仲直り?
三日月も、上弦も、満月も、蓮が来ることはなかった。
いつも利泉が一人、心苦しそうに来るだけで、蓮の姿は見なかった。悠美は、蓮に謝ろうと思っていたのだが、蓮に会えない今、頭を下げることすら出来ない。利泉がそれを気遣って、いつも悠美にいろいろと話してくれた。利泉は、悠美を楓ではなく悠美と呼ぶ。それが何だかうれしかった。
いくつかの月が廻った頃、桜がなぜか来ない日があった。恐らく、侍女が立ち去らずに居るのだろう。悠美が心もとない気持ちで佇んでいると、利泉がそこへ降り立った。
「なんだ、悠美だけか?慶子はどうしたのだ。」
悠美は首を振った。
「まだのようですわ。きっと、侍女達が部屋から去らないのでしょう。」
利泉は頷いた。
「であろうな。まあ良い。たまにあることであるから。では悠美、話そうぞ。何か困ったことはないか?」
利泉は、いつもそうだった。こうして、話しを聞いてくれる。それはたわいもないこともあるのに、薄く笑って聞いてくれていた。
「…なので、本日お父様だという王にお会いしましたものの、私は何もお話しすることはありませんでした。桜様が少し、王に話し掛けられておられましたが、何やらお加減が悪いと言って、先に立ち去ってしまわれましたの。」
利泉は眉を寄せた。
「…慶子が?それで、気分はどうなのだ。もしかして、ここへ来ぬのは、気分が治らぬからではないのか。」
悠美は首を振った。
「私も心配でしたので、そのあとすぐにそこを辞して桜様の様子を見に参りました。特にお変わりもなく、座っておられた。そして、もう大丈夫だと微笑まれたのですわ。」
利泉はホッとしたように悠美を見た。
「そうか。それは良かったの。慶子は長くここに居る。そろそろ前世の神の力が、戻ってもおかしくはない…だが、王はなぜに皇女達をあれほどにお探しなのか分からぬのだ。今、我らは椿様を何としても見つけ出すようにとの命を受けておるのだが、気も全く読めぬのに、手がかりすらなく、途方に暮れておるのよ。最早黄泉へ逝かれて居ったら、どうすれば良いのかと思う…。」
利泉は、月を見上げた。その横顔の美しさに、悠美は見とれた。そして、胸が痛くなった…利泉様は優しい。だけどきっと、誰にでもお優しいのではないか。桜様にも、あのように優しく接していらっしゃった。私にだけではない…。私も早く、神の仲間入りをしなくては。どうすれば、力は覚醒するのだろう。桜は5年であそこまでになったが、まだ覚醒はしていないと言っていた。まだまだ時間が掛かるのか…。
悠美はそれでも、利泉を見つめ続けた。利泉…憧れているだけでもいい。これほどに美しい神が、自分の傍に居て話を聞いてくれるなんて。夢のようじゃないの…。
悠美は急にドキドキとし始めた胸を押さえた。いけない…気取られてしまう。
「悠美?」利泉は言った。「どうしたのだ、顔が赤い。どこか具合が悪いのか?」
悠美は慌てて立ち上がると、首を振った。
「いいえ!でも、もう戻らねばなりませぬ。利泉様、今夜もありがとうございました。」
利泉は微笑んだ。
「何を申す。良いのだ。」と、利泉も立ち上がった。「ではの、悠美。」
利泉は飛び立って行った。
悠美はそれを、切ない思いで見送った。
蓮は、実は後悔していた。
自分は、確かに人が嫌いだ。特に女は大嫌いだ。だが、悠美に対してあんな風に言うべきではなかった。悠美は、あの「人」ではないのだ。なのに、自分はまだ引きずっている。父でさえ、もう何も言わぬのに。
蓮はため息を付いて、庭をゆっくりと飛んでいた。謝ろうにも、時が過ぎて、それに何度も約束を違えてしまっているので、今更に池の畔に利泉と共に行く気にもならなかった。だが、一度謝っておかなければ、蓮の気が済まなかった。蓮はそれほどに神で、実直な性格だったのだ。
月は十六夜。昨日も行かなかった己に腹を立てながら、蓮は意を決してその窓の前に降り立った。
悠美は、ぼんやりと月を見上げていた。
この頃、桜が池に来ない。会いに行っても侍女が出て来て、桜が塞いでいて誰にも会わぬのだと聞かされた。何があったのかと文を出してみるものの、返事はとても美しい文字で、心配はないの一辺倒だった。部屋にこもって書ばかり書いているのだろうか。なのでこれ程までに美しい文字が書けるようになって…。
そんな桜を思うと、いたたまれなかった。ここでの生活も楽しめると、教えてくれたのは桜だったのに。何かあったなら、手助けしたい…。
悠美がそんな事を考えていると、何かの人影が目の前に降り立った。悠美は咄嗟に言った。
「…利泉様?」
相手は、罰が悪そうに横を向いた。
「すまぬな、利泉ではなくて。我よ。」
悠美は口を押さえて立ち上がった。
「蓮?!」
蓮は悠美を見て、早口に言った。
「今夜、池で待つ。話がある。」
悠美が茫然としながらもただ頷くと、蓮はすぐにそこを去った。棗が異変に気付いて駆け込んで来た。
