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母は、異世界で天下を取る   作者: 松本 蛇
ほのか 地球編②

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15/60

15日 良き風を

物語が動きだす前触れは、決まっていい匂いがした。


待ち合わせは京都駅ポルタ前。現れた新道ヒカルは、噂どおり“胡散臭い”。ぼさぼさ頭に無精ひげ。だぼっとしたロングTにジーンズ。なのに目だけは妙にまっすぐだ。


「えっと、新道ヒカルさんですよね?」



「うん。そっちは――手紙くれた親子?」


私ほのかと小さい母――千尋はぺこりと会釈。私は肘で母の脇を小突き、耳打ちする。


(怪しいから。財布と心は固く閉じて)


(了解だ。あとでパンケーキ食べたい)


(今それ違う!)


近くのカフェに入る。三人で窓際の席。コーヒーが来るまでの沈黙を破ったのは、ヒカルだった。


「俺の本、読んだんやって?」


「『異世界ユノリアの歩き方』。ええ、全部」



「感想は?」


「……レビューで★2の理由が、少しだけわかりました」


「正直でええやん。星減るたびに胃に穴あくけどな、こっちは」


ヒカルはカップを持ち上げ、ふう、と息を吐いた。


「元ネタはな、うちのじいさんの“旅話”。親族はホラや言うて笑ろてた。俺も信じてへんのやけど――話としてはおもろかった。せやから書いた。それだけや」


「お祖父さん、どんな人?」


「頑固やな。よう食て、よう笑う。死ぬ直前まで『風は西から』やらブツブツ言うてたな」


「“風”……」


小さい母がカップの縁を指でなぞる。ヒカルは肩をすくめた。


「信じてへんよ。でもな、遺言だけは守るて、じいさんと約束してん」


「遺言?」


「『いつか誰かが来る。そのとき渡せ』やて」


どこか照れくさそうに言い、ヒカルはメニューを開いた。


「店員さん! パンケーキ三枚。生クリーム増量で」


「さっきの話の重さと注文の軽さのギャップ!」


「別にええやんか。糖分は正義って言うやろ?」


届いたパンケーキを、千尋が嬉しそうに切り分ける。私はバターが溶ける様子を見て、ツッコミを忘れそうになる。


「本、売れてます?」と私は聞いた。


「びっくりするほど売れてへん。ネットで殴られ、実家では黒歴史扱い。まあ、どっちも慣れたけどな」


苦笑い。だけど目の奥の火は、消えていない。――この人、嘘はつかない。面倒だけど、筋は通ってる。


ゆるい空気のまま、時間だけが過ぎる。そのとき、ヒカルが何気ない調子で言った。


「そういえば――メールにあった“異世界帰りの主婦”って、どっちや?」


「私」千尋が手を挙げる。


「子どもやん」


ヒカルは片眉を上げ、少し身を乗り出した。


「ほな、名前は?」


「名前か? 千尋だ」


「シブいなぁ……まあええか。向こうでは――名前、違うてたりせえへん?」


「向こう、とは?」


「向こうや。異世界。……『アルク』って、言わへんか?」


「アルク?」


――空気が、変わった。


今の声、お母さんじゃない。


呼吸のリズムが変わった。背筋がすっと伸び、言葉の選び方が一拍だけ幼くなる。私の知っている「小さい母・千尋」は、いつも大人の間合いで家事の手つきをして、台詞の端に余裕があった。けれど、目の前の子は反射で身を乗り出して、まっすぐ問う。


「アルクを――知ってるの?」


胸の奥で、二つの像が二重写しになる。朝に味噌汁の味を整えてくれた“母”と、いま目を見開き身を乗り出している“少女”。同じなのに、力の入り方が違う。手首の角度、瞬きの間隔、語尾の軽さ――ぜんぶ、知らない。


ヒカルは首を振る。だが、声はさっきより少しだけ柔らかい。


「知らん。せやけど、じいさんの遺言に“その名”があったんや。『いつかアルクが現れる。会えたら、これを渡せ』ってな」


ポケットから小さな革袋。からん、と乾いた音。取り出されたのは、古びた銀のネックレス――風の紋様が細く彫り込まれている、ペンダントトップ付きだ。


「これ、は……」


少女の目が釘付けになる。無意識に手が伸びる。

それを見たヒカルが、すっと革袋を引いた。


「待った」


「……え?」


「これはじいさんの形見や。悪いけど、簡単には渡せん」


ヒカルの声は真剣だった。

「あんたが本物かどうか、俺にはわからん。ただの偶然かもしれへんしな」


もっともだ。私がヒカルさんの立場でもそうする。

けれど、少女――になっている母は、懇願するように身を乗り出した。


「お願い。触らせて。……それ、知ってる気がするの」


「知ってる?」


「私の……友達のものかもしれない」


その切実な声に、ヒカルは迷ったように眉を寄せ、ため息をついた。


「……触るだけやで」


ヒカルが革袋をテーブルに置く。

震える小さな指先が、銀の鎖に触れた。

――その瞬間だった。


カッ!


小さな電気が跳ねたなんてものじゃない。

フラッシュを焚いたような青白い光が、テーブルの上で弾けた。


「うおっ!?」

「きゃっ!」


ヒカルと私がのけぞる。

カフェの窓が閉まっているのに、突風が吹いた。


ナプキンが舞い、髪が乱れる。

そして風に混じって、どこか知らない花の、甘くやさしい香りが爆発的に広がった。


「な、なんやこれ……!」


ヒカルが目を見開く。

光が収まると、ネックレスは少女の指に絡みつくように巻き付いていた。

銀のくすみは消え、まるで新品のように脈打つような輝きを放っている。


「……あったかい」


少女は両手でネックレスを包み、胸元に押し当てた。

涙が、一雫だけ頬を伝う。


「……アルク」


それは演技なんかじゃできない、魂からの呼びかけだった。

ヒカルは呆然と口を開け、やがて脱力したように背もたれに体を預けた。


「……まいったな」


彼は天井を仰ぎ、乾いた笑いを漏らす。


「じいさんの言うてたこと、ホンマやったんか」

「あの……返します」


我に返った母が、慌ててネックレスを外そうとする。けれどヒカルは手を振って制した。


「ええわ。それはもう、俺のもんやない」


「でも……」


「見たらわかる。そのネックレスが『行きたい』言うとる」


ヒカルは優しい目で、少女を見た。


「あげるんちゃうで。“託す”んや。持ち主のところへ、連れてったってくれ」


少女は一度強く唇を噛み、それから深く頷いた。


「……わかった。必ず」

「頼むわ」


ヒカルは残ったコーヒーを飲み干し、窓の外を見た。


「……良き風を」


誰の口から漏れたのか、はっきりしない。

ただ、その言葉が合言葉のように、私たちの間にストンと落ちた。

日常は、まだこちら側にある。

でも、物語の扉は、たしかにこじ開けられた。

風の匂いが合図をくれるみたいに、ネックレスの紋様が、トクン、と心臓のように脈打った。


――次に吹く風は、どっちの世界からだろう。


次回16話「燃費」金曜日20:30更新


いつも読んでくれて有難う。

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新道ヒカルのイラストもあるので是非遊びに来てください。

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