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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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13/17

第13話 再会の輪郭

再会は、思っていたより静かに来た。

 特別な予告があったわけではない。

 朝から何かの予感があったわけでもない。

 ただ、午後の講義が終わって構内を歩いているとき、スマートフォンの画面に短い通知が出ただけだった。


――今日は少し早く仕事が終わりそうです。


それだけの文面に、私は足を止めた。

 少し冷たい春の風が、 校舎のあいだを抜けていく。数人の学生が笑いながら階段を下りていき、その脇で私は画面を見つめていた。


少し早く終わる。

 つまり、来る可能性がある。

 あるいは、来ないかもしれない。

 そのどちらにも取れる、曖昧な書き方だった。


私は考える。

 あの人は無駄に期待を煽る言い方をしない。

 来られないのに匂わせるようなことは、たぶんしない。

 だとすると、これはかなり高い確率で「会える」の予告だ。


そこまで整理してから、ようやく感情が追いつく。

 会えるかもしれない。


胸の奥が、わずかに持ち上がる。

 派手ではない。跳ねるほどでもない。

 でも、確かに上がる。


私はそれを確認してから返信を打った。


――それはよかったです。


送って、少し考え、もう一文つけ足す。


――忙しさから逃げなくて済みそうですね。


自分で書いておいて、少しだけ意地が悪いと思う。

 でも、あの人はこのくらいの軽い皮肉は受け取れる。


数分後、返ってきた。


――それを覚えているあたり、容赦ないですね。


私は歩きながら、少しだけ笑った。

 容赦ない。


そう言われると、自分の態度が少しだけ見えてくる。

 私はたぶん、落ち着いているように見えるぶん、言葉の直線性が際立つのだろう。

 でも、それでいいと思った。


余計な甘さを乗せないで、きちんと届く言葉のほうが、この関係には合っている。



夕方の店は、平日のわりに客足が多かった。新年度が近いせいか、手帳や実用書の棚を見ている人が多い。進学関係のコーナーでは親子連れが立ち止まり、文庫棚の前ではスーツ姿の男がしばらく同じ一冊を手にしていた。


私はレジの内側で働きながら、意識の一部だけを入口に残していた。

 自覚している。

 かなり分かりやすい。

 けれど今日は、それを無理に矯正する気にもなれなかった。


会えるかもしれない日と、会えない日では、人の内面の配置が少し変わる。

 それは仕方のないことだ。


七時を少し過ぎたころ、自動ドアが開いた。外気と一緒に、見慣れた輪郭が入ってくる。


太一さんは、相変わらず無駄のない歩き方をしていた。濃紺のコート、手に持った書類封筒、少しだけ疲れの影がある目元。それでも、前回より顔色はいい気がした。


私はまず観察する。

 今日は本当に仕事帰りだ。

 急いで来たわけではない。

 でも、真っ直ぐここへ来た。


次に理解する。

 私に会いに来た。


最後に感情が来る。

 やっぱり、うれしい。


「こんばんは」


レジに近づいた彼が言う。


「こんばんは」


私も答える。

 それだけなのに、周囲の空気が少しだけ薄くなった気がした。


「今日は来られたんですね」


「ええ。昨日よりは人間らしい時間に終わりました」


「昨日は人間らしくなかったんですか」


「校了前の編集者は、たぶんあまり人間的ではないです」


「自分で言うんですね」


「客観性は大事なので」


私は小さく笑った。

 太一さんも、それを見て少しだけ口元を緩める。


数日ぶりなのに、会話の接続は不自然ではなかった。

 むしろ、会えなかった時間があるぶんだけ、最初の数往復が滑らかだった。

 距離が縮まったというより、途切れなくなった感じに近い。


「何か探してる本ありますか」


「あります。けど、半分は口実です」


「半分なんですね」


「全部だと露骨すぎるので」


「もう十分露骨だと思いますけど」


「そう言われると否定しにくいですね」


そう言いながら、彼は新刊台に視線を落とした。


私はバーコードリーダーを持ったまま、ほんの一瞬だけ彼の横顔を見る。前よりも、見ることへの抵抗が減っている自分に気づく。もちろん、じっと見つめるような真似はしない。でも、以前なら避けていた長さで、今は見られる。


