第58話 人事は最大の投資
「人手不足が、深刻になっています」
バサリ。
アンナが広げた勤務表には、雪原みたいな空白が広がっていた。
白い。真っ白だ。
勤務表の余白は、誰かが休めない地獄の予告状である。
「……見なかったことにして、そっと閉じても?」
「閉じても人は増えません」
「でしょうね! 知ってた!」
空白一つは、ただの足りない人数ではない。
誰かが休めない夜。急な熱が出ても交代できない夜。慣れない仕事を、一人で抱える時間だ。
「既存3店舗と集配センターを、無理のない交代制で運営するには、あと20人必要です」
「20人……」
「数字だけ聞くと、棚から20個取ってくるみたいですけど……人、ですもんね」
ミアが勤務表を見て、唇を噛んだ。
「ご飯を食べて、眠って、家族がいて、苦手なこともある人が20人」
「国境店の試験運営が認められ、将来の魔族領向け事業まで進むなら、さらに30人。ただし、これは計画上の人数です。今すぐ50人を雇う、という意味ではありません」
私は胸をなで下ろしかけて、やめた。
20人でも、ミアとロウを初めて雇った頃には想像できなかった数だ。
「経験者を集めれば、早いでしょうか」
「周りの店から引き抜けば、今度はそちらが困ります」
アンナの返事は早かった。
「ヴェルナー商会の閉店で職を探す方はいますが、全員が夜勤を希望するわけではありません。家庭、体調、通勤、得意な仕事も違います」
私は勤務表の空白を指でなぞった。
店が増えるほど、人を数字として見てしまいそうになる。
20人採れば埋まる穴ではない。20通りの生活を、この店の時間と重ねることだ。
「研修センターを作ってみませんか?」
ミアが、控えめに手を挙げた。けれど私と目が合うと、サッと半分まで下げる。
「研修センター?」
「はい。経験者が足りないなら、未経験の方が学べる場所を作るんです。私も最初は、おにぎりの名前も、会計の仕方も知りませんでした」
「あの頃の私は、梅と肉味噌を逆に置いて、お客様から『これは運試しか?』って言われました。笑えませんでした。いえ、今なら少し笑えますけど、当時は穴があったらおにぎりと一緒に詰まりたかったです!」
「僕なんて、接客で声が出なかったっす」
ロウが笑う。
「リリアーナ様に、何度も教えてもらいました。今度は僕たちが教えればいいんじゃないですか」
ミアとロウが、教える側に立つ。
その言葉を聞いた時、最初の店の狭い帳場が思い浮かんだ。硬貨を数え間違えたミア。重い箱を一人で抱え、棚へぶつけたロウ。失敗するたびに、やり方を一緒に変えた。
あの時間は、二人だけのものではない。
「面白いじゃない」
私は勤務表の隣へ、新しい紙を置いた。
「未経験者を、働ける人に変えるのではなく、その人が安心して学び、自分に合う仕事を見つけられる場所にしましょう」
「私たちが教えていいんですか?」
提案したミア自身が、不安そうに尋ねた。
「あなたは、お客様が表示をどう勘違いするか、私より先に気づくでしょう。その力を教えてほしいの」
「でも私、立派な言葉なんて言えませんよ。『お客様の心に寄り添い、最高の購買体験を』とか言ったら、途中で舌を噛みます」
「言わなくていいわ。『この札じゃ分かりません』を教えて。立派な言葉より、その一言で迷う人が減るから」
「……それなら、たくさん言えます。リリアーナ様が作った最初の値札、字が小さすぎましたし」
「今ここで古傷を!?」
「教材です!」
ミアの背筋がピンと伸びた。どうやら最初の教材は、私の失敗らしい。講師第一号、さっそく容赦がない。
「僕は?」
「持てない荷物を、持てないと言うこと」
「それ、得意って言っていいんすか?」
「事故を防ぐ、大切な技術よ」
「冒険者を辞めた時、持てないとか怖いとか言うのは、負けだと思ってたっす。だから……同じふうに黙る人の顔なら、分かるかもしれません」
「それを教えられる人は、強いわ」
ロウは照れながら、少しだけ胸を張った。
◇◇◇
王都郊外に、かつて商業ギルドが検品講習に使っていた建物があった。
新しく大きな施設を建てるのではなく、そこを6週間かけて改修した。
片側は、王都店と同じ幅の通路、棚、帳場、加熱台を備えた模擬店舗。もう片側は、机と黒板を置いた講義室。火を使う設備は訓練用に出力を下げ、実際の商品を扱う日には衛生責任者を置く。
「本物の店みたいです!」
完成した模擬売り場を見て、ミアが目を輝かせた。
「でも、客役がいない時に速くできても、本番では違います」
試用中のレオナルド・ブランクが言った。
「迷っている方、聞こえにくい方、急いでいる方。何を求めているか分からないところから接客は始まります」
「よい指摘ね。ただし、あなたに最初から全課程を任せるつもりはありません」
「承知しています」
レオナルド・ブランクは、元支店長という肩書を教室へ持ち込まない。担当してもらうのは、自分の失敗を基にした一つの授業だけだ。
