塩むすび
ゆかりはOA機器のメーカーで事務職をしている。人間関係にも恵まれていて、とてもラッキーだと思う。その中でも、特に仲のいい先輩がいた。
佐藤博美だ。四十代だけれど、実年齢より若く見える。顔の作りが綺麗なのもあって、ナチュラルメイクがよく似合っている。
シングルマザーで、大学生の息子がいるということだけ、ゆかりは知っていた。
◇◆◇
ある日の昼休み。
「お昼、どこかに食べに行かない?」と博美がゆかりを誘った。「いいですね! 行きましょう」と二人でスマホと財布だけ持って出かける。
ゆかりは大抵コンビニで昼ご飯を買う。一方、博美は弁当派だ。きちんと弁当を作るところが、お母さんっぽいなと思う。
博美とお昼を食べに出かけるのは初めてだった。
が、会社の近くの飲食店は、昼休憩の会社員たちで、どこもいっぱいだった。並んでいる店まである。外に食べに出る習慣がない二人は、その光景に唖然とした。
「こんなにすごいんだ……」
「知りませんでした……」
どうしようかと考えているうちに、ゆかりは思いついた。おむすびや。電車に三分乗って、駅からの行き帰りに五分。買い物に十分……
一時間の休憩時間ギリギリでいけるのでは? おむすびなら、行儀悪いけれど、電車の待ち時間でも食べられるかも。
「先輩、ちょっと冒険してみません?」
ゆかりはそう言って、おむすびやの話をした。「やめとこう」と言われると思ったのに、博美は意外にも「いいねぇ」と賛成した。
◇◆◇
運よくすぐ電車に乗れ、おむすびやまでやって来た。昼休みに家の近くまで帰ってくるなんて、変な気持ちだ。おむすびやに客はいない。
いつもの若干違和感のある静かな店内。もう少ししたら、声をかけられるだろう。
「メニューはないの?」博美が店内をくるくる見回す。
「いらっしゃい」例の声が聞こえた。
今日のおばちゃんのスタイルは、ギンガムチェックの三角巾に白い割烹着。一体何枚三角巾を持っているのだろうと、ゆかりは思う。
突然の呼びかけに博美は、びくっと肩を振るわせ、おばちゃんの方を見た。おそらく、え? こんなおしゃれな店に、おばちゃん? と博美は思っているのだろう。
「塩むすびだね」
目を細めて博美を見ながら、おばちゃんが言う。
「塩?」ぽかんとした表情で博美が返す。事態が飲み込めていないのだろう。
「何でないものが、一番大事なんだよ」
深く頷きながらおばちゃんは言った。
「で、もう一人は鯛めし」
「鯛?」ゆかりも博美と同じように復唱する。
「お祝いごとが近々あるよね」
おばちゃんにそう言われ、お祝いの鯛か! とゆかりは思い至った。「ありがとうございます」と言うと、おばあちゃんはニヤっと笑って見せた。
◇◆◇
小さめのおむすびをそれぞれ買い、駅へと向かう。電車はちょうど出たところのようだった。次の電車が来るまで十五分あった。
ホームのベンチに座り二人でおむすびを食べる。塩むすびを一口食べた博美は「おいしっ!」と声をあげた。ゆかりの鯛めしも出汁がきいていておいしかった。
あんな短時間で、二種類のおむすびを作るなんて、あのおばちゃんはすごい。
「何でないものが、一番大事……かぁ」
早々と一つ目のおむすびを食べた博美が呟く。その言い方に、ゆかりは引っかかった。いつも明るくポジティブな博美が弱さを見せたような気がした。
「実はね、息子とさぁ、上手くいってないんだよね」
ゆかりが言葉をかける前に、博美が話し始めた。
◇◆◇
息子が高一の頃、博美には付き合っている人がいたらしい。今でも綺麗な博美のことだ、当時もモテただろう。
「高校合格が決まって、ほっとしたんだよね。私の幸せも考えてもいいかもって思ってた」
そして、付き合っていた男性と博美のアパートで半同棲のような生活になったようだ。もちろん、そこには息子もいた。
「態度にも言葉にも何も表さないから、賛成してくれてるって思ってたんだよね」
博美は二つ目のおむすびのパッケージを開ける。
ところがある日突然、息子から「アンタがしていること気持ち悪い」と言われたらしい。博美はショックを受けた。アンタと呼ばれたことにも、深く傷ついた。
それ以降、会話は一切なし。唯一の繋がりは高校卒業まで作った弁当だった。弁当だけは息子も受け取り食べていたようだ。
