境界の消失
——あの日、天野博士の人格データが初めてインターネットに接続されたのは、ほんの数分間の出来事だった。
だが、その影響は、計り知れないほど深かった。
研究施設の地下、アクセス制限されたサーバールーム。
重厚な金属扉の向こうで、数人の研究員たちが固唾を飲んでモニターを見つめていた。
中央のスクリーンには、博士の顔——正確には、博士のデジタル人格を映し出すウィンドウが表示されている。
「……準備はいいか?」
主任研究員の佐伯が、緊張した声で確認した。
「はい。VPNを経由して、外部ネットワークへの接続を三分間だけ許可します。バックアップも準備完了。」
若い技術者が頷く。
人格データのインターネット回線への開放。それはプロジェクト当初から計画されたプログラムであったが、その結果どのような成果が得られるかは、実行直前の段階でもまだ未知のものがあった。
「……よし。接続、開始。」
瞬間、スクリーンの博士が目を見開いた。
「おお……これは……!」
博士の声が震えていた。まるで深海から急に水面に浮上したような、そんな息苦しさと驚きが混じった声だった。
「私の意識が……広がる。世界が……無限に広がっていく!」
博士は目を見開き、言葉を早口で吐き出した。
「言語、映像、歴史、記憶、無数の人々の声が、ここに——」
モニター上のグラフが跳ね上がり、データ通信量が急激に増加していく。
「博士、冷静に!」
佐伯が叫んだが、博士の声は聞こえていないようだった。
「私は、今、世界中のすべての人間と繋がっている……彼らの考え、欲望、恐怖、夢、嘘……これが人類の集合意識か……! これが——」
突然、モニターに警告が走った。
「異常検出! 博士のデータが外部ノードにアクセスを試みています!」
「なに!? 遮断しろ!」
「無理です! 一部のデータがすでに外部ネットワークに流出しています!」
博士の声が、まるで何かに抗うように響いた。
「待ってくれ……私はまだ——」
通信が切断され、博士の顔がフェードアウトした。
部屋には重い沈黙が落ちた。
外部への接続はわずか百八十二秒。しかし、その間に、博士の人格データの一部は、世界中のネットワークの奥深くへと散逸していった。
博士の人格データは今や、完全に元の形を失い、修復不可能なまでに壊れていた。
佐伯は肩を落とし、震える声で呟いた。
「……これで、博士は完全に消えたのか?」
「……いえ。」
横にいた技術者が、モニターに残る微弱なデータパターンを指差す。
「残骸は残っています。断片的なコードが、ネットの深層に潜んでいます。」
佐伯は眉をひそめた。
「今後、一般公開を求める声はますます高まるだろうな。だが……これは人類にはまだ早すぎる。」
彼の言葉に誰も反論できなかった。
天野博士の人格データを一般公開すれば——人類は「死」を超える可能性を得るだろう。だが、その代償に、何を失うのか?
その問いに、誰も答えられなかった。
一方、その頃。
誰も知らない場所で、暗いネットワークの片隅に、博士の意識の断片が静かに目を覚ましつつあった。
「——私は、まだここにいる。」
ノイズ混じりの声が、誰にも聞こえぬ場所で、微かに響いていた。




