第56話 商会の疲弊
「あれ?向かいの商会支店、なんだか様子がおかしくない?」
ミアが窓から外を覗きながら首をかしげた。王都旗艦店の斜め向かいにあるヴェルナー商会の支店は、以前はいつも賑わっていたのだが、最近は明らかに客足が減っている。
「確かに、以前ほど混雑してませんね」ロウも同意する。
リリアーナも窓の外を見てみた。ヴェルナー商会の支店は、確かに以前と様子が違う。店員の動きも活気がなく、どことなく暗い雰囲気が漂っている。
(価格戦争を仕掛けてきた時は、あんなに威勢が良かったのに...)
思い返せば、ヴェルナー商会は数ヶ月前まで執拗な妨害工作を続けていた。価格操作、風評被害、人材引き抜き...あらゆる手段を使って夜営業事業を潰そうとしていた。
でも、議会での完全勝利以降、急に静かになった。そして今では、むしろ彼らの方が苦戦しているように見える。
「リリアーナ様、実は気になることがあります」アンナが資料を持ってきた。「最近、元ヴェルナー商会の従業員の方が、うちに転職希望で来られることが増えているんです」
「そうなの?」
「今週だけで3人も。みなさん、同じようなことをおっしゃいます」
「どんなこと?」
「『質の高いサービスがしたい』『お客様を大切にする仕事がしたい』...そういった内容です」
リリアーナは眉をひそめた。それは、つまり現在のヴェルナー商会では、質の高いサービスができない環境になっているということだ。
「詳しく聞いてみましょうか」
◇◇◇
その日の午後、元ヴェルナー商会の従業員だったという青年、ハルトが面接に来た。
「前職はどちらでしたか?」リリアーナが尋ねる。
「ヴェルナー商会の王都支店で、3年間働いていました」ハルトは少し複雑な表情を見せた。
「退職された理由を聞かせてください」
「...正直に言ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
ハルトは深く息を吸ってから話し始めた。
「最初は、ヴェルナー商会は立派な会社だと思っていました。歴史もあるし、取引先も多いし」
「はい」
「でも、この数ヶ月で完全に変わってしまいました」
「どのように?」
「価格競争に勝つために、とにかくコストカットです。商品の質を下げ、サービスを削り、人件費も削減」
ハルトの声には、明らかな失望が込められていた。
「具体的には、どんなことが?」
「例えば、パンを作る時の材料費を半分にしろと言われました。小麦粉の質を落とし、バターの代わりに安い油を使えと」
(それは...ひどい)
「当然、味も食感も全然違います。でも『客は分からない』と上司は言うんです」
「お客様は、気づかなかったんですか?」
「いえ、すぐに気づかれました」ハルトは苦笑いを浮かべた。「『前より美味しくない』『質が落ちた』という苦情が続出しました」
「それで、改善は?」
「『価格を下げたんだから当然だ。嫌なら他所に行け』と支店長が言いました」
リリアーナは絶句した。これは経営戦略というより、自滅行為だ。
「他にも問題が?」
「接客にも口を出されるようになりました。『無駄な愛想は禁止』『クレーム対応は最低限に』『売上に直結しないサービスは一切するな』」
(それって、接客業として致命的じゃない...)
