第63話 異文化メニュー研究所
「これは……想像していたより、ずっと複雑です」
アンナの前には、12地域から返ってきた相談票が積まれていた。
原材料。調理器具。食事の時間。断食の時期。神聖な動物。避ける色。来客へ出す順番。家族の中でだけ守る習慣。
同じ質問なのに、隣り合う町から正反対の答えが返っている箇所もある。
「質問票って、答えが返ってきたら仕事が減る紙じゃなかったの?」
私は山のような束を前に、思わず本音をこぼした。
「今朝12枚だったのに、昼には追加質問が47枚。おかしいわ。紙が紙を産んでる。しかも元気に多産よ」
「笑えない増え方ですね……」
アンナがこめかみを押さえる。
その横では、ミアが『魚を食べる』の下へ『どの魚を、いつ、誰と、どの道具で?』と書き足していた。
「一つ聞くと、四つ分からなくなります!」
「知識って怖いわね。無知だった昨日の私、ものすごく身軽だったもの」
笑ってみせたが、胸の奥はズンと重かった。
世界中の人に夜明けの星の商品を届けたい。
あの願いは今も変わらない。
けれど、世界を一つの大きな客席みたいに考えていたのなら、それは夢ではなく、こちらの都合を押しつける傲慢さだ。
「エルドリア帝国だけで、主要な信仰が5つ」
ミアが指で欄を追う。
「でも、こちらの方は『同じ信仰でも北部と南部では違う』と書いています」
「ドラゴン諸島は、島ごとに食べる魚が違うっす」
ロウが絵入りの回答を持ち上げる。
「この島では赤い魚が祝いで、隣では祭壇へ供えるから普段は食べない、と」
「南方大陸は、300を超える共同体があるそうです」
ゼルドがため息をついた。
「一つずつ専用メニューを作ったら、商品名を覚えるだけで一生かかりますね」
国際見本市では、「現地の文化を尊重します」と胸を張った。
その言葉が、今は軽く感じられる。
尊重するとは、相手の国名を商品へ付けることではない。自分たちに理解できない違いがあると認め、それでも間違えないための人と時間を用意することだ。
「異文化メニュー研究所を作りましょう」
私は白紙を広げた。
「研究所、ですか?」
「ええ。料理を増やす場所ではなく、何を確認しなければ売れないかを調べる場所よ」
「世界中の料理を、そこで完成させるんですね!」
ミアの明るい声に、私は首を横に振った。
「完成させる、とは言わないでおきましょう。その土地の文化は、そこに暮らす人たちのものだもの。私たちは、教わって、一緒に試すの」
「……全部の人に愛される料理を、作れないかもしれませんよ?」
ミアが不安そうに言った。
「作れないわ。たぶん、絶対に」
口にすると悔しかった。夢へ自分で『無理』の札を貼るようで、喉がヒリッとする。
「でも、一人ひとりが嫌なものを避けて、安心して選べる店には近づける。だったら私は、そっちの夢を追いかけたい」
◇◇◇
研究所には、研修センター隣の旧検品所を改修した。
資料を保管する調査室。調理器具を分けられる3つの試作台。封緘できる食材庫。魚、肉、乳、香辛料を同じ棚へ置かない小型保冷室。
新築の立派な建物より、まず調査と小規模試作に必要な範囲から始める。
4人の顧問が、見本市での縁を通じて参加した。
エルドリア帝国の文化研究者アレクサンドラ。
ドラゴン諸島で島同士の交易調整をしてきた古老マオ・チェン。
南方大陸の複数都市間で交渉を担うアイーシャ。
東方諸国の料理史と宮廷料理を研究するタン・ウェイ。
全員と、有給の期間契約を結んだ。名前を借りるだけではなく、調査と助言を仕事として依頼する。
「皆さんには、各地の文化を代表していただきます」
挨拶の原稿を読み上げかけた時、アイーシャが手を挙げた。
「最初に、その言葉を直してもよろしいでしょうか」
「はい」
「私は、南方大陸のすべてを代表できません。外交で訪れた共同体は多いですが、300を超えると言われる人々の暮らしを、一人で決めることはできない」
「けれど、あなたほど各地を知る方なら――」
私は焦って言いかけた。
「知っているからこそ、言っているのです」
アイーシャの声は鋭くなかった。それでも、逃げ道を残さない強さがあった。
「私が一言『南方では食べます』と言えば、店は安心するでしょう。手続きも早い。けれど、その一言で食べられない誰かが『南方のくせに』と責められたら? 私の便利な返事が、その人の居場所を削るのです」
胸の奥へ、チクリと針が刺さった。
私は善意を急ぎすぎていた。
善意は万能通行証じゃない。むしろ確認を怠れば、笑顔のまま相手の足を踏む。
責める口調ではなかった。