黒板には、4つの言葉を書いた。
『挨拶・清潔・速度・笑顔』
「これが、接客の基本です」
私が言うと、ミアは少し首を傾げた。
「笑えない日も、ありますよね」
ミアの声から、さっきまでの勢いが消えた。
「私、母が熱を出した日の夜、笑えませんでした。でもお給料が必要で、休みたいとも言えなくて。笑顔が基本って書かれたら、笑えない私は失格なのかなって思います」
「あるわ」
「笑えない日がある。それを隠すために頬を吊り上げることまで、仕事にはしないわ」
前世で、鏡に向かって口角を上げた夜を思い出す。心は床に落ちているのに、顔だけ『元気です』と貼りつける。あれは接客ではなく、自分を見失う練習だった。
私は黒板の下へ、短い説明を足した。
挨拶は、大声の競争ではない。店に気づいていることを、相手へ伝える。
清潔は、見た目だけではない。食べ物と人を、病気や異物から守る。
速度は、急いで間違えることではない。待つ理由を伝え、正確に終える。
笑顔は命令しない。疲れや不安を隠させず、表情が硬くても敬意ある言葉を使う。
「4つだけで、一流になれるわけではないのですね」
「入口の4つよ」
「よかった。4つで一流なら、私なんて初日に伝説になっていました」
「挨拶だけで3回噛んだ人が、どんな伝説になるんすか」
「『い、いら、いらっしゃ、ませぇ!』の人です!」
「妖怪みたいっす」
「ロウさんも声が小さすぎて、扉の軋む音に負けてました!」
「それは事実っす……」
笑いながらも、二人は自分の失敗を黒板の端へ書き始めた。成功だけを並べる先生より、転んだ場所を示せる先輩の方が、初めての人には近い。
そのほかに、手洗い、火傷、刃物、重い荷物、夜道の帰宅、個人情報、差別的な言動、苦情記録、警報、治療所への連絡を必須科目にした。
暴力や無理な値引き、規則外の薬を求められた時には断る。自分で判断できない時に、誰を呼ぶかも学ぶ。
「研修中の賃金は、どうしますか?」
アンナが尋ねる。
「支払います。研修も、店のために使う時間です」
受講時間は昼と夕方の2種類。夜勤可能な年齢かを確認し、家庭や体調の事情で夜に働けない人には、仕込み、倉庫、昼の補助業務という選択肢を示す。
夜の店だからといって、全員を夜へ押し込む必要はない。
◇◇◇
第1期は30人を募集した。
届いた応募は、150人分。
「5倍です!」
ミアは驚いたが、アンナは書類の山を見て表情を曇らせた。
「採らない120人へ、どう返事をするかも決めなくてはいけません」
「応募が多い、人気だ、やったー! ……で終われないのね」
「120人分の『ここで働きたかった』が残ります」
アンナの言葉に、浮きかけた気持ちがストンと着地した。
「結果だけでなく、基準を知らせましょう。次回応募できる時期と、ほかの就職窓口も」
選考では、元の職業や身分だけを見なかった。
勤務できる時間。通える距離。読み書きへの支援が必要か。重い物を持てるかではなく、持てない時に助けを求められるか。分からないことを、分かったふりせず聞けるか。
「なぜ、ここで学びたいのですか?」
若い女性マリアは、しばらく考えてから答えた。
「人と話すのが苦手です。でも、苦手なままでも、困っている人へ何か渡せる仕事がしたいです」
「前の店では、『そんな暗い顔では客が逃げる』と言われました。笑おうとすると余計に顔が固まって……最後には、売り場へ出なくていいと」
マリアは自分の頬へ触れた。
「ここでも、やっぱり駄目でしょうか」
「笑顔に自信は?」
「ありません」
「正直でいいわ。表情ではなく、言葉と確認から練習しましょう」
「笑えない人にも、渡せる親切はありますか」
「山ほどあるわ。商品を間違えない。分からないことを誤魔化さない。急かされても金額を確認する。それができる人を、私は『暗い』の一言で捨てたくない」
農村出身の青年エドワード・リードは尋ねた。
「お客様を大切にするというのは、何でも言うとおりにすることですか?」
「いい質問ね。違います」
「では、断ったら大切にしていないことになりませんか?」
「安全や公平を守るための断り方も、研修で扱います」
魔族領出身のガルスは、人間語を話せるが、細かな文字を読むのに時間がかかった。
「文字が遅いと、不採用ですか?」
ガルスは平静を装っていたが、応募書類の端が指の中でクシャリと鳴った。
「故郷では商売の記録をつけていました。でも人間語の字になると、子どもみたいに一文字ずつです。話せるなら読めるだろうと笑われるのが、一番……悔しい」
「仕事内容に必要な時間で読めるかを見ます。交易語を読めることは、別の強みです。対訳表を使って、どの仕事なら安全か確かめましょう」
「できないことだけでなく、できることも数えてくれるんですね」
「もちろん。欠けたところだけ数えたら、私なんて王女失格、料理人半人前、店長は暴走癖ありで、とっくに不採用よ」
「最後は否定できません」
横のアンナが即答した。そこは少しくらい迷って!
