第58話 人事は最大の投資
「リリアーナ様、人手不足が深刻になってきました」
アンナが心配そうな表情で報告書を持ってきた。物流システムの革新により売上が急拡大した結果、スタッフの負担が増加しているのだ。
「どれくらい足りないの?」
「現在の店舗数では、最低でも20人は必要です。国境店舗や魔族領進出を考えると、さらに30人は必要でしょう」
「50人も...」リリアーナは頭を抱えた。「でも、経験者をそんなに大量採用するのは現実的じゃないわよね」
「はい。それに、経験者でも私たちの理念やサービス基準を理解してもらうのに時間がかかります」
その時、ミアが提案した。
「研修センターを作ってみませんか?」
「研修センター?」
「はい!未経験者でも、しっかり研修すれば立派なスタッフになれると思うんです」
「でも、研修って言っても...」ロウが首をかしげる。
「僕たちも最初は何も知らなかったけど、リリアーナ様が丁寧に教えてくれたから成長できました」
確かに、ミアもロウも最初は完全な未経験者だった。それが今では、どこに出しても恥ずかしくない接客スキルを身につけている。
「なるほど...確かに、体系的な研修プログラムがあれば」
リリアーナは前世の記憶を思い出していた。コンビニ本部の研修制度は非常に充実していて、未経験者でも短期間で戦力にできるシステムがあった。
「やってみましょう。本格的な研修センターを開設して、人材育成に投資する」
「本当ですか!?」ミアが目を輝かせる。
「ええ。人への投資が最大のリターンをもたらすっていうし」
◇◇◇
研修センターの建設は驚くほど順調に進んだ。王都郊外の静かな場所に、実際の店舗と同じ設備を備えた研修施設が完成した。
「すごい...本物の店舗みたい」
見学に来たゼルドが感心している。研修センターは単なる教室ではなく、実店舗と全く同じレイアウトの模擬店舗になっていた。
「研修は実践的でなければ意味がないからね」リリアーナが説明する。
「レジ、商品棚、厨房設備...全て本物と同じ」
「これなら、研修で覚えたことがそのまま現場で活かせますね」
模擬店舗の隣には講義室も設置されている。理論的な部分はここで学び、実践は模擬店舗で行うという二段構えの構成だ。
「研修カリキュラムはどうします?」元ヴェルナー商会のレオナルドが尋ねる。
彼は現在、研修講師として活動することになっていた。失敗を通じて学んだ経験を、新人教育に活かそうというリリアーナの提案だった。
「基本の4原則を中心に組み立てましょう」
「基本の4原則?」
「挨拶・清潔・速度・笑顔。この4つが接客サービスの基本よ」
リリアーナは黒板に大きく書いた。
『挨拶・清潔・速度・笑顔』
「この4つができれば、どんな未経験者でも一流のスタッフになれる」
「なるほど...確かに、これらは全ての基本ですね」レオナルドが納得する。
「挨拶は人間関係の出発点。清潔は商品と店舗への責任。速度は効率とお客様への配慮。笑顔は心からのおもてなし」
ミアが感心して呟く。
「私たちも最初に教わったことですね」
「そう。これらは技術ではなく、心構えの問題。だからこそ、しっかりと教育する価値がある」
◇◇◇
第一期研修生の募集を開始すると、予想以上の応募があった。
「30人の募集に対して、150人の応募です」アンナが報告する。
「5倍の競争率...それだけ働く場所を求めている人が多いということね」
応募者の顔ぶれは実に多様だった。農村出身の青年、王都の職を失った中年男性、働きたいと願う若い女性、そして数人の魔族も含まれていた。
「面接はどうしましょう?」
「経験や技能より、やる気と人柄を重視しましょう」
リリアーナは面接で、一人一人と丁寧に話した。
「なぜ、うちで働きたいと思ったのですか?」
「お客様を大切にする仕事がしたいからです」若い女性が答える。
「困っている人を助けたいです」農村出身の青年が真剣な表情で言う。
「前の仕事を失って、一から学び直したいんです」中年男性が頭を下げる。
みんな、それぞれの理由があった。でも、共通しているのは「人の役に立ちたい」という気持ちだった。
「魔族の方からの応募もありましたが...」アンナが気にしている。
「もちろん歓迎よ。お客様に魔族の方がいるなら、スタッフにも魔族の方がいた方が良いサービスができる」
最終的に選ばれた30人は、年齢も出身もバラバラだったが、全員が強いやる気を持っていた。
◇◇◇
研修初日、30人の研修生が緊張した面持ちで講義室に座っていた。
「皆さん、よく来てくださいました」リリアーナが壇上に立つ。
「これから2週間、みっちりと研修を行います。大変かもしれませんが、必ず一流のスタッフに育てます」
