第51話 魔族の客、現る
「今夜も平和な夜ね」
リリアーナは店内を見回しながら、満足そうに呟いた。午後11時を回り、いつもの常連客たちがそれぞれの定位置で温かい食事を楽しんでいる。
衛兵のハンスは今日も「いつものスープとおにぎり2個」を注文し、冒険者のディランは肉まんを頬張りながら今日の依頼の話をしている。宿屋の常連客も数人、夜食を求めて来店していた。
「リリアーナ様、おでんの大根がもうすぐなくなりそうです」ミアが大鍋を覗き込みながら報告する。
「ありがとう。明日の分の仕込みを少し多めにしておきましょうか」
「はい!最近、おでん目当てのお客様も増えてますもんね」
ロウは黙々と皿洗いをしながら、時々客席の様子を眺めている。この平和な光景が、彼にとっては何よりも心地よいのだろう。
(いい雰囲気ね。みんながリラックスして、楽しそうに食事してる。これが私の目指していた空間)
店内には温かい湯気と、満足した客たちの穏やかな会話が満ちている。照明の魔灯が作り出す柔らかな光が、すべてを優しく包み込んでいた。
ちょうどその時だった。
店の扉がゆっくりと開く音がした。
◇◇◇
「いらっしゃい...」
ミアの声が途中で止まった。
店内にいた全ての客が、一斉に入口を振り向く。そして、静寂が訪れた。
立っていたのは、明らかに人間ではない存在だった。
身長は人間の男性と同程度だが、額の両側から湾曲した角が生えている。肌は薄い青みがかった色で、瞳は深い紫色をしていた。身に着けているのは旅人の装束だが、所々に人間のものとは異なる装飾が施されている。
「ま...魔族だ」
誰かが小さく呟いた。
店内の空気が一変した。ざわめきが起こり、何人かの客が身を強張らせる。冒険者のディランは反射的に腰の剣に手をかけそうになったが、慌てて手を引っ込めた。
魔族の旅人は、そんな周囲の反応を察してか、入口付近で立ち止まったまま動かなくなった。
(あー、これは...緊張する状況ね)
リリアーナは内心で苦笑した。魔族の存在は知識として知っていたが、実際に会うのは初めてだった。王国と魔族領の間には一応の平和協定があるものの、一般的な交流はほとんどない。普通の人間にとって、魔族は「恐ろしい存在」「得体の知れない相手」というイメージが強いのだろう。
でも、リリアーナには前世の記憶がある。日本のコンビニで働いていた時、様々な国籍の客を相手にしてきた経験が。
(見た目が違うからって、中身まで違うとは限らない。それに...)
魔族の旅人をよく見ると、その表情には疲労と、そして少しの不安が浮かんでいる。長旅の疲れと、周囲の視線に対する緊張。それは、人間と何も変わらない感情だった。
「いらっしゃいませ」
リリアーナは自然な笑顔で声をかけた。
魔族の旅人が驚いたように振り向く。
「何かご注文はいかがですか?」
「あ...その...」
魔族の旅人は戸惑ったような表情を見せた。おそらく、こんなに普通に接されることを予想していなかったのだろう。
「初めてのご来店ですね。当店のお勧めは、肉まんとスープのセットです。温かくて美味しいですよ」
「...本当に、注文して良いのですか?」
その声には、遠慮と期待が混じっていた。
「もちろんです。お客様はお客様です」
リリアーナの言葉に、魔族の旅人の表情が少し和らいだ。
「では...肉まんを、一つお願いします」
「はい、承りました。熱々をご用意しますね」
◇◇◇
ミアは最初こそ動揺していたが、リリアーナの自然な対応を見て、すぐに普段の調子を取り戻した。
「肉まん一つ、承りました!」
元気な声で復唱すると、蒸篭から湯気の立つ肉まんを取り出す。その手際は普段と何も変わらない。
「アツアツですので、気をつけてくださいね」
魔族の旅人は、差し出された肉まんを受け取ると、まじまじとそれを見つめた。
「これが...肉まん」
「はい。人間の料理ですが、きっと気に入っていただけると思います」
「人間の...料理」
魔族の旅人は、まだ少し躊躇していた。周囲の客たちも、固唾を呑んで見守っている。
そして、恐る恐る一口食べた。
その瞬間だった。
「...っ」
魔族の旅人の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「美味しい...」
その声は震えていた。
「温かい...こんなに、温かい食べ物を食べたのは...」
さらに涙がこぼれる。
「人間の作った食べ物が、こんなに...こんなに美味しいなんて」
店内にいた全ての人が、その光景に息を呑んだ。
魔族の旅人は、肉まんを大切そうに両手で包み込みながら、少しずつ味わうように食べ続けた。一口食べるたびに、新しい涙が頬を伝う。
「ありがとうございます...本当に、ありがとうございます」
その感謝の言葉は、心の底から出ているのが分かった。