「正直、お客様の顔を見るのが辛くなりました」ハルトが続ける。「明らかに失望されているのが分かるのに、改善することを禁じられているんです」
◇◇◇
面接の後、リリアーナは考え込んでいた。ハルトの話が本当なら、ヴェルナー商会は完全に間違った方向に進んでいる。
「価格競争に勝つために、品質とサービスを犠牲にする...これは経営の基本を無視した判断ね」
前世の記憶でも、こういう失敗例をたくさん見てきた。短期的な利益を求めて品質を下げた結果、長期的に顧客を失い、最終的に倒産する企業。
「アンナ、ヴェルナー商会支店の近況を、もう少し詳しく調べてもらえる?」
「承知いたします」
翌日、アンナが詳細な報告を持ってきた。
「調査結果です。かなり深刻な状況のようです」
「どれくらい?」
「まず、客数が半年前の3分の1に減少しています」
「3分の1って...それは致命的ね」
「売上も同様に減少。そのため、さらなるコストカット策を実行中とのことです」
「負のスパイラルに入ってるのね」
アンナが続ける。
「従業員の離職率も異常に高くなっています。この3ヶ月で、スタッフの半数が退職」
「それで残った人たちの士気は?」
「最悪のようです。『こんな商品を売りたくない』『お客様に申し訳ない』という声が多数聞かれます」
リリアーナは資料を見ながら、ため息をついた。これは教科書通りの失敗パターンだった。
◇◇◇
その夜、常連客のディランが興味深い話をしてくれた。
「今日、久しぶりにヴェルナー商会の支店に行ってみたんだよ」
「どうでした?」ミアが尋ねる。
「ひどいもんだった。パンは固いし、スープは薄いし、店員の愛想は悪いし」
「以前は、そうでもなかったんですよね?」
「そうなんだよ。半年前まではそれなりだったのに、最近は本当にダメ」
ディランが首を振る。
「特にひどかったのが、苦情を言った時の対応」
「どんな?」
「『安いんだから文句言うな』って言われたんだよ。客商売でそれはないだろ」
その話を聞いていた他の常連客も、口々に体験談を語り始めた。
「俺も似たような目に遭った」衛兵のハンスが言う。「夜食を買いに行ったら、『深夜料金で2割増し』だって」
「2割増し?それはひどい」
「しかも、肝心の商品は以前より質が落ちてる。これじゃあ客が逃げるのも当然だ」
「値段を下げたと思ったら、今度は深夜料金?」ベルトが呆れる。「支離滅裂じゃないか」
魔族のヴォルガーも体験談を語った。
「私も先日、試しに行ってみました。でも、魔族だと分かると、明らかに嫌な顔をされました」
「え?それは差別じゃないですか」
「『うちは人間専用だ』とまで言われました。こちらでは、そんなこと一度もないのに」
常連客たちの話を聞いて、リリアーナは状況の深刻さを改めて実感した。
(これは、もう商売として成り立ってない)
◇◇◇
翌週、ついに決定的な出来事が起こった。
ヴェルナー商会の支店長、レオナルド・ブランクが一人で店にやって来たのだ。
「リリアーナ・フィオーレ殿」彼の表情は疲労と困惑に満ちていた。
「レオナルド支店長、いらっしゃいませ」
「少し、お話しいただけないでしょうか」
「もちろんです。どうぞ、お座りください」
レオナルドは深くため息をついてから口を開いた。
「率直にお聞きします。どうすれば、あなたのような店を作れるのでしょうか?」
「と言いますと?」
「私の店は...もうダメです」彼は頭を抱えた。「客は来ない、従業員は辞める、本社からは叱責される」
「大変ですね」
「本社の方針に従って、価格を下げ、コストを削減し、効率化を図りました。でも、結果は最悪です」
レオナルドの声は震えていた。
「どこで間違ったのか、分からないんです」
リリアーナは少し考えてから答えた。
「レオナルド支店長、お客様が店を選ぶ理由は何だと思いますか?」
「価格...ですか?」
「それも一つの要因です。でも、最も大切なのは?」
「...分かりません」
「満足度です」リリアーナがはっきりと言った。「お客様が『来て良かった』と思えるかどうか」
「満足度...」
「価格が安くても、まずい料理では満足できません。接客が悪ければ、二度と来たくなくなります」
レオナルドは深く頷いた。
「つまり、私たちは根本的な部分を間違えていたということですか?」
「そうかもしれません」
「価格を下げることばかり考えて、お客様の満足を軽視していた」
「でも、まだ間に合うかもしれません」リリアーナが励ます。「基本に立ち返れば」
「基本...とは?」
「美味しいものを作る。心を込めて接客する。お客様を大切にする。それだけです」
◇◇◇
それから一週間後、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
「ヴェルナー商会の王都支店、閉店だって」ディランが新聞を持ってきた。
「閉店?」
「採算が取れないって理由らしい」
リリアーナは新聞記事を読んだ。確かに、ヴェルナー商会王都支店の閉店が発表されている。理由は「継続的な赤字経営により、採算性の確保が困難」とのことだった。
