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覚醒

悠美がここへ来てからもう、半年が過ぎようとしていた。

人の世はどうなっているだろう。父と母がどれほどに心配していることか。聡子先生はどうしているだろう…。

そんな事を思いながら褥に入ると、悠美は、その夜、夢を見た。

人の世で、悠美の部屋の壊れされた鍵と開け放たれた窓を見て呆然と立ちすくむ父、その隣で泣き崩れる母、そして、知らせに倒れるほどに驚く聡子と、それを抱える慎…。ニュースを見て涙を流す、職場のパートさん達。

悠美は必死に叫んだ。大丈夫よ!私は無事よ!生きて、ここに居るのよ…皆にかしずかれて、でも、窮屈な世界に…。

悠美は、ハッとして目を開けた。朝の光が差し込んでいる。

夢…。

悠美はしかし、それが夢ではないような気がしていた。自分は最近、いろんなものが見えるようになって来ている。あれだけ感じ取れなかった、神々の「気」を、感じ取れるようになった。軍神達の気は強く、召使い達は弱い。王は誰よりも強く大きな気を持っていて、悠美の身にびりびりと痛いほどだった。

悠美は、夢の余韻に眩暈を覚えながら、起き上がった。それを感じた侍女が、頭を下げて入って来る。

「楓様、お目覚めですか。お手水のご準備が出来ておりまする。」

神の世には水道がないので、大きな水差しを抱えた侍女達が、目の前のテーブルに置かれた洗面器に水を入れてくれる。悠美はそれで顔を洗い、侍女が捧げ持つ布で顔を拭くと、いつものように鏡の前に座った。

「今日はどのようにお結いしましょうか。」

悠美は慣れたように答えた。

「いつもの通りでいいわ。」そう答えて侍女を見ると、侍女が悠美を見て固まっている。悠美は何事かと侍女を見た。「何?どうしたの?」

目でも腫れてるのかしら、と鏡を見た悠美は絶句した。

鏡の向こうから自分を見つめるその瞳は、ブルーグレイだったのだ。


悠美は、その日は一日中部屋に居た。

ついにこの日が来てしまった。これで、自分は人の世に帰っても、誰にも分からない…悠美なのだと必死に言っても、きっと、気がふれた人かなんかだと思われて…。いえそれ以前に、人にはもはや自分の姿は見えないのかもしれない。あれほどに神に近付きたいと思っていたのに、悠美はそう思うとつらかった。

悠美の瞳が父王と同じ色に変わったことで、侍女達は間違いなく楓の生まれ変わりだと喜んだ。顔立ちも幾分スッキリと、肌はまるで一皮むけたかのように透き通るようで、髪は絹のような手触りの真っ直ぐな黒髪だった。

それでも、それは悠美だった。元の姿は残しているものの、神に変化した…。そんな感じだった。

悠美が塞いでいると、棗が言った。

「楓様…これで間違いなく王のお子の生まれ変わり。桜様と同様、こちらで堂々とお過ごし頂けば良いのですよ。」

悠美は、顔を上げなかった。そんなことではない。こんな姿になって、もう人に戻れない現実を突き付けられて、つらかったのだ。自分で見ても、これは神。最早あの自分ではないのだ。

「…棗。今日は放って置いて。明日には元に戻るから、明日の朝まで放って置いて頂戴。」

棗は、戸惑いながら、そっと部屋を出て行った。自分の部屋に侍女達の「気」がなくなり、皆居なくなったのを知ると、悠美はそのまま泣いた。もう戻れない…。神になってしまった…!

そしてそうやって泣いている姿さえ、悠美は美しかった。


宮では、悠美の覚醒が始まったと皆が色めき立っていた。しかし、王の怜は眉をひそめた。

「あれは覚醒が早い…一番我に似ておったゆえ。しかし、椿が居らぬ。桜が覚醒を己の力で抑えつけておる今、椿を探し出さねばならぬ。何としても、二人は居らねばならぬのだ。」

傍に控えた明進が顔を上げた。

「王…しかし、椿様は全くもって掻き消えたかのように気がなくなっておられて…何か手がかりでもございますれば。」

怜は大股に居間の中を歩き回った。

「あれば先に申しておるわ。龍王が出て来なんだら、ここまでこじれはせなんだものを。」

怜は、黙って下を向いた。龍王…神々の王を統べる力を持つ、強大な気を持つ神世最大の宮の王。命を司り、普段は人型で居るが、龍身を持つ。龍身になれば、世を滅ぼすほどの力を放つことが出来ると言われていた。椿の失踪の折、なぜか龍王が出て来たと怜は言う。しかし、龍王は滅多な事では宮を出ない王。なぜに、この一介の宮の皇女如きを…龍王は妃を一人も娶らぬことで有名な王。そのような理由でさらったとも思えぬ…。

「では、龍の宮へ、椿様のことをお問い合わせ致しまするか。」

怜は勢いよく振り返ったかと思うと、物凄い形相で明進を睨んだ。

「何を申す!そのようなことをしてみよ、主の首、叩き斬ってやるわ!」

明進は頭を下げた。

「は!申し訳ございませぬ。」

怜はまた、歩き回り始めた。何か手はあるはず。楓が覚醒する…桜。椿が居らぬなら、やはり桜を覚醒させねばならぬ!


