父王
怜は、悠美に歩み寄った。悠美は慌てて頭を下げた。父だとはいうものの、王とは全く話をしたことがない。当然のことながら、こうして訪ねて来ることなど、今まで一度もなかった。
怜は言った。
「表を上げよ。」怜は低い声で言った。「主はもう下がれ。」
棗は命じられて、気遣わしげに悠美を見たが、黙って宮の中へと戻って行った。この宮の中で、王の命に逆らえる者など居ない。悠美は急に緊張して、かつての父を見た。いつも、思っていた。この、こちらを圧迫するような気はなんだろう。なぜかいつも怖いと感じた…それが、今はより一層強い。
怜は言った。
「また、すごい数を咲かせたものよの。」と回りの花を見て言った。「主は昔からそうだった。他の姉達が遠慮してあまり力を使わないにも関わらず、主はお構いなしにあっちこっちに花を咲かせて回って。訓練場が花畑になっておった時には、軍神達が総出で抜いて回ったものよ。」
悠美は赤くなって俯いた。覚えていないけど、かなりはた迷惑なことをしていたらしい。それに、今の自分でもやりそうだと思った。
「それは…ご迷惑をお掛けしておりましたのね。」
怜は少し表情を緩めたようだったが、次の瞬間、またあの暗い目の色になった。
「…次の新月の夜、儀式があっての。桜と主は北の社へ参らねばならぬ。我も参るが、王家に伝わることゆえ、公には出来ぬ。数人の軍神のみを連れて参ることになる。」
悠美は頷いた。
「はい。」
何のことか分からないが、何か古くから伝わるものなのかしら。悠美がそう思っていると、怜は続けた。
「主は、前世の記憶がまだ戻らぬのか。」
悠美は首を振った。
「はい。全く覚えがございませぬ…申し訳ございません。」
怜は頷いた。
「それで良い。桜も楓も、いつになったら記憶を戻すのかと軍神達に命じてずっと見させておったが、その兆候はないようだの。それならそれで良いのだ。」
悠美は驚いて顔を上げた。軍神達に命じてと言った…それは、蓮と利泉様?
「それは…私をこちらへ連れて参った軍神達でありましょうか。」
怜はなぜそんなことを聞く、と言った風情で悠美を見た。
「そうだ。あれらは主らを見つけて、後を監視することが任務であった。もうその必要はないゆえ、その任は離れたがの。」
悠美はその場に固まった。では…利泉様が月の満ち欠けに合わせて私達に会ってくださっていたのは、任務だったからだというの。蓮…蓮も、私を監視するために、あれほど頻繁にここを訪ねていたというの。
そう言えば、こんな奥の庭に、簡単に入って来られる訳はなかった。皇女は守られていて、略奪の世である神の世では、滅多に表に出されることもない。唯一外に出ることが出来る宮の奥庭に、軍神達が忍んで来れるはずはなかったのだ。
では、蓮はもう来ない。その任務は、終わったのだ。他ならぬ、命じた父王がそう言っている。悠美は込み上げて来る涙を悟られないよう、じっと下を向いた。怜は言った。
「では、新月の日にの。主の力がここまで戻って参って安堵したことよ。記憶が戻れば、力は完全に戻る。しかし、それは新月の日で良い。」
父王は、そう言うとそこを去って行った。
それを見送って、悠美は急いで自分の部屋へ駆け込んだ。蓮は嘘はついていない。ただ、言わなかっただけ。ここには、監視の命で来ていると…。
自分の気持ちを知ったそのすぐ後に突き付けられた事実に、悠美は寝台に飛び込んで泣いた。
始めから分かっていたことじゃない。蓮は人なんて愛さない。神になったとはいえ、私は人だったような神。蓮に特別な気持ちなんて、湧くはずがないじゃない…!
