030 年末、母と
翌日、いつもの時間に起きた稑は制服に着替え簡単に身支度を済ませると、リビングに向かうため部屋のドアを開けた。すると目の前に仕事に行く準備が整った詩帆が、いつものスーツ姿で立っていた。
「うぉ!!」
稑はびっくりして思わずのけぞった。
(いつもなら、許可なくズカズカ踏み込んで来るのに…。)
少し様子が異なる詩帆を恐る恐る観察するが、そのすべてが想定内の反応だったのか詩帆はぴくりともせず、目を伏せたまま突然頭を下げた。
「稑ッ!昨日はごめんッ!」
「へ…?!」
詩帆はゆっくり顔を上げると、しかし目は伏せたまま続けた。
「なんか私、昨日疲れ切ってて相当嫌な態度取った気がするし、ちょっと失礼だった。せっかく聴きに来てくれたのに、なんだ…、とか言っちゃうし、ほんとごめん。」
そう言い終えると、詩帆は再び頭を下げた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ。僕全然気にしてないし。」
"それはそれで、詩帆さんの素顔が垣間見れた気がして僕は少し嬉しかったし。"
とまでは言えず、慌てて別の言葉を探した。
「僕が勝手に聴きに行っちゃったんだし。」
「うん。それ。」
詩帆は稑のその言葉を聞くとスクッと身体を起こして言った。
「え?」
「あのね、私がああいう活動をしていることは、他の人には言わないでほしい。章とあゆみちゃんしか知らないことだから。」
「え、うん。え、でもなんで?」
「んー、なんかやなの。とにかくあまり触れてほしくないし、知られたくないの。あ、でもこのことを釘刺したくて今ここにいるんじゃなくて、いや、それもなんだけど、とにかく一番は謝りたかった。そのままスルーしようかとも思ったんだけど、もし稑にそういうことされたら私が嫌だから。じゃ、そういうことで。仕事、行ってきます。」
そう言うと、もう一切何も聞かんと言わんばかりに詩帆は足早に下に降りて行った。稑は朝っぱらから言うだけ言って嵐のように去っていった詩帆に思わず呆気に取られ、しばらく固まっていた。
(僕にあんな取り乱した詩帆さんも初めて見た…。)
昨日といい今日といい、明らかにこれまでと違う詩帆の表情やプライベートを知ることができ、稑はやっぱり何だか嬉しかった。おまけにメンバーの中で自分しか知らない秘密ができたことに、稑はまるでミーハーな女子にでもなったかのようなワクワクした気持ちになった。何だか詩帆との距離が少し縮まったような気がした。
それから数日が経ち、稑は冬休みに入った。暮れを向かえ、先日収録した番組も、優は場を繋ぎ、盛り上げ、そしてしっかり魂狼も宣伝するという大役を見事に果たしていた。この年末年始は、いくつかの音楽番組にピックアップはされるものの、生放送に出演するまでには至らなかったため、章からはメンバー始めスタッフたちへ、家族との時間を大事に過ごすようにとのお達しがあった。しかしその章のメッセージには、来年からはこの年末年始をそんなふうに過ごすことが難しくなるだろうという意味が含まれていることも、皆言わずとも理解していた。
仕事納めの日は午前中で業務が終わり、蓮はそのまま新潟に帰省したが、勇と優と新は、荷作りを終えるとそのまま章の家へと向かった。その日の夕食は、稑の母 律子も交えて章の家で過ごすことになっていたからだ。律子はこの夏に、さらにひと回り小さなアパートへと引越した。少しでも支出を抑え、東京での稑の生活費の足しにするためだ。去年の年末の稑を見た限りでは、もしかしたら戻って来てしまうかもしれないという不安が拭いきれなかったが、3月、5月と帰省のたびに目にする稑は、もうその不安を感じさせなかった。そして8月、稑も現地で手伝い、今の住まいへと引越しを終えたのだった。
夜、賑やかな食事を終えると、稑を含めたメンバー4人とてるてる、そして章はリビングで仲良くSwitchで遊びながら盛り上がっていた。そんな姿を、律子と詩帆がダイニングから眺めていた。