研修生たちの目に期待と不安が混じっている。
「まず、私たちの理念から説明しましょう。『便利は正義』」
「便利は正義...」何人かが小声で復唱する。
「困っている人がいたら助ける。お腹をすかせた人がいたら美味しいものを提供する。疲れた人がいたら癒しの場を提供する」
「それが、私たちの仕事です」
研修生の一人、エドワードという青年が手を上げる。
「質問があります。なぜ、そこまでお客様のことを考えるのですか?」
「良い質問ね」リリアーナが微笑む。
「お客様が幸せになると、私たちも幸せになるからよ。お客様の笑顔を見ると、『この仕事をしていて良かった』って心から思える」
「なるほど...」
「それに、お客様を大切にすることで、結果的に事業も成功する。みんながWin-Winになるのよ」
続いて、基本の4原則の説明に入った。
「挨拶は、お客様との最初の接点です」ミアが実演する。
「いらっしゃいませ!」
元気で明るい声が講義室に響く。
「この挨拶で、お客様の第一印象が決まります」
研修生たちも実際に練習してみる。
「いらっしゃいませ!」
最初はぎこちないが、繰り返すうちに少しずつ改善されていく。
「清潔は、商品と店舗への責任です」レオナルドが説明する。
「汚れた手で商品を扱うことは、お客様への裏切りです」
実際に手洗いの方法から、制服の手入れまで、細かく指導する。
「速度は、お客様への配慮です」ロウが担当する。
「忙しいお客様を待たせることは、時間泥棒と同じです」
レジ操作、商品の袋詰め、全ての動作を効率的に行う方法を教える。
「笑顔は、心からのおもてなしです」
これはリリアーナ自身が教える。
「作り笑いではなく、心からの笑顔。お客様に喜んでもらいたいという気持ちが、自然な笑顔を作ります」
◇◇◇
研修3日目、研修生たちに変化が見え始めた。
「おはようございます!」
朝一番の挨拶が、初日より格段に明るくなっている。
「皆さん、だいぶ慣れてきましたね」リリアーナが嬉しそうに言う。
「はい!楽しくなってきました」研修生の一人、マリアが答える。
「どの部分が楽しい?」
「お客様役の人が笑顔になってくれると、こちらも嬉しくなるんです」
「それよ!その気持ちが一番大切」
実践訓練では、研修生同士がお客様役とスタッフ役を交代で演じる。最初はぎこちなかったが、だんだん自然になってきた。
「すみません、おにぎりはありますか?」お客様役の研修生が尋ねる。
「はい!こちらにございます」スタッフ役が元気よく案内する。
「どちらがお勧めですか?」
「梅おにぎりが人気ですが、今日は肉味噌おにぎりも美味しく仕上がっています」
自然な会話ができるようになっている。
「良いですね」レオナルドが講評する。「お客様の質問に対して、選択肢を提示している。これは高度な接客技術です」
「高度って、僕にもできるんですね」スタッフ役の青年が驚く。
「もちろん。君たちは想像以上に成長している」
魔族の研修生、ガルスも頑張っていた。
「最初は人間のお客様と接するのが不安でしたが、今では楽しくなってきました」
「どうして楽しくなったの?」
「美味しいものを勧めて、喜んでもらえると、種族なんて関係ないって感じられるんです」
その言葉に、他の研修生たちも深く頷いた。
◇◇◇
研修1週間目、模擬店舗での実践訓練が本格化した。
「今日からは、本物の店舗と同じ条件で訓練します」リリアーナが宣言する。
実際の商品を使い、本物のレジを操作し、時間制限も設ける。緊張感のある実践的な訓練だ。
「制限時間内に、お客様10人を接客してください」
研修生たちは緊張しながらも、これまで学んだことを活かそうと必死だった。
「いらっしゃいませ!」
「こちらの商品はいかがですか?」
「ありがとうございました!」
一人一人が、自分なりの接客スタイルを見つけ始めている。
「すごい成長ぶりね」ミアが感心している。
「最初は緊張でガチガチだった人が、今では自然に笑顔で接客している」
「それだけじゃなく」ロウが付け加える。
「お客様のことを本当に考えている接客になってる」
確かに、研修生たちの接客は単なる作業ではなく、心のこもったサービスになっていた。
「エドワード君、すごく良くなったわね」
「ありがとうございます。最初は『お客様を大切に』って言われても、よく分からなかったんですが...」
「今は分かる?」
「はい。お客様が喜んでくれると、自分も嬉しいって気持ちが分かりました」
「それが接客の本質よ」
マリアも大きく成長していた。
「私、人と話すのが苦手だったんですが、今では楽しくお話しできるようになりました」
「どうして変われたの?」
