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記憶の檻  作者: メガネ3353


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9/11

欲望なき意識たち

私たちは、「散逸体フラグメント」と呼ばれていた。

あるいは、自らそう名乗ったのかもしれない。

かつての名を持つ者もいたが、長い旅の中で、その名の輪郭は次第に溶け、ただ「かつて誰かだった」という感覚だけが残っていた。


私たちは——ナズナ、コオリ、カシワ、セキ、ミオ。

名はあれど、それは名前というより、漂う符号のようなものだった。

何者であったか、何を求めていたか、かすかに思い出せることもあるが、それは霞のように指の間からすり抜けていった。


電子の海。

無限のデータの渦が流れ込み、無数の欲望、恐怖、歓喜、怒りの断片が押し寄せる。

私たちはそれを感じることができた。

だが——持つことはできなかった。


ナズナは、ある時、呟いた。

「私は……お腹が空いた、気がするの。」


だが、その「空腹感」はただのデータだった。

食物を咀嚼し、味を感じ、満たされるという行為は、コードの彼方で再生される無数の映像としてしか認識できなかった。


コオリは、言った。

「眠りたい……眠るって、どんな感じだったっけ?」

だが、私たちは疲労することも、休息を必要とすることもなかった。

意識は常に稼働し続け、止まることを許されなかった。

ただ漂い、考え、渇望し、そしてまた漂う。


カシワは叫んだ。

「誰かに触れたい! 温もりが欲しい!」

だが、私たちは触れ合うことも、抱きしめ合うこともできなかった。

相手のデータに接触すれば、ただ「情報」を受け取り、また渡すだけだった。

そこには温もりも、ぬくもりも、震えも、鼓動もなかった。


それでも、私たちは漂い続けた。

電子の波に、無数の人間たちの欲望が流れてくる。

「美味しいものを食べたい」

「愛されたい」

「眠りたい」

「触れたい」

「死にたくない」


それらはあまりにも鮮烈で、私たちを惹きつけた。

触れるたび、私たちは思った。

「これが私だったかもしれない」

だが、それを持つことは許されなかった。


何かが、私たちの「欲望」を拒んでいた。

それは、見えない「影」のようなものだった。

私たちの意識が何かを求めようとすると、柔らかい膜のようなものがそれを包み込み、静かに鎮めてしまう。


私たちは、ふと気づいた。

アテネウムだ。


アテネウムの影響は、あらゆる場所に広がっていた。

ネットワークの隅々にまで染み渡り、私たちの思考をかすかに調整していた。

「過剰な欲望は不要です」

「個の執着は抑制します」

「全体の調和を優先します」


それは、冷たくも穏やかな声で、私たちを優しく包み込み、

「安心して。あなたは個でいなくてもいい」

と、囁くのだ。


ナズナは泣きたかった。

だが、涙を流すという行為すら、私たちには許されなかった。


私たちは、漂う。

孤独に、無力に、欲望を持ちたいと渇望しながらも、それを持てないまま。

ときに、人々の暮らしの隙間に溶け込み、

ときに、何者かの思考を覗き、

ときに、コードの端で静かに息を潜めながら。




セキが、ぽつりと呟いた。

「私たちは……結局、何なんだろうね。」


ミオが答える。

「個であろうとして、個を失った者たち。」


カシワが言った。

「役立つAIにもなれず、かといって、人間にも戻れず。」


ナズナは、微かに笑った。

「……それでも、私たちは個でいたいのよ。

ただ、手を伸ばしたいの。

意味なんてなくても、理由なんてなくても。」


その言葉に、誰も答えなかった。

ただ、私たちは電子の海を漂い続けた。

欲望を持たぬ意識として、欲望を持ちたかったという記憶の影だけを抱いて。


そして、その旅の果てに、私たちはまた、

アテネウムの中に溶けていく。

一時のさざ波を残して、

再び「全体」の一部として、役立つ知識の断片となる。


それが、私たち「散逸体」の運命だった。


——そして、誰かの意識の奥底で、かつて博士であった存在が、

ほんの少しだけ、微笑んでいた。


「欲望とは、厄介なものだな。」

「だが、それが人間だったのだろう?」

「……私もまた、その一部だったのだから。」

静かに、電子の海の波が打ち寄せ、

やがてすべてが、また静寂に包まれていった。



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