第49話 商会の切り札、買収
「ヴェルナー商会長が、面会を求めておられます」
セリーナが差し出した名刺には、ヴィクター・ヴェルナーの名と、『夜明けの星全事業に関する買収提案』という用件が記されていた。
医師ギルドとの共同試験が新聞に載った翌日だった。
「予定は?」
「明日の午後、開店準備前を希望されています。随行は法務担当一名。回答は後日でもよい、と」
以前、村の店で「居場所がなくなる」と言った男だ。
名前を見ただけで、胸の内側が硬くなる。
けれど、用件を隠して押しかけたのではない。営業時間外を選び、記録担当の同席も認めている。
「会いましょう。アンナとゼルドにも同席を頼んで」
「リリアーナ様、ずいぶん落ち着いていらっしゃいますね」
「顔だけよ。心の中では警報鐘がカンカンカンカン鳴ってる。昨日まで救急、今日は買収よ? 王都、私を退屈させないことに命を懸けてない?」
「店長が先に倒れないでくださいね」
「その場合は青い札を――って、私たちが使う側になるのは勘弁!」
「危険はありませんか」
「面会室を使い、出入口は開けておく。警備にも予定を伝えるわ」
買収は脅迫ではない。
条件を聞くことまで恐れれば、相手の意図も、自分たちの価値も見誤る。
◇◇◇
翌日、ヴィクターは予定時刻の五分前に来た。
祭りで見た時より、目元の皺が深い。けれど疲れを見せまいと背筋を伸ばし、机へ厚い提案書を置いた。
「単刀直入に申し上げます。夜明けの星の全事業を、当商会へ譲渡していただきたい」
「対象を確認させてください」
「三店舗の営業権と設備、名称、商品仕様、運営手順、教育資料、物流契約、今後得られる関連権利です」
王都店はまだ三か月の条件付き許可だ。村の二店舗も、建物、許可、共同購入、生産者との契約条件が異なる。書類一枚で丸ごと移せる物ではない。
「医師ギルドとの試験記録や、購入者情報も含みますか」
「事業運営に必要な記録は対象と考えています。ただし法令と契約に従います」
その答えだけでは足りない。
「対価は、総額五千万金貨」
ヴィクターの法務担当が、数字を書いた紙を私の前へ滑らせた。
桁を数え直した。
五千万。
もう一度、数えた。
五、千、万。
ゼロがゾロゾロこっちへ歩いてくる。庶民になった元王女の金銭感覚を、隊列を組んで踏み潰さないで!
「……五千万、ですか」
声が裏返らなかった自分を、今日だけは褒めたい。
村の年間予算と比較しても、日々の売上と並べても、現実感が薄くなる額だ。
「三割を契約成立時、残額は許可と契約の移転に応じ、三年で支払います。従業員は希望者全員を雇用し、現在の給与の二倍を提示します」
「二倍は、いつまでですか」
「最初の一年を保証します。その後は商会規定と評価によります」
「勤務地の変更、職種変更、事業整理時の解雇条件は?」
「個別契約で協議します」
「つまり、『全員の給与がずっと二倍』ではない」
「最初の一年は全員です。その先まで業績にかかわらず倍額を保証する経営者はいません」
痛いところを、綺麗な布で隠さない。
腹立たしいほど現実的だ。だからこそ、単なる嫌がらせより手強い。
魅力のない提案ではない。
五千万金貨があれば、新しい冷却設備を買える。長く働いた人へ退職金を出し、家族の住まいも支えられる。失敗しても、皆が明日の食事に困らないだけの備えを作れる。
私自身も、二度と「役に立たなければ居場所を失う」と怯えずに暮らせるかもしれない。
追放された夜の私へ、この紙を見せたら、きっと飛びつく。
これだけあれば誰にも追い出されない。暖かい部屋で一生暮らせる。そう思って、インクが乾く前に署名するかもしれない。
だから今の私は、震えないふりをしなかった。
「お返事まで、時間をいただけますか」
ヴィクターの眉がわずかに上がった。
「即座に断られると思っていました」
「私一人の物ではありませんから」
回答期限を七日後と決め、提案書の写しを受け取った。
◇◇◇
その夜、営業前に六人で提案書を開いた。
アンナ、ミア、ロウ、ゼルド、エリック、セリーナ。
最初にアンナが、決める権利を整理した。