人間だから、魔族だからという枠は作らない。
同じ基準で選び、必要な支え方は一人ずつ変える。
30人を選んでも「優秀な30人」とは呼ばなかった。今の枠に合った30人だ。選ばれなかった人の価値が低いわけではない。
◇◇◇
2週間の基礎研修が始まった。
初日、30人の「いらっしゃいませ」が講義室へ響いた。
声が大きすぎて隣の人の言葉を消す者。緊張でほとんど聞こえない者。笑おうとして頬が引きつる者。
「いらっしゃいませええええっ!」
ドォン!
一人の大声が壁を殴り、黒板の粉がパラパラ落ちた。
「元気! 元気は満点です! ただ、その声量だとお客様より先に建物が逃げます!」
ミアが耳を押さえながら叫ぶ。注意する側も大声なので、教室が一瞬だけ挨拶の決闘場になった。
「全員、もう一度!」
ミアが言いかけ、私の方を見た。
「同じ挨拶にそろえなくてもいいのですね」
「ええ。相手に届けばいいわ」
ミアは研修生の前へ戻った。
「では今度は、目の前に一人のお客様がいると思ってください。大声ではなく、その方へ届く声で」
2度目の挨拶は、ばらばらだった。
けれど、誰に向けた声かが分かった。
マリアは、客役へ話しかける時になると、商品棚ばかり見た。
「顔を見ないと失礼でしょうか」
「ずっと目を合わせるのが苦手な方もいます」
ミアは、商品を示す手元へ視線を向けた。
「同じ物を見ながら話す方法もありますよ」
「どちらのおにぎりがいいですか」と聞かれたマリアは、梅と肉味噌を並べ、味の違いを短く説明した。最後まで満面の笑みにはならなかったが、客役は迷わず選べた。
「笑えなくても、案内できました」
マリアの声は小さい。でも初日の、消えてしまいたそうな小ささとは違った。
「私の顔、怖くなかったですか」
客役が首を振る。
「味をちゃんと教えてくれたから、選びやすかった。笑っているかより、私の質問を聞いてくれたのが嬉しかったです」
マリアは笑おうとして、やっぱり少し失敗した。それでも今度は、引きつった頬を隠さなかった。
彼女の小さな安堵を、ミアは自分のことのように喜んだ。
ロウの実習では、10個の箱を時間内に棚へ運ぶ課題を出した。
エドワード・リードは急いで2箱を重ね、足元をふらつかせた。
「時間が足りません!」
「その時に言うことは?」
「もっと急ぎます?」
「違うっす。『手を貸してください』です」
ロウは片方の箱を受け取った。
「速い人は格好いい。でも、落とさない人の方が、店では頼れるっす」
エドワード・リードは悔しそうだったが、次の訓練では開始前に二人一組を申し出た。
3日目、レオナルド・ブランクが教壇へ立った。
黒板へ書いた題は、『報告しなかった失敗』。
「私は前の職場で、材料を替えれば苦情が出ると分かっていました。2度は上へ書きました。却下され、3度目からは書かなかった」
研修生たちが静かになる。
「その結果、店員に『決まったことだから黙って売れ』と言いました。皆さんへ教えられる成功談は、まだありません。だから今日は、異常を見つけた時に、誰へ、どんな記録で伝えるかを一緒に考えます」
「元支店長なのに、成功談がないんですか」
後ろの研修生が、おそるおそる尋ねた。
「あります。売上を伸ばした月も、表彰された年も。しかし今の私がそれを語れば、都合の悪い続きを切った自慢話になる」
レオナルド・ブランクは、机の縁を握った。
「正直、恥ずかしいです。年下の皆さんに、なぜそんな簡単なこともできなかったのかと思われるのが怖い。ですが隠したら、私はまた肩書を守るために誰かへ黙れと言う人間へ戻る」
「悔しくないんですか?」
「悔しいですよ。穴を掘って、元支店長の看板ごと埋まりたいほどに」
「看板は分別してから埋めてください」
ミアの真剣な補足に、教室からクスリと笑いが漏れた。レオナルドも、少しだけ肩の力を抜いた。
彼は自分の過去を、立派な教訓へ磨かなかった。
失敗のまま差し出した。
その授業で、研修生たちは「忙しいから後で」と消えていく報告を防ぐため、時刻、商品、起きたこと、応急対応の4項目だけを先に残す札を作った。
◇◇◇
最終日の試験には、ディラン、ハンス、ヴォルガーたちが客役として協力した。
