081 思いがあれば
「稑。」
呼ばれた方を振り向くとそこには新が立っていた。
「新…。」
週が明けた月曜日、スタジオでの予定を終えようやく2人がひと段落した夕方、新はずっと気に掛けていた稑に声を掛けた。
"稜太さんのこと、聞いたよ…。"
"そっか…。…稑、大丈夫か…?"
"…うん。"
昨日2人がメールでやり取りをしたのはそれだけだった。詩帆が自分に向ける眼差しの先にも、そして詩帆をここまで情熱的に突き動かすのも、すべて稜太が関係していること、そして章の左耳にも詩帆の胸にも、今も尚稜太が存在することを思い知った。
「詩帆さんは、まだ稜太さんのことが好きなのかな…。嫌いになって終わったわけじゃないから、終われないのかな…。でも、それってちょっと残酷だよね…。」
「うん…。」
正直詩帆が稜太のことをそういうふうに好きなのかは稑には分からなかったため、新の問いにはただそう答える他なかった。しかし今は詩帆が誰を好きだとか、そんなことはどうでもよかった。あのいつも明るく元気に振る舞う詩帆が、誰かのためにすべての情熱を注ぐことを惜しまない詩帆が、今は痛々しく思えて仕方がなかった。
それから数日経ったある日の午後、稑は久々に哲夫を尋ねた。
「伯父さんッ。」
「んぉ?」
作業中の哲夫が声のする方に顔をあげると、工場の入り口から稑がひょっこりと覗くような形でこちらを見ていた。
「おぉ!稑!」
いつもなら訪れることを遅くとも前の日までには知らせてくれるのに、この日は一切の予告もない突然の訪問だった。
「稑くぅんッ!」
「あらまぁ稑ちゃん!いらっしゃい!!」
稑が工場の中に入っていくと、工場内には途端に黄色い声が飛び交った。稑はちゃんと一人ひとりに挨拶をしながらゆっくりと哲夫のところまで歩いていった。
「ごめんね、何の連絡も無しに…。」
「いやぁ、なぁんも問題ねぇ!それより稑、久しぶりじゃねぇか!」
「うん。」
そう答えた稑の声は明らかにいつもと違う稑で、哲夫もすぐにそれを感じ取った。
「おしッ!まぁた散歩にでも行くか!」
「うん…!」
稑は少しほっとしたような顔をして頷いた。
「伯父さん…。おじいちゃんとおばあちゃんが死んじゃった時、伯父さんはどんな気持ちだった…?」
2人は最初お互いに近況報告をしながら、また隅田川沿いを目指して歩いていた。当然ドームツアー初日の話にもなった。哲夫の興奮っぷりを見て、やはり自分はとてつもないことを成し遂げたのだと改めて感じた一方で、その日の出来事から自分の中のある部分だけがずっと時間が止まったままになっていて、その後に知った話も全く消化し切れておらず、稑の頭の中はいつもの2割も稼働していなかった。そのため川沿いに着く頃には、稑の口数はもうほとんどなくなっていた。哲夫はそんな稑に、もうごまかすのをやめ、単刀直入に尋ねた。すると稑からさきほどの言葉が出てきたのだった。
「えぇ?!こりゃまた随分唐突だな!」
「ごめん…。」
「いやいや謝ることはねぇよ。」
「うん…。やっぱり…、僕みたいに最初からいないのとは違うから…。」
哲夫は今稑が何と比べてそう言っているのかは分からなかった。しかしそれを問うことはしなかった。
「親父とお袋はなぁ、単独の交通事故を起こしちまってなぁ。突然逝っちまったんだ。」
そう言うと哲夫は歩くのをやめ、川沿いの柵に腕を乗せ遠くを見つめながら話し始めた。稑もそこまではすでに律子から聞いていた。
「最初にそのことを知ったのは、病院からの電話で、状況もよく分からずにとりあえず向かった。でももう霊安室にいてなぁ。2人並んで横になってた。医師から本人確認をしてほしいと言われたんだが、父親の方はもう胸から上は白い布で覆われててな。ただ手は綺麗な状態で、それは確かに親父の手だった。指の皮が厚くて、ゴツゴツしてて、いつも工場で工具を握ってる、あの職人の手だった。でも俺はその手に触れることはできなかった。触れたら、嫌でも死を認めざるを得なくなる気がしてな…。すでにあんな状態でも、まだ親父の死を受け止め切れなかった。ただじぃっとその手を見つめていた。そしたらなぁ、付き添ってくれた看護師さんが教えてくれたんだ。救急隊が駆けつけた時、2人はもう息を引き取ってたんだが、助手席にいたお袋は、前を向いたまま親父のその手を握ってたそうだ。それを聞いてお袋の顔を見たらな…、それはそれは安らかな顔をして眠っててなぁ。それを見たら…、なぁんか悲しいはずなのに…、すごくほっとしちまってなぁ。2人で逝けたなら、よかったんじゃねぇかって…。