「楓様…。」
いつの間にか入って来ていた棗の手が、気遣わしげに悠美の頭を撫でた。悠美は棗を見て、言った。
「棗…!あれは任務だったのよ。蓮は、ここへお父様の命で来ていたの。暇つぶしでも何でもなかった…!あれは、蓮の任務だったの…!」
棗の胸に飛び込むと、棗は悠美を抱き締めて言った。
「もしかして、とは思うておりました。こんな所まで入って来られる者など、滅多におりませぬゆえ。ですが楓様、きっと、全てが任務ではなかったと棗は思いますよ。そのようにお嘆きになられずに…。」
悠美は顔を上げると、涙を拭いた。
「…いいの。私が一方的に勘違いしていただけだもの。こんな風に思うことすら、間違っているのに。」悠美は苦労して起き上がって座ると、気持ちを戻そうと言った。「それに…新月の日、北の社へ何かの儀式で行くのだとお父様は言っていらしたわ。桜様も連れて…でも、あんな状態の桜様が、儀式に出れるのかしら…。」
棗は、ピタリと動作を止めた。目を見開いている。悠美は棗の様子に慌てて顔を覗き込んだ。
「棗、どうしたの?」
棗は、悠美の手を痛いほど握り締めた。
「新月…北の社と、王はおっしゃったのでありまするか。」
悠美はびっくりして頷いた。棗が今まで見たことがないほど緊張していたからだ。
「ええ、そうよ。」
棗は言葉を続けられないようで、そのまま黙ってしまった。
悠美には訳が分からなかったが、棗はそれから、何を聞いてもろくに答えてはくれなかった。
蓮は、あれから何度か奥の庭へ入ろうと試みたが、やはりもう侵入することは無理だった。王の結界が奥の庭にはある。それが、阻んでいるのだ。
蓮は、利泉の任務の手伝いであると思いながら通っていたつもりだった。だが、今の自分が悠美に会いたいと思っているのも偽りのない心。あの気取りのない屈託のない笑顔を見ていると、こちらも知らずに笑顔になった。最初は人の女と敬遠していた悠美であったのに、毎日のように訪れ、話しているうちに、その考え方や性質に、強く惹かれて行ったのだ。
このままでは、兄上と同じ。
蓮は自嘲気味に笑った。兄上はそれを望むまい。我は同じ轍は踏まぬと、あの折己に約した。椿様が楓様になっただけのこと。悠美は人だったのだ。信用して、愛してはならぬ…。
蓮は、奥の庭に背を向けた。任務以外では、もう決して会うまい。さすれば忘れてしまおうほどに。
蓮はそう自分に言い聞かせながらも、胸の奥から何かの感情が突き上げて来て、視界が霞むのを止められなかった。
悠美は、鬱々となりがちな自分を無理に奮い立たせて、蓮を振りきるように毎日を自分の持つ力の研究に明け暮れた。
どうやら自分の力は、花を咲かせる他に、虫を生き返らせたり、動物の怪我を治したり出来るようだった。
侍女が誤って手を怪我した時も、それをたちどころに治す事が出来た。他の神と同様に飛ぶことも出来た。が、そんなに速くは無理だった。
その能力を役立てるために、棗に付き添われて治癒の対へ出掛けることも少なくなかった。自分の神の能力が、思ったより他の神を助けることが出来るのを知って、悠美は嬉しかった。
そうやって自分の能力を知る事に夢中になってはいたが、夜の庭に浮かんでいると、同じように浮いていた蓮を思い出した。
蓮にとっては命じられて仕方なくのことであっても、悠美にとっては暖かい記憶だった。辛い時、一緒に居てくれた。あのとき話したことは真実で、嘘はなかった。今思えば蓮が最初に利泉を好きになることに反対したのも、あの任務を知っていたからなのだ。蓮にしてみれば、まさか自分を想うようになるなんて、思いもしないことだったのだろう。
悠美は、ため息を付いた。それでも、好きなのだから。私は、蓮に想ってもらえなくてもいい。ただ、好きでいたい。こんなにも好きになったのは、人の頃でもなかった。心の中に慕わしい男の人が居るなんて、幸せなこと。
いや、人でなく、神ね。
悠美は浮かんで来る涙を抑えながら、月に願った。
どうか、一目でもいいから、また蓮に会えますように…。




