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燃費

物語の前触れって、たいてい匂いでわかる。

母と並んで歩く帰り道――湿ったアスファルトと土の混じった匂いが、もうすぐ雨が降るよと教えていた。


家に帰ると、テーブルの上には昨日ヒカルさんから受け取ったネックレスが置かれていた。

風の模様が細く彫り込まれた銀の飾り。けれど金属はくすみ、細かな傷や錆があちこちに浮いている。


「これ、アルクのネックレスなの?」


「そうだな。異世界にあるはずなのに、どうして地球に……?」


二人で考えても、答えは出ない。

ただ、あのときヒカルさんの手から受け取ったときと同じように、見ているだけでどこか胸の奥がざわついた。


「ただいまー」

父が帰ってきた。


「おかえりー」

母が笑顔で迎える。その声は、どこにでもある普通の家庭の“日常”だった。



夕食。焼きサバと味噌汁、そして父の大好きな冷ややっこ。

いつもの食卓。けれどテーブルの上の小さなネックレスだけが、異世界の風を連れてきたみたいにきらりと光っている。


「なあ千尋」

父が箸を止め、ふと思いついたように言った。

「君の魔法さ、もしかして“燃費が悪い”んじゃないか?」


「燃費?」

母と私は、同時に首を傾げる。


「たとえば車。近くのスーパーに行くならガソリンはそんなに減らない。でも北海道まで走ったら、途中でガス欠になるでしょ?」

「……つまり?」

「千尋の力も、異世界から地球まで“長距離移動”をした。きっとガソリン、つまり魔力が空っぽになったんじゃないかなって」


言われてみれば、確かにそんな気もする。

私と母は顔を見合わせ、うなずいた。


「じゃあどうすれば、また“満タン”になるんだろう」

「それは……自然に溜まるのを待つしかないな」

「……給油スタンドはないもんね」

「そういうこと」


父が真面目な顔で言うから、思わず笑ってしまった。

私たちは、この魔力の単位を“ママ・ポイント(MP)”と呼ぶことにした。

発案者は父。多分、ふざけている。


「で、そのMPが満タンになるのはいつ?」

前に母が帰ってきた日を基準に計算してみた。

――明日、らしい。



翌日。

母は私のお下がりの服に、いつものエプロン姿だった。


「またそれ着てくの?」

「前にこれで帰れたからな。験担ぎも大事だ」

「……勝負服、なのね」

父と私は顔を見合わせて、同時に苦笑い。


アルクのネックレスを首に下げた母は、玄関へ向かう。

「ねえ」と私は呼び止めた。

「もうすぐ夏休みなんだ」

「もうそんな時期か」

そう言う父は少し寂しそうにみえた

「それで?」

「私も行ってみたいの。異世界に」


母は少し考えてから、静かに笑った。

「いいよ」

「えっ、いいの!?」

「断る理由がないからな」


「ちょっと待て、それ大丈夫なのか?」と父。

「帰れなくなったら困るぞ」

「その時までに、コントロールできるようにする」

「……絶対だからね」

「任せろ、相棒」


母が右手を出す。私は戸惑いながらも左手を出して、こつんと拳を合わせた。

「これ、何?」

「さあ? なんとなく?」

母は笑う。いつもの笑顔。でも、どこか少しだけ凛として見えた。


「じゃあ……行ってきます!」


扉が開く。

外の空気は、夏の光をたっぷり含んでいた。麦わらの香り。遠くに見える畑。

――間違いない、異世界。


……ではなかった。

目の前に広がるのは、うちの庭。バジルの鉢植え。洗濯物。

現実の光景。


母がくるりと振り返って、笑った。

「帰り方、やっぱりわからない」


「ええええー!」


私と父は見事にズッコケた。



次回16.5話「不穏な匂い」に続くー

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