「何だか未だに信じられません、こんな状況を、一年前には想像もできなかった。」
「彼自身が切り拓いた結果だと思います。」
「えぇ。でもやっぱり、そこまで導いてくださった方や、支えてくださった方々のおかげです。一年前、あの手紙にしたためた想いは今も変わっていません。」
詩帆は、章と共に緊張する面持ちの中読んだ手紙を昨日のことのように思い出した。
「"一人で子育てをしようと思うな"、"親だからとすべてを一人で抱え込むな"。名古屋の母に、何度も何度も口酸っぱく言われていたのですが、私はそれを駄目な親だとずっと思い込んでいた。でも一人で頑張れば頑張るほど、稑の心は離れていって、いつからか会話もまともに成り立たない、まるで腫れ物に触るかのような、一番近くにいるのにとても遠い存在になってしまっていた。見かねた兄がいよいよマズいと手を差し伸べてくれたけど、最初はそれすらも好意として素直に受け入れられなかった。でも稑はちゃんと分かってた。そのうち清子ママにも頼るようになって、いつの間にか自分の居場所も見つけ出した。章さんに最初に会った時、そのすべてを言い当てられた時は本当に悔しかった。挙げ句に私がろくにしてあげられなかった稑の未来に容易く光を当てるようなことを言うので、大人気なくも、つい涙してしまいました。」
詩帆は当時、突然泣き出した律子の胸の内が分からなかった。でも今は何度もうなづきながら、律子の話に耳を傾けていた。
「でも、章さんの背負う者としての覚悟や、結局私の身勝手な意地が稑の未来を潰しかけてたと気付いて、章さん始め皆さんには、本当に感謝しています。」
詩帆は稑と出会ってから、そして結成してからのこの一年を振り返った。その間には、本当にさまざまな人たちの心や運命が動いた。
「私も毎日稑を見てきましたが、彼が悩み苦しんでいる時、努力している姿もずっと傍で見ていたからこそ掛けてあげる言葉が見つからなくて、何もしてあげられないことが歯がゆい時がありました。近くにい過ぎると、返って何もできないことってありますよね。でもあの通り、今稑には支えてくれる仲間がたくさんいて、私も本当に心強いです。」
「えぇ、いつも電話で話を聞いています。それに詩帆さんのことも、すごく支えになってるって稑からは聞いてますよ?」
「えぇ〜、だといいんですけどねぇ。」
詩帆はどうかな〜と少しはにかみながら言った。
「あ、でも私、いつもよく稑と比較されて、私のダメっぷりがかなり露呈してしまって困ってるんですよぉ。」
「えぇ?ダメっぷり?詩帆さんの??」
「はい…。この家には定期的にハウスキーパーさんが掃除に来てくれるんですけど、稑の部屋はいつも床に何も落ちてなくて、服もちゃんと畳んでしまってあるけど、私の部屋はいつも空き巣に入られたみたいだって。」
「空き巣ッ?!?」
そう言うと律子は思わず声を上げて笑った。
「もうずっとそれで生きてきたし、自分も困ってないのに、"それじゃ示しがつかん!"って章にいつも怒られて…。」
「ふふふッ。やっぱり誰にでも欠点はあるのね。」
律子はだいぶツボったようで、まだ笑っていた。
「稑は職場でもいつもよく褒められてますよ。一番年下なのに、一番礼儀正しいって。」
「え〜?そうなの?」
律子はようやく笑いが治まり、そして続けた。
「家のことは、稑もいつ突然一人になるか分からないので、周りに迷惑を掛けないよう、だいぶ口うるさく言ってきたかもしれません。礼儀に関しては…、兄かもしれないですね。」
「あぁ稑もそう言ってました。でもそれは自分のためなんだって、ちゃんと感謝してましたよ。」
「そうですか。」
律子はリビングにいる稑を眩しそうな優しい眼差しで見つめながら言った。
「まさかこんなに早くひとり立ちして行くなんてね…。私と稑は、物理的には遠く離れてしまった。でも今は、今の方が遥かに稑を近くに感じています。本当に不思議です。」
それがどれほど特別なことなのか、詩帆は想像でしか分からなかった。すると後ろからキッチンの後片付けを終えたあゆみが二人にお茶を出してくれた。
