062 不協和音
(ここか。)
1人の男がスマホのMAPと実際のお店を照らし合わせながら呟いた。そして再び歩き出したその男の視線の先にはla jetがあった。
稜太がla jetを去ったほんの数分後、入れ替わるように総一郎は新たな客を迎えた。
「いらっしゃい。」
入り口の方に視線を移すとそこにはすらりと背の高いスーツ姿の男が総一郎の方を見て佇んでいた。
「どうぞ、お好きなお席に。」
そう促されると、男は被っていたパナマハットを手に取りながら先ほど稜太が座っていたカウンター席に座った。正直なところ一見さんがそこに座るには随分と距離が近く、おまけにその圧倒的な存在感に総一郎は珍しくやりづらさを感じた。
「ご注文は何になさいますか。」
「そうですね…、では、コーヒーでお勧めのものを…。」
「かしこまりました。」
(うわーこの感じ、めっちゃ俺のこと試されてるーッ…。あゆみちゃーん!早く帰って来てくれー!!)
ポーカーフェイスの裏で、総一郎の心拍数は一気に上昇していた。
コーヒーが出来上がるまでの間、その男は大袈裟にならない程度に店内を見渡していた。身なりや身につけているものからそれなりの地位にいる富裕層の人間であることは間違いなかった。
「あの写真の女性は、縁のある方ですか?」
「え?あぁ、私の妻です。もうだいぶ前に先立たれましたけど。」
「そうでしたか…。とても綺麗な方だ。最初女優さんかと思いましたよ。」
「あぁ、まぁ…、どうも。」
あの写真を見てサキのことをそんなにストレートに褒められたことが今までなかったため、総一郎は返事に困ってしまった。
(でも本当のサキは全然違ってファンキーでクレイジィーだから、本人もきっとそこら辺でそれ聞いてゲラゲラ笑ってんだろうな。)
"ギャハハハッ!!"
案の定、サキはその男の一つ間を開けた隣のカウンター席で、机をバシバシ叩きながら笑っていた。
「お待たせしましたぁ。」
総一郎が一杯のコーヒーをその男の前に差し出すと、男はそれを大事そうに口元に運んだ。
「わぁ…、いい香りだ。」
男は目を閉じて香りを楽しんだ。
(…?)
総一郎は先ほどから何か引っ掛かるものを感じ、何だか落ち着かなかった。
「これは美味しい。なかなかのものですね。」
「ええ、どうも。」
総一郎はようやく胸を撫で下ろしたが、まだ何かが引っ掛かっている感は否めなかった。
「ところで…、こちらでは今アルバイトを雇っていたりしますか?」
「アルバイト?」
「えぇ。例えば高校生とか…。」
「いえ、うちはこの通り小さな店で、私1人でも暇を持て余すくらいなんで、今は事足りてます。」
(ん?学校の先生か何かなのか?しかしながらとにかく申し訳ないのだが、とりあえず早く解放されたい…。)
総一郎には実はそんなふうに思うことが未だに月2〜3回ほどある。
「そうですか…。」
男は憶測が外れたような声で言った。
「店の外の、狭い階段を降りて行くと何があるんですか?」
男の質問は執拗に続いた。
「あぁ、あれはこの建物の地下に行ける階段で、この下にミニスタジオがあるんです。防音完備なんで、ちょいちょい利用者もいて…。」
「え、でもお店の情報としては、喫茶店としかありませんでしたが。」
(調べてる!!この店のことめっちゃ調べてるッ!!!)