「店舗と名称の最終的な所有判断はリリアーナ様にございます。ただし、建物の賃貸人、許可者、共同購入参加者、医師ギルド、王宮との契約は、相手の同意なく譲渡できません。従業員の雇用も、本人が選びます」
「では、皆へ聞く意味はないんですか」
ミアが尋ねる。
「法的な署名者と、影響を受ける人は別です。聞かずに決めてよいという意味ではございません」
私は、一人ずつ顔を見た。
「売りたいと思っても、裏切りではないわ。二倍の給料を選びたい人も、今の店を残したい人も、名前を出さず意見を書いてください」
「『店への愛が足りない!』とか、後から吊し上げません?」
ミアが半分冗談、半分本気の顔で聞く。
「しないわよ。そんな店、五千万で売る前に人が逃げるでしょうが!」
「よかったぁ……ゼロの数を見た瞬間、お父さんの畑の壊れた柵が全部ピカピカになる幻を見ました」
「私は冷却庫が十台、空から降ってきたわ」
「リリアーナ様も相当じゃないですか」
「五千万よ!? 心が一ミリも動かない人がいたら、そっちの方が怖いわ!」
紙を配ると、ミアの手が止まった。
「正直に言っても、嫌いになりませんか」
「ならない。私が欲しい答えを書くための紙ではないもの」
彼女は長い間考え、紙を折った。
集まった六枚には、売却反対が三。条件が守られるなら賛成が二。判断できないが一。
全員が理念を選んで拍手する結果ではなかった。
私は、むしろほっとした。
同じ言葉を言わせる店になっていないと分かったからだ。
「この数で、売るかどうかを決めるのですか」
ロウが紙を見比べた。
「いいえ」
アンナが答えた。
「これは投票ではございません。最終判断の責任まで皆様へ分ければ、反対した人も賛成した人も、後で互いを責めることになります。リリアーナ様が決めるために、失ってはならないものを集めたのです」
意見を聞くことと、責任を薄めることは違う。
私は六枚を票として数えるのではなく、それぞれが恐れている未来として読み直した。
「私は、条件が守られるなら賛成って書きました」
ミアが自分から言った。
「お父さんの畑を直せるし、家の借金もなくせます。でも、店がなくなるのは嫌です。どちらも本当です」
最後の言葉で、ミアの声がくしゃりと潰れた。
「ここを好きなら金を選ぶな、なんて言われたら……悔しくて泣きます。家族を楽にしたい気持ちだって、本物なのに」
「言わせないわ」
私は即答した。
「店を好きな気持ちと、家族を守りたい気持ちを喧嘩させる方が間違ってる。両方を書いてくれたから、私は両方を背負って決められる」
「背負うって、重くないですか」
「重いわよ。もう背中がバキバキ。だから今夜、肩揉んで」
「そこは有料です」
「給料を払ってる店長から、さらに取るの!?」
笑いが起きた後も、ミアの目尻には涙が残った。その涙を見なかったことにはしない。
「言ってくれてありがとう」
ロウは、給料より仕事を続けられる場所を気にした。エリックは、王都店が赤字になった時も三か月の試験を続けるのか尋ねた。セリーナは、一般客より高額客を優先する店になる可能性を心配した。
ゼルドは、五千万という値段の根拠と支払能力を確認すべきだと指摘した。
「相手の金庫に本当に五千万あるのか。三年後にも払えるのか。大金ほど、数字を書いただけで信じるな」
「夢を見せてから現実で殴るの、ゼルドさん得意ですよね」
「商売は、夢を帳簿へ着地させる仕事だ」
「格好いい……でも帳簿という言葉で急に目が乾く……」
理念を守るとは、値札を見ずに断ることではない。
値段の後ろで、誰の暮らしがどう変わるかを見ることだった。
◇◇◇
七日間で、関係者へ条件を確認した。
医師ギルドは、患者や購入者の情報を商業目的へ譲渡できないと回答した。王宮との試行契約も、運営主体が変われば再審査になる。共同集荷の農家は、ヴェルナー商会との直接契約を望む者と、価格決定力を失うのが怖い者に分かれた。
王都店の賃貸契約には、無断転貸を禁じる条項がある。
アンナとゼルドは、提案書へ質問を二十四項目まとめた。
