第1巻 第2章 死の森のインテリアコーディネート(3)
死の森に夜が落ちると、景色は急に深さを増す。昼のあいだ梢の隙間から斜めに差し込んでいた薄金の光は糸のようにほどけ、木々はさらに膨らみ、枝は骨の指みたいに絡み合う。湿った落葉の下で甲殻が擦れる。沼の縁では緑青の燐がぼうっと脈を打つ。遠くで喉が鳴り、近くで何かが這う。空気の温度が下がり、匂いは土と鉄に寄る。
その闇のただ中に、異様な澄みがある。
星屑を溶かした硝子の半球のようなものが地に伏せられ、その内側は別の季節に切り取られたかのようだ。白砂の小径は月光に淡く光り、銀葉の樹が等間隔に並び、池には空より端正な星が浮かぶ。花壇には季節の理を無視した白薔薇と瑠璃の勿忘草。花弁は欠けず、葉の先に余計な露もない。風は香りだけを揺らし、音は選ばれたものだけが許される。
その境界は、アレスの結界。
防御より先に、風景として整えられた場。余分を許さない意志が漂う庭だった。
「……右の白薔薇、三分だけ開きすぎているな」
池の縁でアレスが声を落とす。銀の髪が夜風に揺れず、指先で軽く押さえられる。瞳は星を拾って冷たく澄む。手にした細い銀杖の先から蜘蛛糸ほどの光が伸び、花弁の角度をそっと戻した。
「今日の月は少し高い。池面の反射が右に寄る」
「アレス様は、今夜は水先から整えられるのですね?」
「光は角度が命だ。薔薇の開きと池の面が、互いに邪魔をしない位置を取る」
背後でエララが頬に指を添え、嬉しげに息を吸う。夜を流したような髪、真珠めいた角、黄金の縦の孔。白いドレスが結界の内の風にふわりと触れ、足取りは獣の静かさを持つ。口元は微笑の形にあり、目だけが飢えを隠さない。
「見惚れてしまいます。世界で一番、清らかな角度ですもの」
「清らかかは知らない。あるべき形に近づけているだけだ」
アレスの声は平板だが、言葉の縁には微かな熱がある。
「放っておけば、枝は勝手に伸び、花は無遠慮に散る。水は風に揺らぎたがる。だから命じる。そこに在れ、と。無遠慮な波形は、外へ出す」
「命じる者が美を支えるのですね」
「支えるというより、余計なものを退ける。手を入れなければ、すぐ汚れる」
「はい。すべて、アレス様のご判断で」
エララのまぶたがとろける。彼が息をするだけで世界は続く、そんな確信が胸に甘く広がる。彼が眉を寄せるなら、空も海も要らない。彼の庭に影を落とすものなど、存在自体お断りだ。
透明な半球の端に、薄い銀線が走った。
「……外周に反応。小型か。いや、複数だな」
彼の眉がわずかに動く。その音のない波紋を、エララの瞳孔が細くなって合図に変える。皮膚の下で鱗の気配が立ち上がる。喉の奥から低い唸りが上がりかけ、彼女はそれを甘い息に溶かした。
アレスの視線は薔薇にある。外の汚濁を一瞬で塵にもできる力を持ちながら、彼はそうしない。血が飛べば乱れる。腐臭が流れ込めば台無しだ。ならば、やることはひとつ。
手を汚すのは、わたし。
「少し失礼します」
エララが振り返る。微笑は淑やかで、声も侍女のそれ。
「お茶の支度を見てまいります。今夜は冷えが強いから、薔薇蜜をひと匙増やしますね?」
「ああ。カップは白磁の細口だ。昨日の青磁は月光を鈍らせる」
「承知いたしました。アレス様のお夜に鈍いものは似合わないでしょう」
最後のひと呼吸だけ、温度が落ちる。それに気づくかどうか、アレスは薔薇の角度に意識を添えたまま。
葡萄棚の影に身を入れた瞬間、エララの口元が弧を別の形に変える。白い犬歯が月に光る。
「……来たのね」
囁きは甘く、滴るほど。
「アレス様の庭に。アレス様の空気に。アレス様が整えた境界に」