恋を自覚する前は、視線には意味が生まれすぎていた。

 今は違う。

 意味があることを知った上で、少しだけ扱えるようになっている。

 それでも、平然ではない。


「何か飲みますか」


私は訊いた。

 店内の小さなカフェスペースを視線で示す。


「今日はコーヒーにします」


「前もそうでしたよね」


「変えたほうがよかったですか」


「そういう意味ではないです」


「なら、変えないでおきます」


いつもならそれだけのやり取りだ。

 でも今日は、そこで終わらなかった。


「安定を選ぶのは、年齢ですか」


私が言う。

 太一さんは少しだけ目を細めた。


「どうでしょう。職業病かもしれません」


「編集者は飲み物まで保守的なんですか」


「締切のある人間は、意外と冒険しないですよ」


「つまらないですね」


「今、かなり刺しましたよね」


「事実確認です」


「その言い方で済ませるの、ずるいな」


その「ずるい」が、前より少しやわらかかった。

 責めているのではなく、親しみの範囲で言っているのが分かる。


私は理解する。

 この人は、会えなかった数日で、少しだけ私との距離を受け入れた。


そして感情が来る。

 それがうれしい。



閉店まで、太一さんはカフェスペースで本を読んでいた。前回と同じように、こちらを急かさない位置で、けれど確実に同じ空間にいる。


私は仕事をしながら、時々その存在を感じていた。

 背中のほうに人の気配があるだけで、意識は案外変わる。

 しかもそれが、どうでもいい相手ではない場合はなおさらだ。


返品処理をしながら、ふと思う。

 前は「近くにいる」だけで緊張していた。

 今は少し違う。

 近くにいることが、まず安心として働く。

 その上に、緊張が乗る。

 順序が変わった。


たぶんそれは、会えない日を経たせいだ。

 会えること自体が安堵になって、そのあとでようやく細部が気になり始める。


手元の作業を終え、レジ締めの準備をしながら、私は店のガラスに映る自分を見る。いつも通りに見える。少しだけ頬がやわらかい気もするけれど、他人には分からない程度だろう。


そうであってほしいと思う半面、少しくらい分かってもいいとも思う。

 その矛盾が、自分でも少し可笑しかった。



閉店後、店の外に出ると、夜気は乾いていた。人通りは昼より少ないが、駅へ向かう流れはまだ途切れていない。信号の向こうでタクシーが止まり、誰かが足早に横断歩道を渡っていく。