その後はもう決めなきゃならないことやらなきゃいけないことがわんさかあってなぁ、誰よりも悲しんでる暇なんか無かった。ただ葬儀もすべて終わって、やぁっといつもの食卓でゆっくりご飯が食べれるってなった時、律子と2人で食事を始めたんだが、いつも目の前にいるはずの親父がいなくてな…。あん時が一番こたえたなぁ…。もう涙も鼻水もぐちゃぐちゃんなって、味も分からねぇ飯をただひたすら口にかき込んださ…。」
哲夫は川の方を向いたままで、その時の哲夫の顔は稑には見えなかった。でも泣いているのが分かった。
「はは、今でも涙は出るんだな…。」
「ごめん…、悲しいことを、思い出させてしまって…。」
稑はあの日、やはり章も詩帆も流していた涙を思い出した。
「いやぁいんだよ。まぁ、知らなくてもいいことかもしれねぇけどな。」
そういうと、哲夫はささっと自分の顔を拭った。そして振り向くと、それはそれは優しい眼差しで、ひどく申し訳なさそうにしている稑の頭にガッシリと手のひらを乗せ、そのままぐいぐいと揺らした。しかしそれからその手のひらを乗せたまま、哲夫は言った。
「ただなぁ稑。おめぇは律子にこんな思いはさせちゃいけねぇ。絶対にだ。それだけは、約束してくれ。」
そう言う哲夫の目は、いつにも増して真剣な眼差しだった。
「うん。」
稑も哲夫の目をまっすぐに見てそう答えた。すると哲夫はまた優しい顔になって、再びとぼとぼと歩き出した。空気は少し和み、哲夫は続けた。
「でもなぁ、あれだぞ?その後もしばらくはバタバタしてたんだが、いよいよ新しい日常が当たり前になってきた頃に、なぁんか不思議な感覚を味わうようになってなぁ。ふとそこに、まるで親父とお袋がいるような、そんなことを感じる瞬間がちらほらあってなぁ。それは決まっていつも、ちょっとした危機を回避した時とかなんだよなぁ。」
その時の哲夫は、そう感じた過去の出来事を思い出していたのか、信じられんと言わんばかりに少し苦笑していた。
「でもそれが何回か続いた時に思ったんだ。ひょっとしたら親父とお袋が、見えねぇからこそ見えない形で、助けてくれてるんじゃないか…って。」
それを言い終える頃の哲夫は、先ほどとは違いいつもならきっと茶化してしまうようなその話を、その時は本気でそう信じているような、そうであってほしいと願うような、そんな表情で遠くを見つめていた。
「だから稑!お前はじいちゃんばあちゃんとは直接会ったことはねぇが、絶対にお前のことも守ってくれてっぞ!あれだけ毎回手ぇ合わせに行ってんだ。この世だろうがあの世だろうが、思いがあれば、それが一方通行なはずがねぇ。」
"思いがあれば…。"
その言葉が、稑は自分の身体にすぅっと吸収されていくのを感じた。稑は今日哲夫と話して、うまく言葉でまとめることは出来ないが、何か答えを見つけたような気がした。
「伯父さん、ありがとう。」
そう言った稑の顔からはもう迷いのようなものは消え去りあまりにもスッキリとした表情に変わっていたので、哲夫は少し安堵した。しかしその後に稑はまた突拍子もないことを尋ねてきた。
「ねぇ、もう一つ聞いていい…?」
「おぉッ、もちろんだ。どんとこいッ。」
哲夫は少し気持ちが大きくなっていた。
「伯父さんは、今まで結婚しようと思った人はいなかったの?」
「へッ?!?け、結婚ッ?!」
想像とは全くお門違いな質問に、哲夫は思わず声が裏返ってしまった。
「稑、おめぇいったい何があったんだ?!」
哲夫のリアクションは当然だった。しかし稑は自分から聞いておきながら、何からどう話せば良いのか分からなかった。すると哲夫は言った。
「あぁ、あれか?おめぇが兄貴と慕う蓮君のプロポーズを目の当たりにして、ちょっと興味が湧いた口か??そうだよなぁ。いやぁ彼も若いのにビシッと一本筋が通っていて、さすがだわと思ったわぁ。ったくやることがカッコ良過ぎるんだよなぁ全く…。」
稑はとりあえずそういうことにしておこうと、ネジ巻き人形のようにうんうんうんッと頷いた。
「そうだなぁ、俺は早くに両親が逝っちまったから、とにかくこの工場を何とかせにゃあと、もう自分のことなんてそっちのけだったからなぁ。気が付いたらこんな歳になってたわ。いや、違うな。自分から気持ちをちゃんと伝えられなかったんだなぁ。いや、違う。いや、ま、両方だな!ハッハッハッハッ!!」
そう言うと哲夫は今日一番の大声で笑った。
「まさかおめぇと、こんな話をする時が来るなんてなぁ!いやぁ稑、お前もそんな歳になったんだなぁ。んん?おめぇ今いくつになった?」
「17…」
「へ?!そんなんだったっけか?!あぁそうか、おめぇはまだ高校生だったな、ハッハッハッ。」
そう言われた稑は、少し俯いた。
「んん?なんだぁ?お前にももうそんなふうに思える人がいるのか。年上か?」
「うん。」
(…ッ!!素直かッ!?)
