルクの声が震える。
「卵を避ける方が買ったか、会計では分かりません」
信仰や体質を買物記録へ結びつけていないから、個別に追うこともできない。
「提供を止めます」
リリスが言った。
「今並んでいる人へ説明します。購入済みの方には、食べる前なら交換か返金。体調に異変があれば、救護所へ案内します」
「開場したばかりですよ。記者も見ています」
助手が青ざめる。
「だから止めます」
「私が札を確認したんです。昨日、ちゃんと。なのに今朝の変更を見落として……っ、私のせいで、並んでくれた人を不安にさせる!」
リリスの声が震えた。
「悔しがるのはあと。今はお客様へ伝えましょう」
「はい。でも、終わったら絶対に悔しがります。盛大に!」
「付き合うわ。私は安全札を、あなたは経路を洗い直す。愚痴りながら全部直しましょう」
「愚痴っていいんですか?」
「隠すより百倍いいわ。ただし手は止めない!」
リリスは、自分の担当札を裏返した。
会場へ、「表示に誤りがありました」と両国語で伝える。隠さず、原因が分かるまで販売しない。
9人が交換を申し出た。体調不良の申告はなかった。卵を使った品と使わない品を見た目で区別できるよう形を変え、器具も洗浄したあと、1時間20分後に販売を再開した。
「せっかくの初回なのに、私の区画で」
休憩室で、リリスが唇をかんだ。
「見つけたのも、あなたよ」
私は水を渡した。
「見つけなければ、売上はもっと増えた。でも、次のフェアは開けなかったかもしれない」
失敗を止めた人へ、失敗した責任を全部背負わせない。
物流センターで学んだことが、今度は国境の厨房へ渡っていた。
◇◇◇
料理教室では、ハンスが弱火の煮込みを教えた。
「急がず、鍋の端に小さな泡が出るくらいで」
「強火では駄目ですか?」
魔族国から来た参加者が尋ねる。
「駄目ではありません。これは、豆を崩さず味を入れる方法です。肉を焼きつけたい時は、私も強火を使います」
向かいの台では、モルガナが香辛料を3段階に分けていた。
「辛さを足す粉、香りを残す種、油へ深みを移す皮。全部を一度に入れると、強いだけの味になります」
「配合を持ち帰って、店で売っても?」
人間国の料理人が尋ねる。
モルガナは、小瓶の一つへ蓋をした。
「今日教える基本配合は、名前を添えれば使って構いません。ただし、こちらの宿へ卸している保存用配合は非公開です」
「交流なのに、教えない部分があるのですか」
「交流は、相手の物を全部もらえる約束ではないでしょう」
参加者は少し考え、やがてうなずいた。
ハンスも、自分の出汁の作り方のうち、店で長年継ぎ足している部分は公開しなかった。
教える範囲を本人が決められるからこそ、次も安心して台を並べられる。
◇◇◇
午後、エドワード・ヴァンホルト外務次官とガルマ外交副長官が視察に来た。
「先月より、ずいぶん賑やかですね」
エドワードが、整理札の列を見回す。
「定員を越えた方には、お帰りいただきました」
「人気を見せる機会なのに?」
「安全を見せる機会でもありますから」
ガルマは辛さ3の友好肉まんを選び、エドワードは辛さ4へ挑んだ。ひと口で額に汗を浮かべたが、無理に笑わず水を求める。
「外交では、耐えられないとも言いにくい」
「料理くらいは言ってください」
ガルマが水差しを渡した。
二人は、先月の共同案の進み具合を簡単に教えてくれた。
乾き谷の同行観察は継続。共通検査票は試験中。停止旗の色はまだ決まらず、形と音を組み合わせる案が出ている。
「今日のような民間交流があれば、世論も変わるでしょう」
記者が二人へ問いかけた。
「世論は一日で一つにはなりません」
エドワードが答えた。
「ここへ来なかった人、来たくない人の声もあります」
「今日の成果は、異なる料理を食べたことではなく、表示の誤りを双方へ同じ言葉で知らせたことかもしれません」
ガルマが、販売再開した台を指す。