「少し歩けますか」


太一さんが言った。


「駅までなら」


私が答えると、彼は短く頷いた。

 二人で並んで歩く。

 肩は触れない。

 触れないように、自然に距離が取られている。

 それがこの関係らしかった。


「今日は大学、どうでした」


太一さんが訊く。


「ゼミで地方自治の話をしてました」


「面白そうですね」


「面白いです。ただ、議論の速度が少し遅い」


「手厳しい」


「大学の議論って、配慮の形で思考が遅くなることがあるので」


「それはあるかもしれないですね。正しさの確認に時間を使いすぎる」


「しかも、確認した正しさが、あまり現実に効かないことも多い」


私がそう言うと、太一さんは少しだけ笑った。


「今日はだいぶ切れてますね」


「会えたからかもしれません」


言ってから、自分で少しだけ驚いた。

 かなり素直だった。

 でも、引っ込めるには遅い。


横を見ると、太一さんは一瞬だけ言葉を失っていた。歩幅が微妙に崩れる。第11話のときと同じ種類の乱れだ。ただ、今回はもっと短い。


「そういうことを、普通の顔で言うのやめてもらえますか」


「嫌です」


「即答ですね」


「本当のことなので」


「本当のことをそのまま言うのが一番危ないんですよ」


「危ないことはしてません」


「その認識が危ない」


私は少しだけ笑う。

 彼も困ったように笑う。


その会話のあと、短い沈黙が降りた。

 でも気まずくはなかった。

 むしろ、その沈黙の中で、さっきの言葉がゆっくり沈んでいくのが分かる。


会えたからかもしれない。

 自分で言ってみて、そのとおりだと思った。

 会えない時間は感情を確かめる。

 会える時間は、それを現実にする。



「そういえば」


駅前の交差点に差しかかったところで、太一さんが言う。


「さっき、地方自治の話をしていたと言ってましたよね」


「はい」


「最近、地方の取材先で似たようなことを考えてました」


「どんなことですか」


「制度って、正しさだけでは回らないんですよ。結局、回してるのは人間なので」


「分かります」


「しかも、人間は正しいから動くとは限らない。納得したときに動く」


「正しさより、納得の構造」


「ええ。だから記録や説明が必要になる」


彼の声は、仕事の話をしているとき少し安定する。

 感情を語るときより、むしろ輪郭がはっきりする。

 それはたぶん、彼にとって「言葉を残すこと」が存在の一部だからだろう。現実と責任を重視し、記録する側の人間であることが、その話し方に出る。


私は彼の横顔を見ながら考える。

 この人の魅力は、優しいからだけではない。

 現実を見ているからだ。

 現実を見たうえで、簡単に投げないからだ。


「編集って、結局そういう仕事なんですね」


私は言う。


「何をどう残せば、人が現実を受け止められるかを考える仕事」


「きれいに言ってくれますね」


「事実の要約です」


「でも、その見方は好きです」


好きです。

 主語は仕事の話だ。

 意味もその範囲だろう。

 でも、言葉は時々、範囲を越えて残る。

 私はそれを受け取って、少しだけ視線を前に戻した。


「私は」


と、言いかけて止まる。


「どうしました」


「……別に」


「今、何か言いかけましたよね」


「思考の途中です」


「途中なら待ちますけど」


「待たなくていいです。長いので」


「それ、余計気になります」


私は少しだけ迷ったあと、結局言うことにした。


「たぶん、私はあなたが現実を見ているところが好きなんです」


今度は、太一さんが完全に黙った。

 数秒。

 信号待ちの人の話し声と、遠くの電車の音だけが流れる。

 私はその沈黙の意味を理解する。


これは重い。

 かなり重い。

 外見でも雰囲気でもなく、「現実を見ているところが好き」と言うのは、相手の生き方を好いていると言うのに近い。


でも、もう引っ込めたくはなかった。


「……それは」


太一さんがやっと言う。


「たぶん、かなりうれしい言葉です」


「ならよかったです」


「よくないですね」


「どっちですか」


「うれしいけど、平静を保ちにくいので」


「それは私の責任ではないです」


「そうやって線を引くのも含めて、あなたらしい」


信号が青に変わる。

 二人で横断歩道を渡りながら、私は自分の鼓動が少し速くなっているのを感じていた。


言いすぎたかもしれない、とは思う。

 でも、間違ってはいない。


私は太一さんを、ただ年上の男として好きなのではない。

 社会や現実の重さを引き受けようとする、その姿勢に惹かれている。


それは恋愛として、少し厄介な種類の好意だ。

 でも、だからこそ軽くはならない。



駅の近くのベンチ脇で、少しだけ歩みが緩む。終電を急ぐ空気ではないが、長く立ち話をするほどでもない微妙な時間だった。