だからこそ、用意していた言葉の危うさが、はっきり見えた。
「申し訳ありません。皆さんには、調査の入口になっていただきたい、と言い直します」
「それなら、喜んで」
「ありがとうございます。いきなり挨拶で転びましたね、私」
「転んだことより、転んでいない顔で走り続ける方が危険です」
「うっ……よく刺さる。初日から顧問料以上のお仕事だわ」
アイーシャが、そこでようやくクスリと笑った。
アレクサンドラもうなずいた。
「私は帝国の主要5信仰を研究しています。でも、教典に書かれたことと、各家庭が実際に守ることは同じではありません」
「島の古老だからといって、若者の食べたい物まで私が決めれば嫌われますな」
マオ・チェンが白い髭を撫でる。
「東方の五行や陰陽も、地域と流派で解釈が違います」
タン・ウェイが続けた。
「料理の組み立てを考える言葉ではありますが、食べれば病気が治るという表示には使わないでください」
4人の最初の仕事は、答えを教えることではなかった。
誰に、どこまで聞かなければ答えにならないかを教えることだった。
◇◇◇
調査票には、すべて出典を付けた。
誰が答えたか。どの地域か。宗派や共同体の公式見解か、一家庭の習慣か。確認した日。次に見直す日。
「大地教では根菜を食べない、と書いてあります」
ミアが読み上げる。
アレクサンドラは、その紙を裏返した。
「正確には、帝国東部の一派が、春の祭礼期間に特定の根菜を供物として避けます。大地教徒全員が、1年中すべての根菜を食べないわけではありません」
「この一行だけを商品表へ写したら、全然違う意味になりますね」
「はい。善意の配慮でも、間違った決めつけになります」
光明教の一部では豚肉を避ける。太陽教の一派には、日没後の食事について温度や量の決まりがある。海神教には月の満ち欠けと漁を結びつける地域があり、星辰教の一部は金属製器具を避ける。
けれど、同じ名前の信仰でも実践は一様ではない。
ドラゴン諸島では、守護色と祝いの色が島によって違う。先祖伝来の漁法を重んじる島もあれば、外から来た漁師との共同漁を始めた島もある。
南方の共同体には、祖先や守護動物にちなみ特定の肉を避ける人々がいる。年齢や役割で食事が変わる場合もあるが、性別だけを見て店が商品を決めてはいけない。
東方では、木、火、土、金、水や陰陽の考えを季節の献立へ取り入れる料理人がいる。ただし、店員が客の体調を診断して「あなたにはこの料理」と勧めるものではない。
「では、会計で信仰を聞けば確実でしょうか」
ミアが尋ねた。
「聞かれたくない人もいるでしょう」
アイーシャが答える。
「信仰は、仕事や家族との関係に関わります。買物のたびに名乗らせる必要はありません」
店が客を分類するのではなく、客が自分で選べる情報を出す。
使った材料。使っていない材料。同じ厨房で扱う物。器具を分けたか。確認した団体と期限。
文字だけでなく、共通の図形を併記する。
「豚肉不使用」と、「豚肉が一切触れていない」は同じではない。
前者は材料の話。後者を名乗るには、仕入れ、保管、調理台、油、器具、清掃まで分けて確認する必要がある。
完全に分けられない施設では、できない保証をしない。
◇◇◇
原材料表示の図形も、研究所の中だけで決めなかった。
魚には波、肉には角、乳には雫、卵には楕円。
ミアが見本を作り、各地域から来た12人へ、文字を隠した状態で意味を尋ねた。
「波は魚、ですよね?」
最初の3人には通じた。
ところがドラゴン諸島の船員は、波を「海の神へ供えた商品」の印だと受け取った。
南方出身の商人は、角の図形を「守護動物を使っていない」という意味だと思った。
「私たちは『入っています』の印にしたつもりでした」
ミアの顔が青くなる。
「逆に伝わったら、一番危ないです。私、この札を見やすくできたって……ちょっと自慢だったんです。それなのに、食べない人へ『安心ですよ』って差し出す札になるところだったなんて……!」
握りしめた紙が、クシャッと鳴った。
「悔しいです。絵なら言葉が違っても通じるって、勝手に思い込んでました」
「ミア」
「はい。落ち込んでる場合じゃありません。全部、作り直します!」
「徹夜で全部は駄目よ」
「なぜ心を読んだんですか!?」
「あなた、決意すると目の下に未来の隈が見えるの」
「図形一つへ、全部を任せないことです」
アイーシャが助言した。
「絵、短い言葉、色、店員への確認方法。二つ以上を組み合わせましょう」