「レオナルド支店長は、どうなるんでしょう?」ミアが心配そうに尋ねる。
「分からないけど...大変だと思う」
その時、店の扉が開いて、見覚えのある人物が入ってきた。レオナルドだった。でも、以前の支店長らしい威厳は完全に失われ、一人の疲れた中年男性という印象だった。
「リリアーナ殿...」
「レオナルド支店長、お疲れ様でした」
「もう支店長ではありません」彼は苦笑いを浮かべた。「店が閉店しましたから」
「今後は、どうされるご予定ですか?」
「実は...お願いがあります」
「どのようなお願いでしょう?」
「私を、雇ってもらえないでしょうか」
店内が静まり返った。ヴェルナー商会の元支店長が、競合他社だった店での雇用を求めている。これは、前代未聞の出来事だった。
「理由を聞かせてください」
「私は、本当の商売を学び直したいのです」レオナルドが真剣な表情で続ける。「この数ヶ月で、自分がいかに商売の基本を忘れていたかを痛感しました」
「商売の基本...」
「はい。お客様を大切にすること、良い商品を提供すること、心のこもったサービスをすること」
レオナルドの目には、深い反省と、新しいことを学びたいという意欲が宿っていた。
「私は、あなたから学びたいのです」
◇◇◇
リリアーナは少し考えてから答えた。
「分かりました。でも、条件があります」
「どのような条件でも受け入れます」
「一般スタッフからのスタートになります。特別扱いはしません」
「承知しています」
「それから、過去の経歴は関係ありません。ここでは、お客様を大切にする気持ちがあれば、それで十分です」
「ありがとうございます」レオナルドが深々と頭を下げた。
こうして、元競合他社の支店長が、新人スタッフとして加わることになった。
「レオナルドさん、よろしくお願いします」ミアが元気よく挨拶する。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「僕も、色々教えますよ」ロウも歓迎の意を示す。
「ありがとう。君たちから学ばせてもらいます」
その夜、営業が始まると、レオナルドは新人らしく一生懸命働いた。接客の基本から、商品の扱い方まで、全てを謙虚に学ぼうとする姿勢が印象的だった。
「こんなに丁寧に挨拶するんですね」
「はい。お客様は神様ですから」ミアが当然のように答える。
「神様...そうですね。私は、それを忘れていました」
常連客たちも、レオナルドの変化に驚いていた。
「あの支店長が、こんなに腰が低いなんて」
「人間、失敗すると変わるもんだな」
「でも、素直に学ぼうとする姿勢は立派だ」
◇◇◇
閉店後、スタッフ全員で今日の振り返りを行った。
「レオナルドさん、初日はいかがでしたか?」リリアーナが尋ねる。
「目から鱗でした」レオナルドが率直に答える。「全てが新鮮で、そして当たり前のことでした」
「当たり前のこと?」
「お客様が喜んでくださることを、素直に嬉しく思う。困っている方がいれば、自然に手を差し伸べる」
「それが、商売の基本ですからね」ミアが笑顔で言う。
「そうですね。私は、それを複雑に考えすぎていました」
レオナルドは振り返った。
「ヴェルナー商会では、数字ばかり追いかけていました。売上、利益率、コスト削減...」
「数字も大切ですが」リリアーナが続ける。
「でも、数字の前に人がいるということを忘れてはいけませんね」
「その通りです」
レオナルドは、しみじみと言った。
「価格戦争に勝とうとして、最も大切なものを失ってしまいました」
「最も大切なもの?」
「お客様からの信頼です」
その言葉に、全員が深く頷いた。
「でも」リリアーナが励ます。「今からでも遅くありません。お客様の信頼は、日々の積み重ねで取り戻せます」
「そうですね。頑張ります」
レオナルドの表情には、新しいスタートへの決意が宿っていた。
「それにしても」アンナが資料を見ながら言う。「ヴェルナー商会の失敗は、まさに教科書通りですね」
「どういう意味ですか?」レオナルドが尋ねる。
「短期的な利益を求めて品質を下げ、結果的に顧客を失い、最終的に閉店に追い込まれる」
「商業学の典型的な失敗パターンです」
レオナルドは苦笑いを浮かべた。
「私たちは、反面教師として語り継がれるのでしょうね」
「でも、そこから学んで立ち直れば、それは成功談になります」リリアーナが希望を示す。
「そうありたいものです」
その夜、リリアーナは改めて確信した。
(正道を歩むことの正しさ。お客様を大切にし、品質にこだわり、真心を込めてサービスする。これこそが、商売の王道なのね)
ヴェルナー商会の失敗は、彼女たちの経営方針が正しかったことを証明していた。そして、その失敗から学ぼうとするレオナルドのような人がいる限り、商売の世界にはまだ希望があるのかもしれない。
『夜明けの星』は、今夜もまた新しい仲間を迎えて、温かい光を放ち続けていた。