043 重い扉
東京公演が無事に終わり、一旦は落ち着きを取り戻したものの、次の公演までの合間には音楽番組の収録や雑誌のインタビュー、次の新曲の制作に取り組んだりと、魂狼の活動は慌ただしい日々が続いていた。しかし稑はふと手持ち無沙汰になると、いつも"りょうた"という名前が脳内を支配していた。一方で、自分はこんなにその名前に囚われているのに、詩帆はそんなことも露知らず、いつも通りビシバシとメンバーたちを叱咤しながらマネージャー職を全うしていた。稑は詩帆と話そうとすると、二言目には"りょうた"という言葉を発してしまいそうで、あれから詩帆とは微妙な距離が生まれていた。
(このままじゃ、詩帆さんとギクシャクしてしまう…。でも本人に聞いたら、きっと詩帆さんも今まで通りでいてくれなくなるかも…。そしたら今の関係も壊れちゃうかもしれない…。)
聞いてしまいたい、でもその先を思うと聞けない、そんなジレンマに悩み苦しみ、稑はもう頭がおかしくなってしまいそうだった。そんな稑を新も心配していた。
その夜、稑は夕食を終えても部屋には戻らず、ずっとリビングのソファでぼぉっとしていた。その日詩帆は実家に帰っていて、明日まで帰って来ない予定だった。キッチンでの作業をひと通り終えたあゆみは、そんな稑を見るに見かねて声を掛けた。
「稑。最近ぼぉっとしてるけど、どうしちゃったの?ひょっとして、燃え尽き症候群?」
「何ですか?それ。」
隣りに座ったあゆみに、稑は真顔で聞き返した。
「え…。あぁ、燃え尽き症候群っていうのは、めちゃくちゃ頑張って頑張って頑張って乗り切ったら、その達成感の反動で急に無気力になっちゃう、みたいな。」
「いや、違います。」
「そう…。」
落ち込んでいるわりにハッキリとそう答えた稑に、あゆみは少しびっくりした。
「でも、東京公演が終わってからだよね、なんか元気ないの。」
「うん…。」
そう答えると、稑はみるみるとしょんぼりし始め落ち込んでいった。
(あ、これはあるな、明確な理由が。)
あゆみは、そうとなればそれはもうこれしかない、と思い当たることを聞いてみた。
「詩帆のことでしょ。」
すると稑はハッとして、あゆみを見つめた。
(…!わっかりやすッ!!)
「…、なんかあった?あったんだね?」
その時稑は思った。
(そうだ、あゆみさんなら知ってるかも!でも一度聞いてしまったら、もう後戻りはできない。どうしよう…。)
稑はいじらしいほどもじもじしていた。するとあゆみは言った。
「今夜は本人がいないから、話せるチャンスなんじゃない?」
その言葉で稑の気持ちは固まった。
「あゆみさん。"りょうたさん"って、誰ですか。」
その言葉を聞いた瞬間、それまで乙女の恋話モードで若干ソワソワしていたあゆみの顔が一変した。
「なんで稑が稜太のこと知ってるの…?誰から聞いたの?!」
それはやや強い口調で、稑は少し怖くなった。
「え…、詩帆さんから。」
「詩帆から?!詩帆が稑に稜太のこと話したの?!」
あゆみのその様子は、もはや想像し得ない剣幕だった。
「いや、この前ここで軽く打上げをした日、寝ちゃった詩帆さんを新と部屋まで運んだ時、僕のことをその人と勘違いしたみたいで、"りょうた"って…。ただその一言だけ言うと、そのまままた寝てしまって…。」
「そう…。」
あゆみはそれを聞くと少し安堵したような様子で、一旦気持ちを落ち着かせるため前のめりになっていた身体を起こした。
「驚かせちゃって、ごめんね…。稑から無理矢理聞き出したわけじゃないんだね。まぁ、もしそんなことしたら、多分詩帆はもうこの家を出ていくと思うし、」
(ひぃ!!やっぱり聞かなくてよかった!!!)
