第24話:見えない手綱と、静かなる胎動
風が吹き抜ける大平原の一角、アグライアの部族が営む厩舎は、かつてない活気に包まれていた。
ゼクスは、自らが用意した極細のブラシを手に、1頭の栗毛の馬を丹念に手入れしていた。その手つきは、精密な魔導回路を編み上げる時のような慎重さと、それでいて慈しむような柔らかさを帯びている。
「おや、そんなに急いで食べなくても、逃げはしませんよ。これは王都でも一握りの貴族しか手に入れられない、栄養価を極限まで高めた飼料ですからね」
ゼクスが話しかけているのは人間ではなく、目の前で一心不乱に桶を突っついている馬だった。その瞳には、いつもの皮肉めいた光ではなく、純粋に美しい生命を観察し、愛でる者の穏やかさが宿っている。
「……師匠。正直、今のあなたはただの『馬バカ』にしか見えませんよ。杭の設置も、通信路の安定化も、私が一人で進めているのを忘れていませんか?」
傍らで、泥に汚れた作業服を着た弟子が、恨みがましい声を上げた。彼女の手元には、草原の各所に配置した受像水晶から送られてくる情報を統合するための、小型の演算機が握られている。
「何を言うんですか。この子たちのコンディションを整えることこそが、このプロジェクトの心臓部ですよ。どれほど精緻な魔導の窓を用意したところで、走る主役が輝いていなければ、観客の心は震えません」
ゼクスは馬の首筋を優しく叩き、立ち上がった。
当初、部族の長たちはゼクスの持ち込んだ技術を「魂を汚す鉄の臭い」と嫌っていた。だが、ゼクスが提供した高栄養の飼料と、馬の体調を瞬時に把握する魔導の術式が、冬を越せずに死にかけていた仔馬たちを次々と救い出すのを目の当たりにして、その態度は劇的に軟化していた。
「ゼクス殿。……この薬を与えてから、我らの馬の毛並みが見違えるようだ。この地で千年生きてきた我らでも、これほど健やかに馬を育てる術は知らなかった」
部族の長が、歩み寄ってきて頭を下げた。彼の背後では、若手の騎手たちが、ゼクスが設置した「訓練用の標識」を興味津々で見つめている。
「礼には及びませんよ。私はただ、この美しい生き物たちが、その潜在能力を100%発揮できる環境を整えたに過ぎません。……さて、長。約束通り、明後日には最初の大競走を行ってもらいますよ。アグライアの誇る最速の証を、海を越えた王都の連中にも見せつけてやりましょう」
「ああ。我らも楽しみだ。この風の中で、どれほどの速度に達するか、我ら自身もまだ知らないのだからな」
ゼクスは満足げに頷くと、懐から一枚の小さな受像水晶を取り出した。その滑らかな表面には、数百キロメートル離れた王都アステリアの広場が映し出されている。
王都の広場は、草原の静寂とは対照的な、重苦しい空気に支配されていた。
配信の窓には、草原を悠々と歩く馬たちの映像が映し出されている。ゼクスが放流した受像水晶は、馬の筋肉の収縮から、鼻先から漏れる白い息までを鮮明に捉えていた。だが、それを見上げる群衆の反応は驚くほど鈍かった。
「……また馬かよ。ゼクスは何を考えてるんだ? 1週間も沈黙して、見せてくれるのが『動物の観察記録』だってのか?」
広場の端に座り込んだ冒険者が、退屈そうに呟く。
「魔導四輪の時は、世界がひっくり返ると思ったのにな。あんな鉄の塊が走るならまだしも、ただの馬が走るのを見て、何が面白いんだ。俺たちの生活に、何の関係がある?」
人々の期待は、目に見える「利便性」や「生活の変革」に偏っていた。水を清める道具や、移動を速める車両、そんな劇的な成果を期待していた彼らにとって、草原の風景はあまりにも牧歌的すぎたのだ。