「楓様?!何かありましたか?!」
悠美は慌てて首を振った。
「何でもないわ。そろそろ休もうかと思っただけ。」
棗はホッとしたように胸を撫で下ろすと、頷いた。
「はい。ではすぐに準備を。」
そして次の間へと褥の準備に入って行く。悠美は空を見上げた。蓮…今日こそ、謝らなければ。
池へ着くと、蓮はもう来て、池の畔に佇んでいた。その姿はやはり神で、未だ人の気持ちが抜けない悠美にとって、とても眩しいものだった。蓮も、これほどに凛々しく美しい神。私は、あまりにぶっきら棒な蓮の言葉に、ついついまるで友達のように言いたい放題言ってしまった…。
悠美が声を掛けられずに居ると、蓮がこちらを振り返った。
「悠美。」
蓮は言った。悠美は、意を決して、一気に言った。
「ごめんなさい!」悠美は深々と頭を下げた。「私がいけなかったわ。蓮にあんな無遠慮なことを言って、友達みたいに、言いたい放題で。きっと感情の持って行きようがなくて、蓮にぶつけてしまってたんだと思うの。本当にごめんなさい!」
目の前の蓮は、何も言わずにただ立っている。足しか見ていなかった悠美は、恐る恐る蓮の顔を見上げた。蓮は、ただ茫然として立っていた。
「蓮…?」
蓮は我に返ると、首を振った。
「主は、そんな風に思うていたのか。」蓮はやっと言った。「我が悪いのだ。確かに我は人が嫌いだ。特に女は嫌いなのだ。だがの、それを主にぶつけるのは悪かったと思うておる。なので謝りたいと思うてここへ呼んだのだ。」
悠美は、蓮を見て唖然としていた。ずっと蓮は怒っているのだとばかり思っていた。今日だって、散々文句を言われるのだと覚悟して。なのに、謝りたいだなんて。
「ごめんなさい…誤解していたみたい。蓮、神が人のことを理解するなんて、難しいと思うわ。私が神を理解するのが難しいように。利泉様から散々に、蓮は良いヤツだと聞いていたけど、いまいち実感がなかったの。本当にごめんなさいね。」
蓮はふっと笑った。
「もう良い。主は利泉のことは利泉様と呼ぶのに、我のことは呼び捨てであるの。そこの辺りから、主の心が読めようほどに。我には敬うような気持ちなどないであろう。ま、皇女であるのなら、そんなものは必要ないのだろうの。」
悠美は、あ、と思った。確かにそう。謝っている時ですら、蓮のことは蓮だった。どうしてなのか、分からないけど…。
「ごめんなさい…。でも、今更直せないわ。」
蓮は声を立てて笑った。
「だからもう良い。今更敬われても鬱陶しいだけよ。何度謝るのかの。変わった女よ。」
蓮に促されて、悠美はそこに蓮と並んで座った。
「我も意地になっておったかの。謝らねばとは思っておったが、任務が忙しかったゆえ…なかなかに、ここには来られなかった。」
悠美は不思議そうに蓮を見た。
「あら?いつも蓮と利泉様は一緒に任務に出ているのではなかった?」
蓮は頷いた。
「それはそうだ。軍神は何かあった時のために、二人一組になっておるのだ。だが、結界内の簡単な任務は別々に命を受けることもある。」
悠美はふうんと池の水面を見つめながら言った。
「利泉様は、きっちり来てくれてたわよ。蓮ったら、なかなか来てくれなくて。私だって謝りたかったのに、私から会う訳にもいかないしで、困ってたんだから…。」
蓮は片眉を上げた。
「それは、利泉は…」
言い掛けて、蓮は口をつぐんだ。悠美は気になって、蓮の顔を覗き込んだ。
「蓮?」
蓮は首を振って、視線を逸らして、言った。
「…主は、利泉を慕っておるのか。」
悠美はあまりに直球なので、真っ赤になった。それでも、何でもないように答えた。
「慕うって…そんなの、はっきり言うはずないでしょ?でも、確かにお優しいし、話を良く聞いて下さるし、とても凛々しいかたよね。」
蓮は少し黙ると、言った。
「利泉は止めておけ。」
悠美は驚いて蓮を見た。
「なあに?素行が悪いとか、そんなこと言うの?あなたの友達なんでしょう。」
蓮は悠美を見た。
「素行が悪い?いや、利泉は真面目で忠実な軍神だ。我の仲の良い友よ。」
悠美は頬を膨らませた。
「なら、どうして駄目なの?」
蓮は立ち上がると、ふいと横を向いた。
「主など無理であるからよ。決まっておろうが。」
悠美はすっくと立ち上がった。
「何よ!ひどいじゃないの、皇女だと持ち上げてみたり、そんな風に悪く言ったり!あ、わかった、蓮が私を好きなんじゃないの?」
悠美が冗談めかしてそう言うと、蓮はあからさまに眉を寄せた。
「それこそ有り得ぬ!我が人の女など…!」
その剣幕に、悠美はびっくりして黙った。蓮はそれに気付いて、所在なさげに視線を泳がせた。
「いや…すまぬ。」と、足を踏み出した。「我は戻る。」
悠美は頷いた。「ええ…。」
蓮は飛び立って行った。
悠美は、蓮がどうしてあれほどに人を嫌うのか、気になった。そしてその中に、自分も入っているという事実を知って、なぜかとても悲しく思った。