「お小遣いも毎月は渡せなかったから、ただ昼ご飯買うお金がもったいなかっただけだろうけど」
博美はおむすびを一口齧る。
息子は勉強がよくできたらしく、国立大に進学し家を出たという。それ以来、一度も家に帰って来ない。メッセージを送っても、既読になるものの返信はない。
博美の話を聞いて、ゆかりは胸が詰まった。
「何でもないものってなんだろ……」博美の目線は向かいのホームに向いていた。
◇◆◇
次の電車が来るまでに、二人はおむすびを食べ終えた。おばちゃんが言ったことには必ず意味がある。そして何かしら事態が動き出す。
博美と息子の関係に変化が訪れるのではないかと、ゆかりは思った。
昼間の電車は空いている。二人が乗った車両には他にも数人いるだけだ。
博美が小さなトートバッグからスマホを取り出す。操作する指が止まったのを、ゆかりは目の端で捉えた。博美に顔を向けると、泣き出しそうな顔をしていた。
「大丈夫ですか?」
ゆかりはそっと尋ねる。博美は指先で涙をそっと拭うと頷いた。
会社に戻るとちょうど昼休憩が終わる時間だった。いつもより濃度の濃い休憩時間だったような気がする。それは博美の話を聞いたからだろうか。
博美とはよく話すものの、息子の話を聞いたのは初めてだった。しかも、上手くいっていないとは思ってもみなかった。
電車の中の博美の様子が気になりながらも、ゆかりは仕事を再開した。斜め前で背を向けて座っている博美の表情はわからないけれど、後ろ姿はいつもと変わらないように見えた。
◇◆◇
午後三時。十分間の休憩がある。
ゆかりはコーヒーを飲もうと給湯室へ向かった。電気ポットでお湯を沸かす。その時、背後に人の気配がした。
「今日、おむすびやさんに連れて行ってくれて、ありがとう」
博美だった。手にはスマホを握っている。ゆかりが言葉を発する前に、博美が続けて言った。
「息子からメッセージが来た」
とろけるような笑顔で言う。そして、スマホをゆかりに見せた。そこには二通のメッセージがあった。
【今度の日曜日、帰ります】
【だし巻き卵食べたい】
どちらも素っ気ないけれど、心を温かくさせるメッセージだった。
「だし巻き卵、弁当にいつも入れてたんだよね。好物だとは知らなかったけど」
博美の声は弾んでいる。
―― 何でないものが、一番大事なんだよ
おばちゃんの声を思い出す。何でもないもの。それは
博美が息子に作り続けた弁当であり、だし巻き卵なのではないだろうか。
「毎食だし巻き卵作ってあげて下さい」
冗談でゆかりが言うと「そうだね。一生分食べさせてやろうかな」と博美は言った。こんな風に冗談を言いあえる先輩の存在はありがたい。
◇◆◇
ゆかりは博美のマグカップにもインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いだ。「ありがと」と博美は受け取り一口コーヒーを飲む。
「今日って七時からだよね? 一緒に店まで行かない」
「はい、ぜひ一緒に」
「月原さんが結婚かぁ。なんか我が子が結婚するみたいな感慨深いものがある……」
「十歳も離れてないじゃないですか」
「だって、入社した時から一緒にいるからさぁ、やっぱ我が子みたいなもんだよ」
博美はうんうんと頷いてコーヒーを飲む。「洗い物はするよ」と言ってくれたので、甘えることにし、ゆかりは自分のマグカップを渡した。
洗い物が終わるのを待って、二人で机に戻る。
「ちゃちゃっと仕事片付けて、定時で上がってお茶でもしていこうか」
博美の提案にゆかりは乗る。
ゆかりは来月、拓実と結婚することになっていた。そのお祝いの食事会を、今夜職場のメンバーがしてくれるのだ。
私にお祝いごとがあることを、おむすびやのおばちゃんはわかっていた。やはり只者ではないと思う。
お昼に食べた鯛めしのおむすびの味を、ゆかりは思い出した。きっと忘れることはないだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話を書いているのと同じ時期、近所のスーパーの隣に、おむすび屋さんがオープンしていました。
あまりの偶然に驚きました。
おむすび、買いに行ってみようかな、と思います。