「今の様子を見る限り、詩帆は稑が稜太のことを知ってるって気付いてないんだよね?」
「うん…、恐らく。自分からは確かめてないけど…。」
あゆみもここ最近の詩帆の様子を改めて振り返ったが、それは間違ってないだろうと思った。
「僕、最初の頃はずっと、詩帆さんは章さんのことが好きなんだと思ってたんです。」
「はぁ?!?」
あゆみの興奮がそのひと言で再びぶり返した。
「だって、詩帆さんはいつも、章さんのピアスとお揃いのネックレスをしてるから!」
「え、ちょっと待って。あのネックレスのことまで知ってるの…?」
「え…、うん。ここに来て、わりとすぐの頃。昔詩帆さんがベロンベロンに酔っ払って、誠さんと一緒に帰ってきた時…。」
「あーーーー!!あの時か…。」
あゆみのその反応から、やはりあのお揃いのアクセサリーには何か特別な意味があるのだと稑は思った。
「でも!章さんのあゆみさんを想う気持ちは世界レベルでリスペクトしてるし、今はもう、2人は本当に純粋なビジネスパートナーなんだなって、それは分かってるんだけど、でもやっぱりあの2人には何か特別なものがあって、そこには絶対に誰も踏み入れられないような…。でも、そう思ってたら今度はまた別の人の名前が出てきたから、なんかもう僕、頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃって…。」
それを聞きながらあゆみは思った。
(やっぱり稑は天然、っていうか、ピュアだよなぁ。)
というのも、あゆみはこれまで稑から自分は詩帆のことが好きだということを一切聞いたことがない。しかし稑はすでにあゆみはそれを知っている前提で話を進めているからだ。
(本気…っていうか、稑の中ではその気持ちがきっともう当たり前過ぎるんだろうなぁ。そもそももう恋愛っていう概念がないというか…。だって周りがみんな気付いてた稑の気持ちに本人が一番最後に気付くってのが、もうすでに普通じゃないもんなぁ。)
稑が今の気持ちをぶちまけると、あゆみは首を傾げながら何かモニョモニョと口にしながら考え事をしているようだった。稑は不安に押しつぶされそうになりながら、救いを求めるような目で、じっとその様子を伺っていた。
(でもその曇りなき純粋な想いが、逆にもう壁一枚飛び越えてるんだよね。例えば誠さんみたいに、"私はあなたが好きです!"ってオーラ全開で近付くと、当然詩帆は全力で構えちゃうんだけど、稑にはそれがないから、そもそも詩帆にもシールドがないっていうか…。)
あゆみは相当思案しているようだった。稑はペコペコにお腹が空いた状態で"待て"を食らっている犬のような気持ちで、次にあゆみから発せられる言葉をただひたすらに待ち続けた。
(だって昔私が"うっかり"ミニ演奏会のこと話しちゃって稑に音楽療法士の活動のことがバレちゃった時も、絶対お咎め喰らうと思ってたら全くスルーだったしなぁ。それにあのピアノ室でも、2人が一緒にいる時は、いつも本当に楽しそうだし…。)
あゆみの考え事は思いの外長かった。しかしとても真剣に考えているようだった。稑は今日あゆみに打ち明けたことが、どうにか良い方へ打開することを切に願った。
(そういえば、あのクリスマスの演奏会の時も、詩帆は稑のことを稜太と勘違いしたみたいだったし…。詩帆にとって稑は、稜太と重なるような部分もあるのかな…。詩帆が稑のことをどう思っているのかは私にも分からない。でも、詩帆にとって稑は、やっぱり他の人とは違う気がする。だとしたら稑なら…、もしかしたら…。)
あゆみは稑を見つめた。すると稑は何かを感じ取り、そのあゆみの眼差しに対して自身も真剣に見つめ返した。あゆみは稑のその眼差しに誠意を感じた。
「稑。」
「はい。」
「続きは上で、ピアノ室で話そう。」
そう言うとあゆみはスクッと立ち上がり、すぐに階段の方へと歩き出した。そしてそのまま先に昇り始めた。稑も遅れまいと、慌ててその後に続いた。
(稑なら変えられるかもしれない。いや、稑なのかもしれない。詩帆の、あの固く閉ざした心を開けるのは…。)
これまでの2人をずっと傍で見てきたあゆみに、もう迷いはなかった。
あゆみは先にピアノ室のソファに座ると、章にひと言メールを送った。
"分かった"
章からはすぐに返事がきた。遅れて稑も到着し、そのままあゆみの隣りに座った。話始めようとするあゆみは、意識して笑顔を心掛けているようだった。その様子から、反対にこれからあゆみは、これまで固く閉した重い重い扉を開けようとしているのかもしれないと稑は感じた。
「稜太っていうのはね、章と詩帆の学生時代の友だちのことだよ。」
「学生時代の友だち…。」
「うん。3人は中学1年生の時に、出会ったの。」
そう言い終えた時には、すでにあゆみの顔からは笑顔が消えていた。