「えぇっと、実はもう需要がそこそこありまして…、特に公には案内してないんです…。」
「…そうですか。」
男はしばらく考え込んでいる様子だった。その沈黙は、総一郎にとっては耐えがたく重い空気で、それは唾を飲み込むのも躊躇するような雰囲気だった。
「なるほど…、分かりました。」
すると男は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです。この分だとしばらく缶コーヒーは飲めないな。」
それは褒め言葉なはずなのに、どうにも総一郎は素直に喜べなかった。男は会計を済ませ再びパナマハットを被ると、ゆっくりと、しかしその一歩一歩に一切の無駄や隙のない足取りで店を後にした。総一郎はささやいた。
「…サキ、どう思う…?」
どうにもすんなり受け入れられない違和感に囚われていた総一郎は、机の上に残されたカップを下げるとサキの写真を見上げそして話しかけた。あゆみがおらず、店内にひとりぼっちの時の総一郎はいつもこんな感じだった。しかしサキは正面を向いたまま、聖母マリアのように微笑み続けていた。総一郎は消化不良のままあゆみの帰宅を待ったが、その男が今後客としてla jetに来ることは二度となかった。
それから月が変わり、学校では例の如く中間テストが始まった。そしてその最終日は稜太にとって唯一誰からも何からもお咎めなく自由に過ごせるため、3人は約束を交わさずとも自然に落ち合い、いつものコースでla jetに向かった。そしてミニスタジオも、やはり自ずと彼らの貸切になっていた。
稜太はマイクを握るとまるで子どものようにはしゃいでいた。あまりにテンションが高くはっちゃけているのでそれを詩帆は小馬鹿にするも、結局詩帆も一緒になって楽しそうに笑っていた。しかし章はその2人と同じ温度にはなれなかった。去年の暮れから感じる稜太の歌声の感覚的なズレを、今も引きずっていた。
(本当に、何なんだろう…。あのすんなり受け入れられない違和感は。)
しかしここ最近は、そのズレさえも新たな稜太の才能を引き出しているかのようにも思えた。それはいわゆる情感の奥行きで、今までの子どもっぽさから時々はっと心を揺さぶられるような歌声を聴くようになっていたからだ。
(俺のアルバイトみたいに、稜太も何かしらで少しずつ大人になっているということか。詩帆とのことでも…。)
すると章は胸の奥がチクッとするのを感じた。章は2人の関係の変化についても未だに何も聞かされていなかった。
(こちらから聞かなければ、ずっとこのままでいるつもりなのか…?)
章は様々な憶測を胸に秘めながら、2人のはしゃぐ姿を見つめていた。
こうやって練習をする回数は格段に減ったのに、稜太の飲み込みの速さはスピードを増していた。それは何よりも稜太の底知れない集中力の賜物で、章も詩帆も稜太は歌うことが本当に好きなのだと改めて実感させられた。
時間になり、章と稜太はスタジオの後片付けを始めていた。詩帆はすでに上に上がっていて、スタジオには2人だけになっていた。
「稜太の歌の伸び代はえげつないな。」
「え、それって褒めてる?」
「うん、めちゃくちゃ褒めてる。」
「マジで。すげー嬉しい。でもそれを言うなら章の楽曲も、格段にレベルが上がったよな。スイッチ入ると章も相当えげつねぇよ。」
「俺褒められてる…?」
「おぉ!めちゃくちゃ褒めてるッ。」
「はははっ。」
いい感じの雰囲気なだけに章は迷ったが、今しかないと思った。
「稜太、おまえ…。」
すると、稜太はまるでそう問いかけられることを予知していたかのように答えた。
「そうだよ。」
それにはまるで、それ以上は口にさせないという稜太の確かな意思を感じた。
「は…?俺まだ何も言ってないけど。」
しかし稜太は再び言った。
「そうだよ。」
そう言った稜太の顔は、先ほどの少し冷たく突き放すような表情から、少し寂しそうな顔に変わっていた。
2人はそれから言葉を交わさないまましばらく見つめ合った。それはまるで、雪原で吹雪が吹き荒れる中生死を賭けた縄張りの異なる群れのオス同士の狼が、無言のまま互いの真意をぶつけ合っているかのようだった。その時の章の瞳の奥には青白い光が宿り、稜太もまた、章とは違う別の色の光りが宿っていた。2人の間で取り交わされたこの無言のやり取りは、後にも先にもこの時だけだった。
「俺たちも、戻るか。」
稜太が先にその沈黙を終わらせた。章はその瞬間、もうこの新しい距離感を受け入れざるを得ないことを悟った。
その日の夜もまたあゆみの手料理でお腹いっぱいになり、その後も楽しい世間話で盛り上がった。稜太の表情には先ほどの刹那的なものはすでになく、もうすっかりいつもの稜太だった。そして稜太と詩帆は、またひと足先にla jetを後にした。今日もテーブル席の窓際に座っていた章は、そのまま隣りに座っているあゆみの肩に、無言のまま頭をもたれた。あゆみはそんな章から、言わんとしていることを悟った。