そんな水面下の騒ぎには気付かず、悠美は月の出た庭へと、ふらふらと歩み出た。月はどの世にも昇る…でも、もう一度でいいから、人の世の月が見たいなあ…。

悠美は、ぽろぽろと涙を流した。お父さんとお母さんが、とても心配して待っているのに。聡子先生にも、山下さんにも会いたい。何だか今になって、前の会社すらも訪ねてみたいと思う…何が辛かったのだろう。

悠美がひたすらに涙を流していると、頭上から声が降って来た。

「…何を泣いておるのだ。」

悠美は、その声と気に、それが蓮だと見上げる前に知っていた。もはや驚くこともなく、悠美は涙に濡れた目で蓮を見上げた。

「蓮…。」

蓮は息を飲んだ。悠美は、驚くほどに美しくなっていた。その姿は悠美には違いないのに、何が変わったのか、とにかくその気の色に、蓮は圧倒されたのだ。前世の楓様とは、ここまで美しく、慕わしい気を持つ皇女であったのか。そして、崖から落ちて若くして亡くなったと。

蓮は、悠美の前に戸惑いがちに降り立った。

「悠美、そのように泣くのではない。侍女達が、覚醒されそうであるのに、部屋に篭って出て来られないと心配しておった…皆が主を案じておるのだ。」

悠美は頷いた。

「わかっているのよ。でも、私はやっぱり人で居たかったの…なぜだか分からないけど、とても辛いと思っていた人の世が、実はとても幸せだったのだと思えてならないの。本当になぜなのか分からないのだけれど…蓮、私、不安でならないのよ。」

悠美は、蓮の胸に寄り添って声を上げて泣いた。蓮はびっくりした顔をしたが、悠美の背を優しく叩いた。

「悠美…。」

帰りたいのか、人の世に。蓮は、悠美を見つけてしまったことを後悔した。なぜ、あの時声を掛けてしまったのか。あのまま、あの門をくぐらせて帰らせればよかったのではないのか。あの視線に、気付かぬふりをしたならば、悠美はまだ人の世で暮らしていたのではなかったか。

慶子は、なぜか己を覚醒させまいと必死に戦っているらしい。寝込んでしまっているのだと聞く。しかしそれも、王が覚醒させると決めたからには、そう長くは続かぬはず。一体王は、何を考えておられる。皆が言っている…皇女達には、自然に覚醒して頂けば良いのではないかと。なのに、なぜ王はあれほどに急がれる。椿様は、なぜに宮を出ようと命を懸けられたのか。一体何が、皇女達にあるのか…。


それからしばらく、悠美はずっと蓮の胸にすがって泣いていた。とてもぶっきらぼうで怖いはずの蓮が、何も言わずに側に居てくれる。

悠美はいつしか落ち着いて、そっと蓮を見上げた。

「蓮…ありがとう。私なんかのために、こうして時間を取ってくれて。」

蓮は首を振った。

「構わぬ。主は人として生きておった…辛いのも、道理よの。」

悠美は思いもかけず蓮が優しいので、また涙が浮かんで来た。蓮は慌てた顔をした。

「何を泣く。我はまた、何か気に障る事を申したのか。」

悠美は涙を拭いながら、微笑んで首を振った。

「違うの。蓮が柄にもなく優しいから、ちょっと驚いただけ。」

蓮はわざと怒ったような顔をした。

「何を申す。口が減らぬ女よの。」

悠美は、少し蓮から離れた。

「ごめんなさい…蓮は私が嫌いなのに。」

蓮は驚いたような顔をした。

「…主が?そのようなこと…」と言い掛けて、ため息を付いた。「そうであるな。主がそう思っても、仕方があるまい。悠美、話そうぞ。我がなぜにこのような偏見を持ってしまったのか。主には知る権利があろう。」

悠美は、息を飲んだ。蓮が、自分のことを話してくれるという。

二人は、いつもの池の畔へと歩いて行って、そこに座り、蓮は口を開いた。

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