魚の図形は、波だけでなく魚そのものの輪郭へ変えた。肉は角をやめ、四足動物の横姿にする。それでも種類までは分からないため、下へ魚種、肉種を書く。
使っていない印は、図形へ斜線を引くだけではなく、『材料として不使用』と添えた。
「読めない方には?」
「対面で説明します。ただし、店員も分からない言語なら、売らない方が安全な場合があります」
ミアは少し悔しそうだった。
「便利にしたいのに、売らないんですか」
「間違った説明で売るより、次に説明できる時間を約束する方が、その人を大切にしています」
「売らないのも、接客……」
「ええ。『分かりません』は敗北ではありません。分からないのに笑顔で押し切る方が、ずっと無礼です」
ミアは唇を噛み、それから深く頭を下げた。
「じゃあ私、言える店員になります。『分かりません。でも調べて、いつまでに答えます』って。悔しいから、その次は絶対に答えられるようにもなります」
試験を終えたあと、ミアは最初の表示札を捨てず、裏へ日付を書いた。
「失敗した印も残すんです」
「なぜ?」
「次の人が、同じ角の絵を思いつくかもしれません。その時、どう伝わらなかったか見せられます」
研究所で最初に蓄えられたのは、正しい記号の一覧ではなかった。
私たちには通じても、相手には通じなかった記録だった。
◇◇◇
最初の試作は、4つの地域について一品ずつだった。
エルドリア向け相談では、豚肉を使わず、鶏肉と豆を入れた温かいおにぎり。
ドラゴン諸島の試作は、輸入した「海風ハーブ」と港の焼き魚を合わせた物。
南方の交易都市向けには、動物性食材を入れず、ひよこ豆に似た豆と香辛料を使った具。
東方の料理人とは、5色の野菜を少量ずつ使う季節のおにぎりを作った。
もっとも、試作初日は『少量ずつ』が難敵だった。
ロウが張り切って五色を詰め込んだ結果、おにぎりは握ったそばからボロッ、ボロボロッと崩壊した。
「五行の調和どころか、全員が独立を宣言したっす!」
「待って、皿から火の野菜が脱走してる!」
「捕まえるな。もはや盛りつけとして受け入れなさい」
タン・ウェイは肩を震わせていたが、ついに耐えきれず吹き出した。
「思想を盛りすぎると料理が崩れる。実に良い教材ですね」
「うまいこと言われたのが、ものすごく悔しいわ……!」
「『エルドリア風』『南方の味』という名前は使いません」
私は試作札へ書く。
「共同試作した地域と料理人の名を示します」
試食には、各地域出身者を10人ずつ招いた。
鶏肉と豆のおにぎりを、エルドリア出身者10人のうち7人は好んだ。2人は香辛料が弱いと言い、1人は鶏肉も避けるため試食しなかった。
「10人中7人に好評、と記録します」
「エルドリア人全員に愛される味、とは書かないのですね」
アレクサンドラが確かめる。
「はい。それから、食べなかった1人を失敗扱いにもしません」
海風ハーブの試作は、故郷を思い出すという人と、匂いが強すぎるという人に分かれた。
「この匂いだ。子どもの頃、父の舟で嗅いだ」
一人は目を潤ませた。
その隣では、同じ島の若者が盛大に顔をしかめる。
「俺は嫌です。朝から晩まで服に染みついて、都会へ出れば『港臭い』って笑われた。懐かしいからって、好きとは限らない」
空気がピンと張った。
私は危うく『故郷の味ですね』とまとめるところだった口を閉じた。
「……両方、記録します。懐かしいという声と、つらい記憶を呼ぶという声。どちらも消しません」
「商品名に『故郷の香り』なんて付けないでくれ」
「付けません。そこまで勝手に物語を決めたら、料理より先に私の看板を海へ投げてください」
「看板は重いから、人だけでいいっすよ」
「ロウ、店長を投げる相談を即座に具体化しないで」
南方の豆料理は、「自分の町の味ではないが、材料が分かるので選べる」と評価された。
東方の5色おにぎりには、五行の並べ方が違うという指摘が2つの流派から出た。
「どちらが正しいのですか?」
ロウが尋ねる。
「両方が、それぞれの流派では正しいのです」
タン・ウェイは笑った。
「一つに決めず、流派名を示しましょう」
「正解が二つ……商売人泣かせっすね」
「違います。商売人が一つの札で済ませたがるだけです」
「ぐうの音も出ない正論が、今日だけで何回来るんすか……」
世界対応の一品を作ることはできなかった。
代わりに、誰と作り、誰が食べ、何が合わなかったかを残せた。
◇◇◇
宗教上の確認が必要な試作品は、各地の実務者へ工程表を送った。
光明教の一団体からは、鶏肉の仕入れ証明と器具分離を条件に、王都の研究所厨房で作る試験30食分だけ承認された。