外交官らしくない答えだった。
でも、その言葉を聞いたリリスの背中が、少しだけ伸びた。
◇◇◇
広場の隅では、人間の老女と魔族の老女が、互いの煮込みを交換していた。
「あなたの豆、香りがいいわ」
「そちらの根菜も甘い。どこの村で採れるの?」
二人は村の名を伝え合い、「今度訪ねたい」と話した。
「でも、私の通行証では、そちらの橋を越えられないの」
「私も、冬は検問が閉まる」
すぐに遊びに行けるわけではなかった。
マルクが、境界市場の交流訪問申請書を持ってくる。保証人、訪問日、持込品。欄は多く、文字も細かい。
「料理を一つ習うのに、こんなに書くの?」
「今は、です」
マルクは必要な欄へ印を付けた。
「店からも、手続きの簡素化を両国へ要望します。でも今日、嘘をついて通すことはできません」
二人はため息をつき、それでも申請書を一枚ずつ持ち帰った。
友情は、手を取り合った写真の瞬間に完成しない。
次に会うための面倒な紙を、諦めずに書くところから続いていく。
◇◇◇
その頃、新聞の絵師が、二人の子どもへ記録水晶を向けていた。
人間の子どもと魔族の子どもが、友好肉まんを半分ずつ持っている。
「そのまま笑って! 明日の一面になります」
一人は楽しそうに笑った。もう一人は、記録水晶を見て顔を伏せる。
「撮らないで」
「顔は小さくしか出ないよ。平和の象徴になるんだ」
私は二人の間へ入った。
「嫌だと言っています」
「ですが、これほど良い場面は二度と――」
「二度と撮れなくても、撮りません」
言い切りながら、胸の奥で別の声がした。
もったいない。
あの一枚が載れば、フェアの評判はもっと広がる。次の協力者も、資金も集まりやすくなる。善意のためなら、少しくらい――。
駄目。
私はその考えを、頭の中でバシンと叩き落とした。
「この子の嫌を踏み台にした平和なんて、看板からして偽物よ」
絵師は唇を尖らせた。
「では、何を撮れと言うのです。笑顔がなければ記事にならない」
「料理人の手、材料札、表示ミスで止めた台、並び直した器。今日ここで起きたことは、笑顔だけじゃないでしょう」
そばにいた別の記者が、ゆっくり記録帳を開いた。
「止めた台も記事にしてよいのですか?」
「事実なら。失敗だけ大きく煽らず、どう直したかまで書いてください」
撮影は、本人と保護者の両方が同意した場合だけ。それが取材許可の条件だった。
絵師は不満そうに水晶を下ろした。
少し離れたところでは、別の親子が撮影へ同意した。ただし、名前と村は出さない条件を付ける。
翌日の新聞に載った写真は、二人の子どもの顔ではなく、半分に割った肉まんを持つ4本の手だった。
湯気の向こうに誰がいるか、見る人には分からない。
それでも、違う色の袖から伸びた手が、同じ食べ物を分けていることは伝わった。
◇◇◇
夕方の共同調理では、ハンスとモルガナがそれぞれ一品を仕上げた。
ハンスは、豆と根菜のシチューへ、モルガナから教わった香りの種を少量使った。
モルガナは、焼いた肉と豆の鍋に、ハンスの出汁の取り方を取り入れた。見た目を「人間らしく」「魔族らしく」寄せるのではなく、互いに学んだ技術を、自分の料理へどう残すかを競う。
参加者は、味、説明の分かりやすさ、材料表示、もう一度食べたいかを5点ずつ付けた。
集計結果は、どちらも平均17.6点。
「同点優勝です!」
マルクが告げると、広場から拍手が起きた。
「本当に同点ですか?」
モルガナが疑う。
「集計表を公開します。小数点以下2桁では、ハンスさんが0.03点上です。ただ、事前規則では小数第1位まで」
「なら、同点でよい」
ハンスが笑った。
ただし、評価票には改善点もあった。
ハンスの料理は、香辛料名の表示が小さい。モルガナの鍋は、子ども向けの量が多すぎる。二人は拍手より先に、その紙を読み込んだ。
「次は、表示でも負けません」
「私は小椀を用意する」
