第49話 商会の切り札、買収
「リリアーナ様、ヴェルナー商会長が来店されています」
セリーナが緊張した面持ちで報告してくれた。ついに本人が直接乗り込んできたのね。医療事業の成功で、相当な危機感を抱いているのでしょう。
「分かったわ。応接室にお通しして」
「でも、大丈夫ですか?」
エリックが心配そうに聞く。確かに、相手は王都最大手の商会長。並の商人ではないでしょう。
「大丈夫よ。どんな交渉でも受けて立つわ」
◇◇◇
応接室に現れたヴィクター・ヴェルナー商会長は、以前村で会った時よりも疲れた表情をしていた。私たちの成功が、相当なプレッシャーになっているのね。
「リリアーナ様、お忙しい中恐れ入ります」
「こちらこそ。わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
一応、礼儀は保っておきましょう。
「単刀直入に申し上げます。最後の交渉をさせていただきたい」
最後の交渉?随分と物騒な言い方ね。
「どのような内容でしょうか?」
「君の全事業を買い取らせていただきたい」
「買収、ですか?」
ついに来たわね。価格操作、風評被害、仕入れ封鎖、全て失敗に終わったから、最後は金で解決しようということでしょう。
「条件をお聞かせください」
「5000万金貨で、いかがでしょうか」
「!!!」
思わず息を呑んだ。5000万金貨って...村の年間予算の100倍以上よ。一生どころか、何世代にもわたって遊んで暮らせる金額。
「破格の条件だと思いますが」
ヴィクター商会長が自信満々に言う。確かに、普通の商人なら即座に飛びつく金額ね。
「従業員の雇用も保証します。給料も現在の倍額で」
スタッフの待遇まで考慮している。抜け目ないわね。
「店舗も、技術も、ブランドも、全て買い取ります。君は何もしなくても、一生安泰です」
確かに魅力的な条件。でも...
◇◇◇
「少し、考える時間をいただけますか?」
「もちろんです。重要な決断ですから」
ヴィクター商会長が席を外している間、スタッフを呼んで緊急会議。
「5000万金貨って...すごい金額ですね」
エリックが驚いている。
「私たちの給料も倍になるって...」
セリーナも動揺を隠せない。
「リリアーナ様、どうされますか?」
二人とも、私の判断を待っている。確かに、金額だけ見れば断る理由はない。
でも...
「みんな、私たちが何のために始めたか覚えてる?」
「え?」
「お金のためじゃないわよね。困っている人を助けるため。夜勤で働く人々の生活を豊かにするため」
「そうですね...」
「それに、最近は命を救う仕事まで始めた。これって、お金に換えられる価値なの?」
エリックとセリーナが考え込んでいる。
「確かに...お金をもらって辞めたら、困る人がたくさんいますね」
「救急医療セットも、他の人が引き継いでくれるかどうか...」
「そうよ。私たちがいなくなったら、夜勤の人々はまた元の不便な生活に戻ってしまう」
「でも、5000万金貨って...」
正直、迷う気持ちも分かる。でも、大切なことを見失ってはいけない。
「お金も大切よ。でも、もっと大切なものがあるんじゃない?」
◇◇◇
ヴィクター商会長の元に戻り、私は椅子に深く座った。
「決断されましたか?」
「はい」
私は真っ直ぐ商会長を見つめて、はっきりと答えた。
「お断りします」
「...え?」
商会長の顔が困惑に歪んだ。5000万金貨を断られるなんて、想定外だったのでしょう。
「理由をお聞かせください」
「便利は公共財だからです」
「公共財?」
「はい。夜営業は、もはや個人の商売ではありません。社会のインフラ、公共の利益なんです」
商会長がますます困惑している。
「水道や道路と同じ。個人が独占すべきものではない」
「しかし、それは商売でしょう?」
「商売から始まりましたが、今は違います。人々の生活に欠かせない社会システムです」
「理解できませんね」
「お金で買えないものがあるんです」
私は立ち上がって、窓の外を指差した。
「あの明かりを見てください。夜勤で働く人々にとって、あれはただの店の明かりじゃない。希望の光なんです」
「希望の光?」
「そうです。疲れた時の癒し、困った時の支え、緊急時の救い。そんな価値を、お金で売り渡すことはできません」
◇◇◇
その時、店の外から拍手の音が聞こえてきた。
「何の音でしょう?」
窓を開けて外を見ると、いつの間にか店の前に人だかりができている。常連客、近所の住民、通りがかりの人々...みんなが店の方を見つめている。
「リリアーナさん、よく言った!」
「お金に負けるな!」
「私たちは君を支持する!」
声援が次々と上がる。どうやら、私たちの会話が外に聞こえていたらしい。
「5000万金貨より、君の理念の方が価値がある!」
「夜営業をやめないでくれ!」
「私たちには君が必要だ!」
人々の声援に、胸が熱くなる。お金では買えない、本当の価値がここにある。
「あの声が聞こえますか?」
私はヴィクター商会長に振り返った。
「あれこそが、私たちの真の資産です。人々の信頼、感謝、愛情。お金では買えない、かけがえのない財産」