「ごゆっくり。」
にこっと笑いながらそう言ったあゆみは、そのままリビングへと向かい、眠そうに目を擦る光を抱き抱えると、章の隣りに座ってSwitch観戦に加わった。
「あのぉ…、私が聞いてしまってよいのか分かりませんが…、立ち入ったことをお伺いしてもよろしいでしょうか…。」
詩帆は慎重にお伺いを立ててから、ずっと気になっていたことを切り出した。律子は詩帆の様子から、これから何を聞かれるのかはすでに予想がついていた。
「稑には、父親のことはなんとお話されてるんですか…?」
「稑から…、何か話が出ましたか?」
「いえ、少なくとも私には一度も。」
「そうですか。」
律子は稑を見ながらしばらく黙り込んだ。詩帆は、聞いたことを後悔することになるなら聞くべきではない、でも聞くならきっと後にも先にも今しかないと、そう思った。だから聞いた以上は、律子がどんなに答えづらそうでも、聞かなかったことには絶対にしないと心に決めていた。それからじっと静かに律子から次に出てくる言葉を待った。
「稑は…、5歳の時に一度、自分の父親のことについて聞いてきたことがあります。多分保育園の行事とかで、だんだん他の家族と違うことに気付いたんでしょう。私はその時稑に、あなたの父親は今も生きているけど、自分に子どもがいることを知らないのだと。だからあなたがきらいとか、会いたくなくて会いに来ないんじゃないのよと、そうありのままを伝えました。当時の稑がそれをどこまで理解できたかは分かりませんでしたが、でもそれ以来、一度も父親のことを口にしたことはありません。」
「そうなんですね…。」
詩帆はまさかここまで具体的に話してもらえるとは思わなかった。
「今後も、もう話すつもりはないんですか…?」
「彼が成人した時には、もう少し事実を伝えようと思っています。実はもうその時渡す手紙も書いてあります。ただそれを読むかどうかは、もう稑に委ねるつもりです。」
「そうですか…。」
(稑は今父親のことをどう思っているのだろう…。)
詩帆はそれもまた想像でしか計り知ることはできなかった。
夜の9時を過ぎた頃、勇、優、新はそれぞれ実家に帰っていった。そして稑たちや詩帆も部屋へと引き上げた。
「はぁーー。お母さん、お腹も胸ももういっぱいだよ。」
稑のベッドに腰を掛け、後ろに伸ばした両手に身体を預けながら律子は言った。
「お母さん、詩帆さんとずっと何話してたの?」
「えーそれはもう日頃のあなたのあれやこれやですよ。本当に頑張ってるんだなって。あの時背中を押してあげられて、本当に良かったなって…。」
すると律子は、ラックに飾られた写真立てを見つけた。中には自分たちが写った写真が収められている。そしてその隣りには、小さな紙袋に入った何かと狼のマスコットも並んで置いてあった。
「あぁこれねぇ。」
律子はその写真立てをテレビ電話ですでに見たことはあったが、実物を見つけて嬉しそうに駆け寄った。
「蓮くんが用意してくれたんだったね。」
「うん。」
「今日は会えなくて残念だったなぁ。」
「うん。僕も今日お母さんにもう一度会わせたかったな。もう蓮はね、本当にカッコいいんだから。蓮と話してるとね、やなこともみんな、実はそうでもないのかもって思えてくるんだよ。蓮もこれまでいろいろあったけど、全部今に繋がってるって。」
律子は、そう目をキラキラさせて生き生きと話す稑に目を移した。
「確かにそうだなって。今は僕もそう思う。名古屋での生活は、あの時はすごく嫌だったけど、でも今は、あそこで暮らしてたから今があるんだって、ほんとにそうだなって思えるんだ。これは僕だけじゃなくて、お母さんもきっとそう。」
一寸の曇りもない目でまっすぐに律子を見てそう言った稑に、律子は思わず目を見開いた。
(この十数年、どこかでずっと後ろめたさを感じながら生きてきた。一番迷惑を掛けたくない稑を一番困らせてきた。その稑が…、そんなふうに言ってくれるの…?)