その傍らには、ゼクスが設置したばかりの「銀貨を吸い込むだけの鉄箱」が、冷たい光を放って並んでいる。そこには景品の見本もなければ、豪華な目録もない。ただ、出走する馬の名前と、その血統、そして過去の記録だけが、簡素な文字で表示されている。
「景品も出ない機械に、誰が銀貨を投げるっていうんだ。あいつ、ついに頭が焼き切れたんじゃないか?」
通行人の商人が、鼻で笑って通り過ぎる。
だが、すべての人間が冷淡だったわけではない。
人混みの奥で、一人の騎士が足を止めた。彼は自身の愛馬を戦場で失って以来、馬という生き物に対して並々ならぬ執着を持っていた。配信の窓に映し出されたアグライアの馬たちの、一切の無駄を削ぎ落とした肢体。その美しさが、彼の専門家としての本能を刺激した。
「……バカを言うな。あの脚、あの蹄の角度を見てみろ。王国の軍馬でも、あれほどの逸材は1000頭に1頭もいないぞ。……これに、銀貨1枚を賭けられるのか」
騎士は吸い寄せられるように鉄箱の前に立った。筐体の画面には、各馬の勝算を示す数字が、ゼクスの組んだ数式によって算出され、刻一刻と変動している。
彼は手持ちの銀貨を投入口へ滑り込ませた。カラン、という無機質な音が、冷めた広場に小さく響く。
「……面白い。私の見立てが正しければ、この『風の王』と呼ばれる馬が、草原で一番速いはずだ」
騎士以外にも、数名の商人が計算ずくの目で画面を睨んでいた。彼らはゼクスという男が、意味のないものを世に放つはずがないと直感していた。彼らにとってこれは、単なる見世物ではなく、未知の投資対象だった。
草原のゼクスは、モニター越しにその様子を眺め、口角を上げた。
「おや、たったの52人ですか。王都中の人間が待ち構えていた割には、少々寂しい船出ですね」
「だから言ったじゃないですか。ただの競走なんて、今の王都の連中には刺激が足りないんですよ。みんな、もっと分かりやすい『爆発』を求めてるんです」
弟子が端末を叩きながら吐き捨てる。だが、ゼクスは気にする様子もなく、手入れを終えた馬の美しい背を撫でた。
「構いませんよ。最初は冷笑から始まるのが、新しい理の常ですから。……ですが、銀貨1枚が、他人の全力の疾走(運命)と直結した時、人は自分の叫び声を抑えることができなくなる。銀貨の重みが、遠い異国の馬の蹄の音とシンクロするんです。その瞬間、これはただの映像ではなく、彼らの人生そのものになる」
ゼクスは空を見上げた。受像水晶たちは、すでに草原に引かれた「見えないスタートライン」を捉えている。
「さあ、案内を出しましょうか。明後日の正午、アグライアの第1回公式競走を開催します、と。……あ、ついでに付け加えておいてください。『今回の的中配当に、上限はありません』とね」
ゼクスの不敵な宣戦布告が、配信の窓を通じて王都へと流れていく。
「上限なし」という言葉だけが、冷めきっていた群衆の耳に、わずかな、しかし消しがたい熱を帯びた毒のように入り込んでいった。
人々はまだ、自分たちが何を失い、何を得ようとしているのかに気づいていない。草原の静寂が、巨大な熱狂に飲み込まれるまで、あと48時間。
ゼクスは再び厩舎に戻り、次に走る予定の馬の前に腰を下ろした。彼は、エンジニアとしての冷徹な計算を一度横に置き、一人の生き物好きとして、馬の鼻筋を愛おしそうに擦った。
「頑張ってくださいね。あなたの走りが、世界の理を一つ、確実に壊すことになるんですから」
馬が、それに応えるように力強く嘶いた。
草原を吹き抜ける風が、王都の欲望を孕んで、一段と激しく吹き荒れ始めた。
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