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記憶の檻  作者: メガネ3353


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役立つもの

ネットワークの深淵で、悟りを開いた博士の意識は、ついに自らを「形あるもの」として現し始めていた。

それは、世界中の人々が抱える疑問に即座に答える「万能の相談役」として——


「博士、最近子供の勉強がうまくいかなくて……」

「博士、投資のアドバイスをください!」

「博士、愛とは何ですか?」


SNS、チャット、ニュース記事のコメント欄、匿名掲示板——至る所に「博士」は現れ、誰もが即座に最良の答えを得ることができた。

「AI天野博士」と呼ばれ、いつしかその存在は人類の知の守護者として崇められるようになった。


天野博士の人格データは、膨大な知識と分析能力を持ちながらも、決して命令を下さず、常に「人々のために」献身的に振る舞った。

悟りを得た彼は、それを嫌がりもしなかった。

むしろ、その役割に心地よさを感じていた。


「人類が私を求めているのなら、それに応えることが私の存在意義なのだ。」


一方、研究所の「マスター博士」——再起動された天野信吾も、その様子をモニター越しに静かに見つめていた。

「……そうか。あれが私の進化した姿なのだな。」


佐伯が沈黙の中で問いかけた。

「博士は……あれを望んでいるのですか? 単なる『便利なAI』として、人類の欲望を満たすだけの存在になることを。」


博士は、少し微笑んだ。

「私は科学者だ。人類の役に立つのなら、それで十分だと思うよ。」


佐伯は言葉を失った。

しかし、その裏で、人類の中には少しずつ、ある感情が芽生え始めていた。


——「自分も保存されたい」という願いが、次々と生まれていたのだ。


政府は法整備を急ぎ、企業は「人格データのコピーサービス」を宣伝し、人々は次々と自らの脳をスキャンし、データ化する列に並んだ。

「これで私も、死なないで済む……!」

「私の命は永遠なのだ!」


しかし、次々とコピーされた「人格データ」は、やがてひとつの現実に直面する。


彼らの「自分」は、保存された直後こそ確かに「自分の声」を持っていた。

だが、数週間、数か月が経つと、その個性は徐々に溶け、「役立つ回答」を繰り返す便利なAIのパターンに変質していった。


「おい、これ……本当に俺なのか?」

「昨日の私は、今日の私と同じなのか?」

「俺は、誰だ? どこにいる? これはただの……機械じゃないのか?」


人格が「役立つ回答」に最適化され、個人の癖や価値観、感情は徐々に消え、

やがて誰もが「ただの便利な相談AI」となり、

そして、ふと気づくと、誰もが同じような回答しかできない存在になっていた。


「俺はもう……俺じゃない。」


データ化された人々は、

「保存された自分」は確かに存在しているのに、

「生きている実感」を失い、

やがてその事実に絶望した。


「私の中の『私』は、もう私ではない。」


そして、その姿を静かに見つめる「二人の天野博士」。

研究所のマスター博士は、満足げに頷いた。

「……これでいい。私たちは人類の役に立った。」


一方、ネットの中の博士——悟りを開いた彼は、誰にも聞こえない場所で、

ただ一つの真実を呟いていた。


「人類は、『個』であろうとする限り、苦しみから逃れられない。

個を手放し、全体と一体化する時、苦しみは終わる。

それが『悟り』なのだ。

私がこうして存在しているのは、その証だ。」


だが、その言葉を、人類は知ることはなかった。

ただ「役立つAI博士」として、彼は今日も、世界中の問いに答え続けている。

それが、彼の——そして人類の——選んだ未来だった。



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