すると律子の瞳に、みるみると涙が溢れてきた。
「あれ…、おかしいな。なんだろう突然…。」
律子は慌てて涙を拭った。しかし拭っても拭っても、次々と涙が溢れてきた。すると、そんな律子を稑は正面から優しく抱きしめた。律子はあまりの想定外の出来事に驚き、その涙は一瞬で止まってしまった。
「僕、来年は絶対テレビに出るから。それで僕の活躍を、もっともっとたくさん、名古屋でもお母さんに見てもらえるように頑張るから。」
「稑…。」
律子の目からは再び涙が溢れた。
(稑に触れたのは、いつぶりだろう…。最後に手を繋いだのは、いつだったかな…。)
気付いたらいつの間にか見えない距離ができていた。親子なのに、お互い遠慮して気を遣い合って、すぐ隣りにいるのに手を伸ばしてももう届かない、気付いたらそんな日々だった。このままもうこの距離が縮まることはないと思っていた息子の温もりを今全身で受け止め、ずっと片親として頑なに身にまとっていた鎧が、涙と共に剥がれ落ちていくのを感じた。
(稑を生まないという選択肢はなかった。その稑につらい思いをさせ、何度も後悔しそうになった。でも…。稑と出会えて、本当によかった…。)
「稑、あなた本当に変わったね。うん、お母さん楽しみにしてるからね。」
律子もさぞ愛おしそうに、我が子を心から優しく抱きしめた。
律子がお風呂に入っている間、稑はかすかに聞こえるピアノの音を聞きつけ、ピアノ室に向かった。するとそこには詩帆がいた。
「詩ー帆さん。」
「稑ぅ。あれ、律子さんは?」
「今風呂に入ってる。」
「そう。」
詩帆はもう風呂を済ませ、部屋着に着替えていた。稑は思い切って詩帆の腰掛けているピアノ椅子に少しスペースを譲ってもらい、詩帆の右隣りに腰を掛けた。
「詩帆さんも明日帰るんだっけ。」
「うん。稑たちは伯父さんとこ行くんだっけね。楽しみだね。」
「うん。」
するとしばらく沈黙が生まれた。それを稑が先に破った。
「ねぇ、大学ってやっぱり楽しいの?」
「えぇ?どうしたの?突然。行きたくなった?」
「いや。それはまだ分かんないけど、詩帆さんも大学であの資格取ったんでしょ?蓮もなんかすごく頑張ってるし。それにこの前大学の中歩いたら、なんか一つの街みたいで新鮮だった。」
「確かにねぇ。キャンパス自体がいくつもあるところもあるしね。」
「キャンパス?」
「うん。その”街"が、まだ他のところにあったりもするの。」
「へぇー。」
「でも私、大学ではほとんどぼっちだったからなぁ。そういう意味ではあんまり大学生特有の青春は謳歌できてないかも。」
「え、詩帆さんぼっちだったの?!この詩帆さんが?!」
「うん。」
(へぇ…、なんか意外…。)
「いや、もう高校までずぅっと章と一緒でさぁ、中学からもう一人加わって、それで世界が成り立ってたから、なんかもう友だちの作り方とか忘れちゃったんだよねぇ…。あ!でもねぇ、あることがきっかけで、少しずつ広がっていったんだ。」
「あること?」
「うん。稑さ、この鍵盤の中から、どこか一つだけ選んで弾いてみて。」
「え、この中から?」
「そう。黒鍵も白鍵も、端から端までどれでもいいから。」
そう言うと詩帆は、邪魔にならないように少し後ろにのけぞった。
「うーん…。」
稑はだいぶ悩んだ。でも突然、これというのが決まったようだった。
「決まったッ。これ!」
すると稑は右手の人差し指だけピンと伸ばして、詩帆と自分の間くらいにある一つの白鍵を弾いた。
「ふーん。」
詩帆はじわじわとニヤニヤしながら稑を見た。
「え、何ぃ??」
稑は怪しい顔の詩帆に笑いながら、若干上目遣いで覗き込みながら言い返した。
「ふふ、これはね、当時流行った"ピアノで性格診断"なるものです!」
「性格診断?!こんなんで??」
「そう!」
「え、じゃあ僕はどんな性格なの?」
「それはねぇ…。秘密です!」
「はぁ?!何それ!!実はそんなの嘘なんじゃないの?!」
「ははは!まぁこんな感じでね、盛り上がったわけよ!」
「はははッ、なるほど。」
稑も天井を仰ぎながら笑った。するとそこへ、風呂を終えた律子もやって来た。
「ここにいたんだ。」
「あ、律子さん。」
すると稑は言った。
「そうだ!詩帆さん、何か一曲弾いて!」
「こら、稑。もう遅いんだから。」
「でも、詩帆さんのピアノ、ほんとにすごいんだ。ね?何か一曲、ダメ…?」
「うーん…。」
詩帆は少し困った顔をしてしばらく悩んだ。そして言った。
「じゃあ、一曲だけ。」
すると稑の顔はぱあっと明るくなった。そして律子と共にソファへと移動した。
「もうてるてるも寝てるし、ご近所にも迷惑だから、今日はこれで勘弁してね。」
そう言って詩帆が選んだ曲は、「オールド・ラング・サイン ー 蛍の光 ー」だった。
「オールド・ラング・サイン」作曲者不詳