ただ買物をするだけではない。
ディランは在庫切れの商品を頼む。ハンスは急いでいるが、会計額を間違えて伝える。ヴォルガーは人間語の商品名が分からないふりをする。治療所の職員は、店員には判断できない体調相談を持ちかける。
「肉まんは、もうないのか?」
「申し訳ありません」
エドワード・リードは棚を確認し、代わりを急いで押しつけなかった。
「次に蒸し上がる時刻を確認します。お待ちにならない場合は、同じくらい食べ応えのあるおにぎりもご案内できます」
マリアは、会計を急かされて手が止まった。
「お待たせしてすみません。でも、金額が違う可能性があります。確認を呼びます」
早さの試験なら減点かもしれない。
この店では、間違いを止めたことを評価した。
ガルスは、交易語で話すヴォルガーへ答えたあと、人間語でも内容を繰り返した。
「一緒に並ぶお客様にも、何を話しているか分かる方が安心だと思いました」
「私を特別扱いしながら、周りを不安にさせない。良い案内でした」
ヴォルガーがうなずく。
30人全員が、基礎課程を修了した。
それは、全員が2週間で一流の店員になったという意味ではない。
12人は指導者付きで店舗へ配属。8人は倉庫と仕込みへ。6人は追加の会計・読み書き研修。4人は家庭の事情で、勤務開始を翌月まで待つことを選んだ。
「修了したのに、すぐ店に立てない私は、遅れているのでしょうか」
追加研修になった一人が尋ねた。
「いいえ。任せる側が、必要な準備を見つけたということです」
私は30人へ、同じ修了証を渡した。
「お客様を大切にする。仲間を大切にする。そして、自分を使い潰さない。この3つを忘れないでください」
◇◇◇
1か月後。
配属された研修生が入った時間帯では、会計のやり直しが2割減り、店員を呼べずに待ったという苦情も減った。
3店舗の売上は前年ではなく、直前4週間の同じ曜日平均と比べて15%伸びた。ただし物流改善、新商品、寒波後の客足も重なっているため、研修だけの成果とは言えない。
何より確かなのは、既存店員の連続勤務が減り、予定どおり休める日が増えたことだった。
エドワード・リードからは、第二号店で客の名前を覚えようとして、本人に尋ねすぎた失敗の報告が届いた。
マリアは王都店で、静かな案内が落ち着くと言われた。
ガルスは国境店の準備班へ入る前に、交易語の対訳札作りを担当している。彼一人へ「種族の橋渡し」を背負わせないため、ほかの研修生も言葉を学び始めた。
「第2期は、60人の枠へ400人の応募です」
アンナが報告する。
「倍に増やして、質を保てる?」
「講師と実習台が足りません。2組に分け、開始時期をずらす必要があります」
「では、人数だけ先に増やさないで。第1期の指導記録を見直してから始めましょう」
人への投資は、人を急いで商品にすることではない。
時間をかけ、失敗できる場所を作り、その人の生活ごと仕事を続けられるようにすることだ。
「人事は最大の投資、ですか」
レオナルド・ブランクが言う。
「ええ。でも、利益率が一番高い、という意味ではないわ」
「人がいなければ、技術も店も動かない」
「それに、人が育てば、私一人にできない店が作れるもの」
褒められたくて、必要とされたくて、何でも自分で決めようとした頃があった。
今は、私がいない場所でも誰かが正しい判断をできることが、嬉しい。
ミアが窓辺から、ふと外を見た。
「リリアーナ様。向かいの路地にいる人、さっきからこちらを見ていませんか?」
暗い外套の人影が、こちらの視線に気づいて顔を伏せた。
「今日だけじゃないっす」
ロウが声を落とす。
「ここ1週間、同じ場所で見ました」
新しい仲間が育ち始めた店の外で、古い因縁が、またこちらを見つめていた。
「追いかけないで」
ロウが動く前に、私は言った。
「見た時刻、場所、服装、行動だけ記録する。考えていることは書かない」
ミアがカーテンを半分閉め、アンナが夜警への連絡札を出す。
育った仲間は、私が命じる前からそれぞれの役目を選んだ。
頼もしいからこそ、誰も危険へ走らせない。
私たちは店内の灯りを消さず、暗い路地の人影を事実だけで記録し始めた。