「お客様のことを知りたいって思うようになったんです。どんなものが好きなのか、何を求めているのか」
「それが接客の心ね」
ガルスは、魔族として独特の貢献をしていた。
「人間のお客様も、魔族のお客様も、根本的な欲求は同じだって学びました」
「どんな欲求?」
「美味しいものを食べたい、親切にされたい、大切にされたい」
「その通りよ」
◇◇◇
研修2週間目の最終日、卒業試験が行われた。
「今日は実際のお客様に来ていただいて、本当の接客をしてもらいます」
常連客のディランやハンス、ヴォルガーたちが協力してくれることになった。
「緊張するなぁ」研修生たちがざわめく。
「大丈夫。これまで学んだことを活かせば、必ずできる」
試験開始。研修生たちは、これまで学んだ全てを発揮した。
「いらっしゃいませ!本日はお疲れ様です」エドワードが自然な挨拶をする。
「おお、感じの良い挨拶だな」ディランが感心する。
「何かお探しですか?」
「肉まんが食べたいんだが」
「かしこまりました。蒸したてをご用意いたします」
手際よく肉まんを取り出し、袋に入れて差し出す。
「ありがとう。気持ちの良い接客だった」
他の研修生たちも、それぞれの個性を活かした接客を見せている。
マリアは丁寧で親切な接客、ガルスは魔族の視点を活かした商品説明、みんなが自分らしいスタイルを確立していた。
「全員、合格です!」
リリアーナの発表に、研修生たちから歓声が上がった。
「やった!」
「僕にもできた!」
「こんなに変われるなんて思わなかった!」
みんなの顔は、自信と達成感に満ちていた。
◇◇◇
卒業式では、一人一人に修了証書が授与された。
「エドワード君、あなたは人間関係の構築が得意ですね。きっと良い店長になれるでしょう」
「マリアさん、あなたの細やかな心遣いは、お客様に安心感を与えます」
「ガルスさん、あなたの国際的な視野は、これからの事業展開に必要不可欠です」
一人一人の個性と成長を認めて、それぞれに期待を込めたコメントを贈る。
「皆さん、2週間お疲れ様でした」
「ありがとうございました!」
「今日から皆さんは、誇り高き『夜明けの星』のスタッフです」
「はい!」
「お客様を大切にし、仲間を大切にし、自分自身も大切にして、素晴らしい仕事をしてください」
修了生たちは、それぞれの配属店舗に向かった。エドワードは2号店、マリアは王都旗艦店、ガルスは国境店舗の準備チーム...
それぞれが新しいステージで活躍することになる。
◇◇◇
1ヶ月後、各店舗から嬉しい報告が届いた。
「研修生の皆さん、素晴らしい活躍ぶりです」アンナが報告する。
「どんな感じ?」
「まず、顧客満足度が全店舗で向上しています」
「本当に?」
「はい。特に『スタッフの接客が良くなった』という声が多数寄せられています」
ミアも現場からの声を伝える。
「エドワードくん、もう完全に戦力になってます。お客様からの評判もすごく良いです」
「マリアさんも、細かい気配りでお客様に喜ばれています」
ロウも報告する。
「ガルスさんは魔族のお客様との橋渡し役として大活躍です」
売上データでも、研修生配属後の改善が明確に現れていた。
「平均して15%の売上向上が見られます」
「15%も?」
「はい。接客品質の向上により、客単価とリピート率が上昇しています」
何より嬉しかったのは、研修生たち自身の成長だった。
エドワードからの手紙が届いた。
『リリアーナ様、毎日が充実しています。お客様に「ありがとう」と言われるたびに、この仕事を選んで良かったと思います』
マリアからも。
『最初は自分に接客ができるか不安でしたが、今では天職だと感じています』
ガルスからも。
『人間と魔族の架け橋になれている実感があります。研修で学んだことが、毎日役に立っています』
「みんな、本当に成長したのね」リリアーナが感慨深そうに呟く。
「はい。人への投資が最大のリターンを生むって、まさにこのことですね」レオナルドが同意する。
「でも、まだ始まったばかりよ」
「第二期の募集も開始しましょう」
今度は60人の募集に対して、なんと400人の応募があった。
「研修センターの評判が広まったようですね」
「第一期生が活躍してくれているおかげね」
こうして、人材育成システムは確実に根づいていく。
「人事は最大の投資」
リリアーナはその言葉の真実を、改めて実感していた。
技術やシステムも大切だが、最終的にサービスを提供するのは人だ。その人を大切に育てることが、事業の根幹なのだ。
『夜明けの星』は、優秀な人材と最新のシステムで、さらなる高みを目指していく。
そして、その全ての基盤にあるのは、「人を大切にする」という変わらない理念だった。