◇◇◇
「...同じなんだ」
冒険者のディランが、小さく呟いた。
「何が同じなんだ?」隣の冒険者が尋ねる。
「美味しいものを食べた時の表情。俺たちと全く同じだ」
確かにその通りだった。魔族の旅人が見せている表情は、美味しいものに出会った時の、純粋な喜びと感動そのものだった。
「そうか...魔族も、人間と同じように美味しいと感じるんだな」
衛兵のハンスも感慨深そうに呟く。
「当たり前だろ」ベルトが笑う。「食べ物が美味しいと感じるのに、種族は関係ないさ」
その言葉に、他の客たちも頷いた。
最初は警戒していた客たちも、魔族の旅人の純粋な感動を見て、だんだんと表情を和らげていく。
「あの角、案外格好いいじゃないか」
「肌の色も、よく見ると美しいな」
「目の色が綺麗だ」
いつの間にか、恐怖や警戒ではなく、好奇心と親しみの視線に変わっていた。
魔族の旅人は、肉まんを食べ終わると、深々と頭を下げた。
「素晴らしい食事をありがとうございました。生涯忘れることはないでしょう」
「お気に召していただけて良かったです」リリアーナが微笑む。「よろしければ、また来てくださいね」
「...また来ても良いのですか?」
「もちろんです。いつでもお待ちしております」
魔族の旅人の顔に、大きな笑顔が浮かんだ。その笑顔は、人間のそれと何も変わらない、温かくて美しいものだった。
「ありがとうございます。必ず、また来ます」
◇◇◇
魔族の旅人が店を出た後、店内にはしばらく静寂が続いた。そして、冒険者のディランが口を開いた。
「...俺、今まで魔族のことを勘違いしてたみたいだ」
「俺もだ」別の冒険者が頷く。「実際に会ってみると、思ってたのと全然違う」
「あの涙は本物だった」衛兵のハンスが感慨深そうに言う。「あんなに感動してくれて、作った甲斐があったよ」
ミアが嬉しそうに笑う。
「食べ物って、本当にすごいですね。言葉が通じなくても、心は通じ合える」
「そうね」リリアーナが頷く。「美味しいという気持ちは、世界共通なのよ」
ロウが素朴な疑問を口にする。
「魔族の人って、普段は何を食べてるんでしょうね?」
「分からないけど、きっと私たちと似たようなものじゃないかしら」
「今度来た時に聞いてみよう」ディランが提案する。「魔族の料理も興味あるしな」
その提案に、他の客たちも興味深そうに頷いた。
(素晴らしいわ。最初は警戒していたのに、今ではもう友達になりたがってる)
リリアーナは満足そうに微笑んだ。これこそが、食べ物の持つ本当の力なのかもしれない。
◇◇◇
それから数日後、魔族の旅人が約束通り再び店を訪れた。今度は、最初ほどの緊張はなく、自然に店内に入ってくる。
「いらっしゃいませ!」ミアが元気よく挨拶する。
「こんばんは。また肉まんをお願いできますか?」
「もちろんです!今日も熱々ですよ!」
魔族の旅人が席に着くと、常連の冒険者ディランが声をかけた。
「よう、また来たのか」
「はい。あの味が忘れられなくて」
「分かるよ。俺も初めて食べた時は感動した」
二人は自然に会話を始めた。
「ところで、君の名前は?俺はディラン」
「私はガルムと申します。魔族領から来た商人です」
「商人か!何を扱ってるんだ?」
「主に魔族領の特産品を。香辛料や、魔石の加工品などです」
「へー、面白そうだな。今度、魔族の料理も教えてくれよ」
「喜んで。お返しに、人間の料理も教えていただけますか?」
そんな会話を聞いていたリリアーナは、心の中で手を打った。
(これよ、これ!文化交流の始まりね)
衛兵のハンスも会話に加わる。
「ガルムさんは、いつまでこの街にいるんですか?」
「商用で、あと一週間ほど滞在予定です」
「じゃあ、その間はうちの常連さんですね」ミアが笑顔で言う。
「ありがとうございます。毎日でも来たいくらいです」
ガルムの顔に嬉しそうな笑顔が浮かぶ。もう最初の緊張は完全になくなっていた。
◇◇◇
それから、ガルムは本当に毎日のように店を訪れるようになった。
最初は肉まんしか注文しなかったが、だんだんと他のメニューにも挑戦するようになる。おでんを食べて「こんな複雑な味の組み合わせがあるとは」と感動し、おにぎりの素朴な美味しさに「シンプルイズベスト」と納得する。
常連客たちも、ガルムとの交流を楽しんでいた。
「ガルムさん、魔族領ではどんな料理が人気なんですか?」
「火を使った料理が多いですね。香辛料をたくさん使った、辛くて熱い料理が主流です」
「辛い料理か。一度食べてみたいな」
「今度、材料を持参して作ってみましょうか?」
「本当ですか?楽しみです!」
そんなやり取りが、毎夜のように繰り広げられていた。
リリアーナは、そんな光景を見ながら考えていた。
(もしかして、この店って、単なるコンビニを超えた存在になってる?)