握手は、勝敗を消すためではない。
次の皿を、互いに見せる約束だった。
◇◇◇
翌朝、新聞には大きな見出しが並んだ。
『和平の種は湯気の向こうに』
『二つの国の料理人、同じ台所で学ぶ』
中には、『料理が国境を溶かした』と書いた紙面もあった。
「国境は、昨日もありました」
ザインは新聞社へ訂正文を送った。
「来場できなかった人も、共同店へ反対する人もいます。溶けたと書けば、その声を見ないことになる」
好意的な記事を直してほしいと言うのは、勇気が要る。
けれど、褒め言葉の中の間違いも、間違いには違いなかった。
一週間後、両国政府から届いたのは、私個人への大げさな称号ではなかった。
料理人、店員、警備、救護、清掃、通訳を含む共同運営者全員への感謝状だった。表示誤りと提供停止も、改善報告とともに記載されている。
「失敗まで書かれていますね」
リリスが苦笑する。
「だから、あなたが止めたことも残ったわ」
感謝状は二枚の看板の間へ飾った。
◇◇◇
エルドリア帝国、東方諸島連邦、南方の三都市から、同様の催しについて問い合わせが届いた。
さらに、複数地域で食文化交流の記録と安全基準を共有する「国際食文化交流協会」を作り、私を会長にという提案まである。
「お引き受けになりますか?」
アンナが尋ねる。
「今は、引き受けない」
「世界平和のため、と即答されるかと思いました」
「私一人を会長にして、私のやり方を世界標準にしたら、研究所で学んだことを忘れるでしょう」
まず準備会を作る。参加地域ごとに料理人、生活者、食の安全を担う人を出してもらう。小さな共同体にも発言枠を設け、秘密の技法を公開しない権利も規約へ入れる。
何を統一し、何を統一しないか。
協会という看板より先に、それを話す必要がある。
「準備会への参加なら、受けます」
私は返書を書き始めた。
◇◇◇
その日の夕方、閉店後の広場を片づけていると、王都からの早馬が境界市場へ駆け込んできた。
馬は白い泡を吹き、騎手の外套には王家の紋章がある。
「リリアーナ・フィオーレ殿へ、緊急書状!」
差し出された封筒の蝋は、黒だった。
祝いの余韻が、胸の中で急に冷える。
アンナが封を切り、最初の一行で息を止めた。
「国王陛下が、倒れられました」
「お父様が?」
「意識が戻らず、王宮は……王族の召集を始めています」
「嘘……」
声が、自分のものではないみたいに細かった。
「だって、お父様は強くて、倒れるなんて……私を追放する時だって、あんなに――」
そこから先が出ない。
恨みなら、いくらでもある。
どうして信じてくれなかったの。どうして娘より王宮の面子を選んだの。今さら会いに来いなんて、都合がよすぎる。
なのに、胸の奥では幼い私が泣き叫んでいた。
お父様がいなくなる。
まだ一度も、悔しかったと伝えていないのに。
私は、紙を受け取った。
追放された日から、父を何と呼べばよいのか分からなかった。
国王陛下。私を捨てた人。助けを求めても目をそらした人。
それでも、紙の上の「危篤」という二文字を見た瞬間、最初に浮かんだのは幼い頃、熱を出した私の額へ置かれた大きな手だった。
国境の湯気は、まだ空へ昇っている。
その向こうで、今度は私自身が、過去と向き合わなければならなかった。
指が震え、紙がカサカサと鳴る。
アンナが私の手から書状を奪わず、上からソッと押さえた。
「すぐ出ます。馬車と引き継ぎを」
「リリアーナ様、行くのですね」
「許したわけじゃない。帰りたいわけでもない。でも……会わずに終わったら、私は一生、お父様へ言えなかった言葉を抱えることになる」
アンナはうなずき、震える私の指へ自分の手を重ねた。
「では、言いに行きましょう。全部」
声は、自分でも驚くほど乾いていた。
和平の余韻も、客の笑い声も、今は遠い。
父を許せるかではない。
まだ間に合ううちに、会いに行くかを選ぶ時間だった。