全くはにかみもせずあっさりと頷いてみせるので、そんな稑に哲夫はまたもや拍子抜けしてしまった。
「いくつだ、その相手の人は。」
「えっとぉ、確か31。」
「ん?」
「だから、14歳年上なの。」
「じゅ、14ッ?!?」
「…うん。やっぱり…、おかしい…?」
そう言った稑の顔を見た瞬間、哲夫は思った。さっきはついあんなリアクションをしてしまったが、稑は14歳年上の人を好きになったわけではなく、好きになった人が14歳年上の人だった、ただそれだけのことなのだと。
「へぇ、そうか。いや、おかしくねぇ、おかしくねぇよ。」
哲夫はさっきまで喉につかえていた魚の骨のようなものはみるみると溶けてなくなり、すでにもうその事実を自然に受け止めていた。
「律子はもう知ってるのか?」
「まさかッ!!成就しなきゃ言えない、母さんには…。母さんも知ってる人だから…。」
「おぉ…、そぉか。」
哲夫はそれを聞くと何だか少し嬉しくなった。
「メンバーのみんなは知っててね、みんな応援してくれてる。」
「そぉか。そりゃあ、よかったじゃねぇか。」
「うん。」
そう言った稑は、今度は正真正銘はにかんでいた。稑が本当に温かい仲間に恵まれたことに、哲夫はさらに嬉しくなった。
「まぁ、蓮君もいるしな。こればっかりは俺はなぁんも役に立てねぇや!すまん!!」
哲夫は潔くキッパリと詫びた。そして続けた。
「だがなぁ稑、歳なんか気にするこたぁねぇ!!男だからとか、年上年下だからとか、そんなんで肩肘張って、俺が幸せにするとか、そんなこと、考えなくていいんだぞ!2人が一緒にいればそれで幸せ、それが2人の幸せ、それでいいんだ。俺はそう思うぞ。」
そう言うと、哲夫は隣りから稑の背中をバシバシと叩いた。
「うん。」
稑は照れながら頷いた。そしてそのまま哲夫の顔を見た。哲夫はその時見た稑の顔が、幼い頃からずっと見てきた稑でありながら、知らないうちに、もうすっかり青年になったような、それと同時に自身もだいぶ歳をとったということに間接的に気付かされ、嬉しいような、寂しいような、様々な感情が一気に複雑に絡み合いそれらはうまくまとまらずにいたので、哲夫はその気持ちのやり場を容赦なく稑の頭をくしゃくしゃに撫でてごまかした。
その後2人はその日もそのまま電車でひと駅のところにある菩提寺まで歩いて行き、いつものように手を合わせた。その間にまたたくさんの話をした。
(思いは消えない、消えるわけがない。今も稜太さんがいるのは、当たり前のことなんだ、自然なことなんだ。そして僕は…。)
"新、僕はこれからも、何も変わる必要はないんだ。今まで通りでいいんだ。そしていつか、この思いをちゃんと伝える。"
"うん!そうだよ稑ッ!僕は稑の一番近くでこれからも応援してる!!"
"うん!ありがとう!新ッ!"
ー 思いがあれば… ー
(それは僕も同じだ。今まで通り、詩帆さんがもし誰かに寄り掛かりたくなった時に、それが僕であるように、そう思ってもらえるように、僕のできることを頑張ろう。そしていつか必ず…。)
稑の心は再び定まった。そして今はもうとにかく詩帆に会いたくて仕方がない気持ちでいっぱいになっていた。