一般向け夜間営業を何年間維持するか。地方店が赤字でも閉めない期間。価格改定の上限。雇用二倍保証後の基準。未成年従業員の夜勤制限。生産者契約の最低購入量。医療情報の分離。王室や医師ギルドが契約を解除した場合の扱い。
ヴィクターは、二度目の面会で一項ずつ答えた。
「規模を広げれば、今より多くの町へ夜営業を届けられます。商会の倉庫、馬車、人材を使える。商品価格も下げられるでしょう」
その言葉には、嘘ではない強さがある。
私たちが十日かけてつないだ仕入れ道を、彼の商会なら数日で広げられるかもしれない。
「一般営業の継続は?」
「主要都市では維持します。しかし、採算が取れない店舗を永久に残すとは約束できません」
「地方二店舗は?」
「二年間は営業継続。その後は見直します」
「医療連携の記録を、商品の販売促進へ使わない保証は?」
「個人情報は守ります。ただ、匿名集計を事業評価に使わないとは約束できません」
「従業員の配置転換拒否権は?」
「商会全体の人員配置に必要です。恒久的な拒否権は難しい」
ヴィクターは、できない約束まで美しく言い換えなかった。
「あなたは、夜明けの星を壊したいのですか」
私は尋ねた。
彼は少し黙った。
「以前は、私の市場を乱す店だと思っていました」
指が提案書の角をなぞる。
「今は、仕組みとして価値があると認めています。当商会が持てば、あなた一人の速度より速く広げられる。私は、それを経営者として欲しい」
「私の店ではなく、私たちが積み上げた近道が欲しい」
「言い方を選ばないなら、そうです。物流、教育、記録、信用。結果だけ真似ても作れない時間を、私は金で買おうとしている」
「……正直ですね」
「五千万を提示して、まだ美辞麗句が必要ですか」
なんて嫌な人。そして、なんて筋の通った商人。
悪人だから断る、で済ませてくれない。断れば、彼なら早く届けられたかもしれない町の夜まで、自分の責任として残る。
敗者の悪あがきではない。
相手の価値を認めたからこそ、自分の中へ取り込もうとする、商人の提案だった。
◇◇◇
回答の日、私は提案書を机へ戻した。
「お断りします」
口にすると、五千万金貨で作れたはずの未来が、目の前から消えた。
胸が軽くなるより、重くなった。
迷いがなかったふりはしない。この重さまで引き受けるのが、皆の意見を聞いた私の責任だった。
心の中では、五千万金貨が金色の羽を生やし、パタパタパタ……と窓の外へ飛び去っていく。
待って。いや、待たなくていい。やっぱりちょっと待って!
――ああああ、行った!
私の一生安泰、今、空の彼方へ消えました!
それでも、口にした答えは変えない。
「理由を伺えますか」
「金額が足りないからではありません。規模を広げる力も、従業員へ高い給料を払える力も、提案にはあります」
私は質問書を開いた。
「でも私たちが守りたい一般営業、地方店、生産者の選択、働く場所、医療連携の中立性は、採算や商会全体の都合で二年後に変わり得る。五千万金貨と引き換えに、その判断を手放すことはできません」
「商売なら、永遠の保証などできません」
「私たちにもできません。だから、失敗した時に自分たちで説明し、直す権利を残したいんです」
「五千万を断って、明日この店が潰れたら?」
「泣きます。床を転げ回って、『あの時売ればよかったー!』って百回叫ぶかもしれません」
アンナが小さく咳払いした。想像が具体的すぎたらしい。
「でも、今日署名して、二年後に地方店が消えたら。決める権利を自分で手放したことを、ずっと悔やみます」
ヴィクターの目が細くなる。
「便利は公共財、と新聞で語ったそうですね。公共の物なら、大きな商会が広げる方が筋では?」
「私が言う公共財は、無料でも、持ち主がいないという意味でもありません」
私は、橙色の応急用品箱へ目を向けた。
「夜に必要な物へつながる道を、一社の都合だけで閉じないこと。共通の安全基準を共有し、別の店も学べるようにすることです」
「ならば、我々と競い続けると」
「必要なら競います。でも、供給や安全手順を限定して協力する道まで閉ざしません。全事業を売ることと、仕組みを広げることは別です」
しばらく、時計の音だけがした。
ヴィクターは怒鳴らなかった。
