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モブ令嬢のはずが気付けば、国一番の領地経営をしていました。  作者: 渚月(なづき)


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第十話 記録の終わりに

王の謁見室に入ったとき、ダリウスはすでに来ていた。笑顔だった。余裕の笑顔だ。でも指輪が、今日は一本も光っていない。全部外している。


 そして——予想していなかった人物が、ダリウスの隣に立っていた。財務副長官のシオンだ。穏やかな顔立ちで目立たない灰色の服。ダリウス派の忠実な側近だと、わたしは思っていた。

 シオンがオルフェウスに書類を差し出した。


 「財務長官室の正式記録です。殿下のご依頼で、三日前から照合しておりました」


 ダリウスの笑顔が、初めて揺れた。わずかに、でも確かに。


 シオンはダリウスの側近ではなかった。オルフェウスが三年前から王命で財務の不正を調査させていた、内側に潜った人間だった。

 わたしの記録と、シオンの財務記録が——この場で合わさった。


 (——敵だと思っていた人が、ずっとそこにいた)


 書類を並べた。古い台帳の差分、横領額の計算、荷車の記録、坑道の証拠。シオンが三年かけて記録した財務長官室の正規書類との照合。全てが、一本の線でダリウスに向かっていた。


 ダリウスは最後まで笑顔を保とうとした。でも指輪をすべて外した手が、ひざの上で握られているのが見えた。


 「これは……一方的な解釈だ。記録の読み方次第で——」


 「記録の読み方は一つです」


 わたしは静かに言った。感情は入れない。事実だけ、言う。


 「十五年前からの差分、荷の運び出し記録、坑道の物的証拠。エリスの観察と、シオン殿の財務記録が一致しています。どれか一つなら解釈の余地があります。でも全部が重なれば、そうはなりません」


 王が裁可を下した。処分は、静かに、手続きを踏んで進んだ。

 ダリウスは最後まで声を荒げなかった。それがかえって、彼の敗北の重さを示していた。


◇


 謁見室を出たとき、廊下が静かだった。オルフェウスがわたしの隣を歩いた。肩が並ぶ距離で。


 「東辺境の代官に、正式に任命する。今度は「暫定」なしで」


 わたしは一歩止まった。


 「……正式に、ですか」


 「あそこの土地と人を、あなたほど理解している者がいない」


 それ以上の説明はなかった。でも十分だった。


 〔豆知識〕中世ヨーロッパにおける「代官(bailiff)」は単なる税収集人ではなく、領地の農業・司法・治安・財政を統括する実質的な行政官だった。有能な代官は領主よりも領地に精通し、「代官が変われば領地が変わる」とも言われた。


 謁見が終わった後、シオンがわたしに近づいた。


 「エリス様の記録が、わたしの記録を補完しました。逆もそうです」


 「あなたはずっと財務長官室の中にいたんですね」


 「三年です。内側から記録を取り続けました。外から積み上げる記録と、内から積み上げる記録が、今日ここで合わさった」


 三年。わたしが半年で積み上げた記録と、シオンが三年かけた記録が合わさった。わたしは手帳に書いた。「シオン。三年間。財務長官室の内側から」と。


 廊下の端で、エリナが待っていた。


 「……終わりましたか」


 「ひとつのことが。でも、次が始まります」


 エリナは少し笑った。わたしが最初に知っていた愛嬌のある笑顔とは違う。少し疲れを含んだ笑顔だ。


 「わたしは、ここから先の仕事はできません」


 「わかっています。でも、あなたが教えてくれたことがある。気を付けること。身近な人間こそ」


 エリナはそれを聞いて、目を伏せた。謝罪とも安堵とも取れる顔だった。


 「……お幸せに、お嬢様」


 わたしは頷いた。エリナの背中を見送った。


 廊下の窓から、王都の景色が見えた。わたしは手帳を開いた。日付と、「東辺境正式代官に任命」と書いた。


 隣に立つオルフェウスが、窓の外を見ながらごく小さく言った。


 「戻ったとき、土手の修繕状況を一緒に確認したい」


 一緒に、という言葉を、わたしはそのまま手帳に書いた。メモのように、でも少しだけ丁寧な字で。


 オルフェウスがわたしの手帳を見て言った。「また書いているのか」


 「いつも書いています。今日の記録は、「ダリウス宰相の処分決定。証拠は記録通り機能した」です」


 オルフェウスは少し笑った。珍しい。笑う人ではないと思っていた。


 「……あなたは、記録に全てを入れるんだな」


 「入れない方が、後で困ります」


 オルフェウスはそれを聞いて、廊下の窓の光を受けながら、また少し笑った。その顔を、わたしは手帳に書かなかった。この人の顔は記録より記憶の方がいいと思ったから。


 ガルドはまた試すだろう。「今年の収穫をどう思う」と。エリナは次の場所で生きていく。ゼファーの記録は、わたしの手帳の中にある。イゾルデの覚悟も、ここにある。


 東辺境の土は、まだ乾いている部分が残っている。でも、水が流れ始めた地面は確かに色が変わった。それを、わたしは記録した。


 記録することは、続く。それだけが、わたしの仕事だから。


 ——手帳に書いた「一緒に」の字が、窓からの光を受けて、少しだけ輝いて見えた。



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