海神教の沿岸支部は、魚種と漁法の記録を求めた。
金属器具を避ける星辰教の一派向けには、木と陶器の器具を分けたが、保冷箱の留め具に金属があるため、承認は保留になった。
「料理に触れていない留め具でも、駄目なのでしょうか」
「私が決めることではありません」
アレクサンドラは、照会を戻した。
「でも、あと金具一つなんです。そこさえ通れば――」
悔しさで、声が少し上ずった。
「『あと一つ』と感じるのは、作った側だからです」
「……はい」
「食べる側にとっては、その一つが全部かもしれません」
返す言葉がなかった。
私は保留札へ自分で日付を入れる。
筆先が、やけに重い。
「くぅぅ……完成目前の扉に、金具一個で鼻をぶつけるなんて」
「取り替えればよいだけでしょう」
「分かっています! 分かっているけど、悔しがるくらいは許して!」
アレクサンドラは目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「ええ。悔しさを近道の言い訳にしないなら、いくらでも」
承認の印は、宗教全体が夜明けの星を認めた勲章ではない。
特定の団体が、特定の材料と厨房と数量について確認した印だ。材料や場所が変われば、もう一度確認する。期限も設ける。
誤った材料が混じった場合は、販売を止め、対象ロットを回収し、購入者へ知らせる。信仰上の被害を、健康被害がなかったから小さいとは扱わない。
「これでは、12地域へ出るまで時間がかかりますね」
ゼルドが進捗表を見る。
「時間をかけるべきところだったのよ」
4地域は、現地の共同経営候補と30人規模の試食へ進む。
残り8地域は、法令、言語、食材、相談相手の確認を続ける。
見本市で受け取った12枚の相談票が、12枚の出店契約へ変わることはなかった。
それでも4つの小さな試験は、紙の上の理想より確かな一歩だった。
◇◇◇
研究所の最初の成果発表会には、各国の商人、文化顧問、宗教実務者、地元の料理人を招いた。
壇上に並べたのは、完成品の山ではない。
更新日付きの原材料表。承認された物と保留の物。混入が起きた時の停止札。好評だけでなく、食べなかった理由を含む試食記録。
「私たちは、文化の壁を越える完璧な料理を完成させてはいません」
会場が静かになる。
「代わりに、壁を勝手に壊さず、扉の場所を持ち主へ尋ねる仕組みを作りました」
アイーシャが、客席から小さくうなずく。
「便利は、どこでも同じ物を売ることではありません。食べられる物、食べたくない物を、自分で選べることです」
拍手は、国際見本市の時ほど大きくなかった。
でも、質問は長く続いた。
情報が古くなった時は。小さな宗派へ誰が連絡するのか。複数の認証が食い違ったら。貧しい店でも分離器具を用意できるか。
答えられない質問は、次の調査欄へ加えた。
研究所の価値は、世界を理解し終えたことではない。
分からないまま売らず、間違えた時に直せる場所ができたことだった。
◇◇◇
発表会の翌朝、研究所の分離保冷庫で温度のばらつきが見つかった。
魚用の棚は冷えすぎ、野菜用の棚は十分に冷えない。
「箱ごとの氷魔道具を増やせば、すぐ直せます」
ゼルドが言う。
「でも、魔石の消費が増えます」
アンナが費用表を示す。
異なる食材を混ぜず、同時に安定して冷やすには、冷気を循環させる仕組みが必要だった。
そこへ、魔術師ギルドの研究員エルデンが、分厚い羊皮紙の束を抱えて現れた。
「リリアーナ様。半年前から共同研究していた、魔法冷蔵循環システムの効果測定がまとまりました」
彼は、研究所の温度記録を見て目を輝かせた。
「ちょうど、実地で確かめる課題もあるようですね」
文化へ配慮するために分けた棚が、次の技術を必要としていた。
今度の問題は、何を冷やすかだけではない。
誰が作った技術を、誰のために、どんな権利で使うかだった。
「棚が増えるたび、問題も増えるわね」
「面白くありませんか?」
エルデンが本気で不思議そうに尋ねる。
「面白いわ。悔しいくらいに」
「普通は、そこで嫌になるものでは?」
「嫌よ。すっごく嫌。今すぐ棚に『ちゃんと冷えなさい!』って説教したいくらい」
私は温度の上がった野菜棚を指さした。
「でも、問題が見えたってことは、直す場所が分かったってことでもあるでしょう? だったら逃げた方がもっと悔しいの」
アンナは費用表を、ゼルドは温度記録を、アイーシャは食材分離の条件を出した。
面白いだけで走らないための仲間が、研究所の卓をあっという間に埋めていった。