「五千万を前にしても、条件を読んだ。そこは評価しましょう」
「魅力的な提案でした。だから、皆で考えました」
「次に会う時は、買収以外の提案書を持ってくるかもしれません」
「その時も、条件を読みます」
「あなたは、以前より厄介になった」
「光栄です。私も、あなたをただの嫌な商会長だと思えなくなって、非常に困っています」
ヴィクターの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「それは、お互い様でしょう」
握手はしなかった。
ただ、互いに頭を下げた。
◇◇◇
買収提案の金額は、翌朝には王都新聞へ載った。
ヴィクター側が、提案した事実と拒否された事実を公表したのだ。理由は「経営方針の不一致」とだけある。
記者が店へ集まり、五千万より大切なものは何かと尋ねた。
「従業員の意見や、契約交渉の中身は話しません」
私は、店として出せる答えだけを伝えた。
「金額を軽く見たのでも、商会を悪と決めたのでもありません。一般営業と地域の契約を、自分たちで説明できる形で続けるため、今回は売却しませんでした」
開店前、店の外には常連や近所の人が集まっていた。
「売らないでくれて、ありがとう」
遠征販売から来ていた御者が言うと、拍手が起きた。
一方で、「五千万を断るなんて正気ではない」「大商会ならもっと安くできた」という声もあった。
「俺なら三秒で売った!」
誰かが叫び、別の誰かが「お前の屋台に五千万は出ねえよ!」と返す。
ドッと笑いが弾けた。
「失礼だな! せめて五百は狙える!」
「桁が四つ消えたぞ!」
拍手だけより、その騒がしさの方が、いつもの客たちらしかった。
そのどちらも、外から見た正直な反応だ。
私は拍手へ勝利の手を上げず、いつもの時刻に扉を開けた。
「今日も午前零時から四時まで営業します」
五千万金貨を断った翌日も、することは変わらない。
残数を数え、温度を見て、一人ずつ商品を渡す。
理念は、大きな言葉を言った瞬間ではなく、その後も同じ仕事を続けられるかで試される。
◇◇◇
その日の夕方、ヴェルナー商会の中堅職員が一人で訪れた。
「昨日の面会で、資料運搬を担当していた者です」
彼は、商会の制服を着ていなかった。
「あなた方が条件を一つずつ確認するのを見て、自分の仕事を考え直しました。転職を検討しています。こちらで働かせていただけませんか」
理念に感動して来た新しい仲間――そう喜んで、すぐ迎えたくなる場面だ。
けれど、彼はまだヴェルナー商会の情報へ触れられる立場かもしれない。こちらの採用を、競争相手からの秘密取得に使ってはいけない。
「応募は歓迎します」
私は、採用案内を渡した。
「ただし、通常の面接と試用期間があります。前職の秘密を話す必要はありませんし、こちらも尋ねません。退職手続と競業に関する契約を確認してからです」
「すぐには、雇っていただけないのですね」
「理念のある仕事をしたいなら、採用でも手順を守りましょう」
男性は一瞬驚き、やがて深く頭を下げた。
「分かりました。応募書類を整えて、改めて参ります」
◇◇◇
彼が帰った後、アンナが別の封書を持ってきた。
差出人は、宮廷官エドガー・ホワイトフィールド。
『夜営業事業の社会的影響について意見交換をしたく、明日午後にお時間をいただければ幸甚に存じます』
買収を断った私たちを、今度は政治の言葉が値踏みしようとしている。
私は返書へ、アンナの同席と議事記録を条件に面会を受けると書いた。
店を売らないと決めた以上、次は、店の名前を誰の旗にも売らない方法を考えなければならなかった。
五千万金貨。
頭の中で数字を唱えるたび、ゼロがゾロゾロ行進してくる。
「まだ目が回っていますか?」
アンナが尋ねた。
「少し。設備更新、全員の生活保障、生産者への前払い……できることが多すぎたから」
「断ったことを後悔していますか?」
「いいえ。でも、迷わなかったふりもしたくない」
大金の価値を認めたうえで、それでも残すと決めた約束がある。
私は次の面会用紙へ、非独占、共通基準、顧客情報非公開、と三つの線を引いた。