商会長は窓の外の光景を見て、言葉を失っている。
「理念で勝った瞬間ですね」
エリックが誇らしそうにつぶやく。
「そうです。精神的な勝利です」
セリーナも感動している。
◇◇◇
ヴィクター商会長は、しばらく黙り込んでいたが、やがて深いため息をついた。
「理解できません...5000万金貨を断るなんて」
「理解していただく必要はありません。ただ、私たちの決意だけは覚えておいてください」
「決意?」
「どんな金額を積まれても、私たちは理念を売りません。便利は公共財。みんなのものです」
商会長が立ち上がった。
「最後に一つだけ聞かせてください」
「何でしょう?」
「後悔しませんか?一生安泰な生活を捨てて」
「しません」
即答する私に、商会長は困惑を深めた。
「なぜそこまで?」
「お金で幸せになれるのは一時的です。でも、人の役に立つ喜びは一生続きます」
「...」
「それに、私たちには5000万金貨以上の価値があります」
「5000万金貨以上?」
「人々の笑顔、感謝の言葉、『ありがとう』の一言。それらは、どんなお金よりも価値があります」
◇◇◇
商会長が帰った後、店の外の人々が拍手で迎えてくれた。
「リリアーナさん、素晴らしかった!」
「本当に感動しました」
「君のような人がいて良かった」
「私たちの代表として誇らしいです」
口々に賞賛の言葉をかけてくれる。この瞬間、5000万金貨なんて安い買い物だと思えた。
「みなさん、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」
常連のハンスが感謝を込めて言う。
「これからも頼むよ。君は私たちの希望だから」
希望...そんな風に言ってもらえるなんて。
「はい、絶対に頑張ります」
◇◇◇
その夜、一人で今日のことを振り返っていると、深い満足感に包まれた。
5000万金貨を断った。普通なら狂気の沙汰と言われるでしょう。でも、後悔は全くない。
「お金で買えないものがある」
それを実感できた一日だった。
人々の信頼、感謝、愛情。スタッフの忠誠心、成長、絆。社会への貢献、命を救う使命感、そして理念を貫く誇り。
これらの価値は、どんなお金でも買えない。
「理念で勝った」
精神的な勝利。これこそが、真の勝利というものなのね。
窓の外を見ると、店の明かりが王都の夜を照らしている。あの光は、もう私たちだけのものじゃない。王都のみんなのもの、社会全体の財産。
「便利は公共財」
今日確立したこの理念を、これからも大切にしていこう。
◇◇◇
翌朝、予想通り大きな話題になっていた。
「リリアーナ様、王都新聞の一面記事です!」
セリーナが興奮して新聞を持ってきた。
『5000万金貨を断った女性実業家 理念を貫く』
『「便利は公共財」感動の拒否劇』
『市民から拍手喝采 新時代の価値観』
記事は昨日の出来事を詳細に報道し、私の判断を高く評価している。
「これで、ヴェルナー商会もあきらめるでしょうね」
エリックが安堵の表情を見せる。
「そうですね。もう手の打ちようがないでしょう」
確かに、価格操作、風評被害、仕入れ封鎖、そして最後の買収まで、全て失敗に終わった。これ以上の攻撃手段は思いつかない。
「でも、油断は禁物よ」
「まだ何かしてくると思いますか?」
「分からないけれど、用心に越したことはないわ」
実際、追い詰められた敵ほど危険なものはない。最後の悪あがきをしてくる可能性も。
「でも、もう怖くありません」
セリーナが力強く言う。
「昨日、私たちが本当に大切なものを再確認できました」
「そうですね。お金より大切なもの、理念の力を実感しました」
エリックも同感。
そう、昨日の出来事で、私たちはより強くなった。精神的に、理念的に、そして結束においても。
「これからも、この気持ちを忘れずに頑張りましょう」
「はい!」「がんばります!」
二人の返事に力がこもっている。
◇◇◇
その日の夕方、意外な来客があった。
「あの、昨日の件で謝罪に参りました」
現れたのは、ヴェルナー商会の中堅職員らしき男性。
「昨日は失礼いたしました」
「いえいえ、お気になさらず」
「実は...個人的な意見なのですが」
男性が恐る恐る口を開く。
「あなたの判断は正しかったと思います」
「え?」
「5000万金貨を断るなんて、普通はできません。でも、あなたは理念を選んだ」
「...」
「それを見て、商売の本当の意味を考えさせられました」
男性の目に、真剣な光が宿っている。
「実は、私も転職を考えています。お金だけの商売に疲れました」
「そうですか...」
「もしよろしければ、あなたの会社で働かせていただけませんか?」
驚いた。敵の会社の社員が、転職を申し出てくるなんて。
「理念のある仕事がしたいんです」
彼の言葉に、昨日の判断の正しさを改めて確信した。
お金より理念。利益より価値。それを選んだことで、新しい仲間まで得ることができた。
「もちろん、歓迎します」
こうして、理念の勝利は新たな展開を呼び、私たちの仲間はまた一人増えたのだった。