「未来のことって」


太一さんが不意に言う。


「十九歳のとき、どれくらい具体的に考えますか」


私は少し考える。


「人によると思います」


「あなたは?」


「私は、考えるほうです」


「どんなふうに」


「仕事。家族。どこで生きるか。何を引き受けるか」


「かなり具体的ですね」


「逆に、考えないと不安なので」


自分で言ってから、その言葉が少しだけ深いところに触れていると気づく。


私は未来を考える。

 それは希望のためでもあるけれど、不安の管理でもある。

 自分の存在が宙に浮かないように、先の輪郭を仮にでも作っておきたいのだ。


「あなたは?」


私も訊く。

 太一さんは、少しだけ視線を落とした。


「昔より、具体的には考えなくなりました」


「諦めですか」


「半分は。半分は現実ですね」


「違いがありますか」


「ありますよ。諦めは手放すことだけど、現実は残すものを選ぶことなので」


その言葉に、私は少しだけ息を止めた。

 残すものを選ぶ。

 あまりにもこの人らしい言い方だった。

 痕跡、記録、存在の継続。そういうものを重く見る人間の言葉だ。


「それ、仕事にも近いですね」


「たぶんそうです」


「何を残したいんですか」


訊いてから、私は少しだけ後悔する。

 重い質問だ。

 でも、太一さんはすぐには逃げなかった。


「言葉、かもしれません」


彼は静かに言う。


「あと、理解された何か」


「理解された何か」


「そのまま消えると、最初から無かったみたいになるでしょう」


私はそこで、胸の奥がわずかに痛むのを感じた。

 その感覚の理由は分かる。

 私もまた、無かったことにされることを恐れる側の人間だからだ。

 役割だけが残って、私自身が抜け落ちること。

 生きていたはずの感情や選択が、誰にも届かないまま消えること。

 だからこそ、今ここにいる自分をどう確かめるかは、ずっと私の中の問題だった。


「……分かります」


私は言った。


「すごく」


太一さんがこちらを見る。

 その視線は、問い返すものではなく、受け止めるものだった。


「あなたは、そういう顔を時々しますね」


「どんな」


「何かを、知りすぎている人の顔」


「便利な言い方ですね」


「便利です。具体的に訊く勇気がないので」


「訊かれたら困ります」


「だから訊きません」


その答えが、妙にありがたかった。

 踏み込まない。

 でも、分かっている。

 その距離感が、この人の誠実さなのだと思う。



改札前まで来ると、人の流れが一段と速くなる。スーツ姿の会社員、学生、買い物帰りの夫婦。誰も彼も自分の夜へ急いでいて、こちらの会話だけが少し別の速度で続いていた。


「今日は、会えてよかったです」


私が言う。

 太一さんは一瞬だけ驚いた顔をしたあと、静かに笑った。


「それを先に言われると困るんですが」


「またですか」


「今日はかなり多いです。困る場面が」


「慣れてください」


「善処します」


私は少しだけ笑って、それから彼を見る。

 数日前までは、この視線の重さに自分のほうが負けていた。

 今は違う。

 見返せる。

 見返した上で、まだ少しだけ揺れる。

 そこが、今の私たちの位置だと思う。


「でも」


太一さんが言う。


「たぶん、今日は同じことを言うつもりでした」


「会えてよかったって?」


「ええ」


「じゃあ先に言ったほうが得ですね」


「そういう勝ち負けにしないでください」


「冗談です」


「分かってます。でも、少し悔しい」


その「悔しい」が、以前よりずっと感情に近かった。


私は理解する。

 この人は今、私との会話でかなり素直になっている。

 理性はまだ前にある。

 でも、その後ろに感情が立っているのが見える。


「次、いつ来られますか」


私が訊く。

 太一さんは少し考えた。


「明後日なら、たぶん」


「たぶん、ですね」


「編集者なので」


「便利な職業ですね」


「便利に使われる側ですけどね」


「じゃあ、来られたら」


「来られたら?」


「コーヒー以外も選んでください」


彼は少しだけ目を見開いて、それから笑った。


「それは、進展ですか」


「飲み物の話です」


「本当に?」


「たぶん」


「その『たぶん』は危険ですね」


私は答えずに、改札へ向かって一歩下がる。


「じゃあ、また」


私が言う。


「ええ。また」


太一さんが答える。


改札を通って、数歩進んだところで振り返る。彼はまだそこに立っていた。前と同じようで、少し違う。見送るだけの立ち方ではない。次を思って立っているように見えた。

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