確かに、最初の目的は「夜営業のコンビニで困っている人を助ける」ことだった。でも今では、それ以上の役割を果たしているような気がする。
人種を超えた交流の場。異文化理解の架け橋。そして、偏見を溶かす場所。
「リリアーナ様、すごいことですね」アンナが感慨深そうに言う。「まさか魔族の方と人間が、こんなに自然に交流するなんて」
「本当にね。食べ物の力って、思ってた以上にすごいのかも」
その時、ガルムが質問してきた。
「リリアーナさん、この店では本当に誰でも歓迎してくれるのですね?」
「もちろんです。困っている人、お腹をすかせている人、疲れている人...誰でも歓迎します」
「種族は関係ないのですか?」
「全然。お客様はお客様です」
ガルムは感動したような表情を見せた。
「素晴らしい理念ですね。私の故郷でも、そんな場所があれば良いのに」
「きっと、いつかできますよ」リリアーナが微笑む。「食べ物を通じた理解は、きっと世界中に広がっていきます」
◇◇◇
ガルムの滞在期間の最後の夜が来た。
「明日の朝、魔族領に帰ります」
その言葉に、常連客たちから残念そうな声が上がった。
「もうお別れか...寂しくなるな」
「また来てくれよ」
「今度は魔族の料理、絶対に教えてもらうからな」
ガルムは嬉しそうに頷いた。
「必ず戻ってきます。そして、魔族領の友人たちにも、この店のことを話します」
「それは嬉しいわ」リリアーナが笑う。「魔族の方も大歓迎よ」
「きっと、みんな驚くでしょうね。人間の作った料理がこんなに美味しいなんて」
「美味しさに種族は関係ないものね」
ガルムは最後の肉まんを大切そうに食べながら、しみじみと言った。
「この一週間で、私の人間に対する見方が完全に変わりました」
「私たちも、魔族の方への見方が変わったよ」ディランが答える。
「同じように笑い、同じように泣き、同じように美味しいものを求める。本当に、私たちは同じなんですね」
「そうよ」リリアーナが頷く。「見た目は違っても、心は同じ。食べ物は、それを教えてくれる最高の先生なのかもしれないわ」
ガルムが席を立つ時、常連客たちが総立ちで見送った。
「気をつけて帰れよ」
「また絶対に来いよ」
「魔族領の話、もっと聞かせてくれ」
「ありがとうございました、みなさん」
ガルムは深々と頭を下げた。
「この店で過ごした時間は、私の宝物です」
店を出る前に、ガルムはリリアーナに向き直った。
「リリアーナさん、あなたのお店は特別です」
「どういう意味?」
「ここは、国境を越えた場所です。種族を超えた場所です。こんな場所が世界中にあれば、きっと争いなんてなくなるでしょう」
その言葉に、リリアーナは深く感動した。
「ありがとう、ガルム。あなたの言葉が、私にとっても宝物よ」
ガルムは最後に大きく笑って、夜の闇の中に消えていった。
◇◇◇
ガルムが去った後、店内にはしばらく静寂が続いた。そして、ディランが口を開いた。
「...なんか、すごいことを体験したな」
「本当にね」ハンスが頷く。「歴史的瞬間だったかも」
「食べ物って、本当にすごいですね」ミアが感慨深そうに言う。「言葉の壁も、文化の壁も、簡単に越えちゃうんですから」
ロウも珍しく感想を述べた。
「ガルムさん、とてもいい人でした。また会えるといいなあ」
リリアーナは窓の外を見つめながら、静かに呟いた。
「食べ物は世界共通の言語...か。本当にその通りね」
そして、店内を見回す。温かい灯りに照らされた、小さな空間。でも、その小さな空間が、大きな可能性を秘めているのかもしれない。
「この店が、本当に国境を越える存在になれたら...」
アンナが尋ねる。
「リリアーナ様、何かお考えですか?」
「ちょっとね。もしかしたら、将来的には魔族領にも出店できるかもしれない」
その言葉に、スタッフたちの目が輝いた。
「それって、すごいことじゃないですか!」ミアが興奮する。
「まだまだ先の話よ。でも、ガルムのような人がいる限り、不可能じゃないと思う」
リリアーナは改めて決意を固めた。
(便利は正義。そして、美味しさも正義。それは、種族を超えた普遍的な価値なのかもしれない)
その夜、店を閉める時間になって、リリアーナは看板を見上げた。
『夜明けの星』
この小さな星が、いつか国境を照らす大きな星になるかもしれない。そんな可能性を感じさせる、特別な夜だった。
食べ物の力で、世界を変える。
それは、決して夢物語ではないのかもしれない。