結界は彼女に細い道を開いたわけではない。エララは竜の血に刻まれた跳躍で、硝子膜の外へ滑る。膜を抜ける瞬間、振り返って庭を一瞥。凛とした横顔、真っ直ぐな背、薔薇に向けられた眼差し――それらが自分以外に向くことすら本当は許容し難い。それでも、薔薇も星も水も、彼の風景である限り、置くことにする。
森の空気は重たい。泥の匂い、腐葉土の湿り、瘴気のざらつく冷たさが肌を舐める。人なら数呼吸で倒れる濃さだが、竜姫は面倒そうに鼻先で払う。
歪んだ木々は牙のように枝を突き出し、黒い蔓が脈を打ちながら岩に絡み、月の光は裂かれて地面に落ちる頃には腐った銀色の斑になる。足元に白骨、黒い蟻の群れ。
闇の奥で気配が集まる。
馬ほどの狼に似た魔物が三。背に棘。口から青い涎。後方に腕の長い猿の影が二。地を這う甲虫が一。小型と呼ぶには大きく、愚劣と呼ぶには目が飢えすぎている。
彼らは結界に惹かれる。清浄な魔力、水、花の生命。焼かれると知りつつ、視線が離れない。
狼の一体が硝子膜へ鼻先を伸ばした瞬間、エララが動く。
踏み込みの音はない。落葉が沈み、枝が身を引く。白い裾がふわり。次の瞬間、狼の首が不自然な角度で止まる。
細い指が頸椎を摘む。乾いた枝を折るような軽さで、命の根が断たれる。狼は声もなく崩れ、青い涎が落ち葉を焦がした。
「しっ」
唇に指を当てる。
「だめ。大きな声は困るの。気づかれたら、台無しでしょう?」
残りの魔物の眼が揃って動く。飢えが恐怖に変わるまで半呼吸。けれど逃走には遅い。
エララの背から影が裂ける。大きな翼ではない。刃のように薄く鋭い膜が広がり、縁が淡い紅で線を描く。彼女は舞踏会の姫のように手を差し出す。
「ねえ、何を見ていたの?」
答えはない。構わず続ける。
「アレス様の結界? 薔薇? 池の星? ……どうして見たのかな。誰に許しをもらったのかしら」
棘背の狼が唸り、跳ぶ。軌道を見もしない右手が横に払われ、伸びた爪が空気に細い音を走らせる。体は空中で二つに断たれ、別の方向へ落ちた。
血が弧を描く前に、左手が上がる。紅が固く絞られ、血を音も匂いもなく蒸す。焦げの気配は一瞬で湿りに吸われる。残るのは灰と形を失った塊のみ。
エララは冷めた目で見下ろす。
「見苦しい」
命を奪ったことへの感慨はない。侍女が泥を見つけた時の不快に似た響きだけ。
「アレス様の景色のすぐそばで、その色はやめてほしいもの」
猿の影が二体、上へ逃れる。長すぎる腕、鉤爪。枝から枝へ。甲高い警戒音が結界へ流れそうになった瞬間、エララの顔から表情が落ちる。
舌は鳴らさない。音を嫌うから。
次の瞬間、姿が消える――ように見える。竜の脚で地を蹴り、幹を踏み、夜気そのものを踏み台にして背後に回る。黒髪が遅れて流れ、一本ずつの線に月光が沿う。
「うるさい」
囁きとともに掌底が顎を打ち抜く。牙と骨が内側へ押し込まれ、声が途切れ、そのまま落ちる。落下の前に白い尾が現れ、鞭のようにしなり、幹へ叩きつけた。湿った音。幹が震え、葉が数枚離れる。
彼女は散った葉を目で拾う。
「葉まで……いや、これ、森の葉ね。なら構わない。庭のものじゃないもの」
もう一体は恐慌。枝を掴む手が滑り、細い悲鳴が漏れる。生き物の声。エララは首をかしげた。
「どうしてそっちが怯えるの?」
本当に不思議そうに。
「あなたたち、近づいたでしょう。アレス様へ。アレス様の世界へ。それなら、こうなる以外ないのに。わたしでさえ、まばたきを見逃さないよう息を潜めているの。佇まいを乱さないように爪も炎も匂いも隠しているのに。どうして、何の覚悟もなく入り込めると思ったの?」
猿の影が跳ぶ。爪がその軌道を追い、喉を取って枝へ静かに押しつける。顔を近づけ、黄金の目で濁りを覗く。理解を求める優しさはない。恐怖の色を確かめ、それを甘く飲み込むための丁寧さだ。
「見たわね。結界。綺麗だったでしょう。ため息が出るくらい。……でもだめ。その目には似合わないから」
指に力が行く。軋む音を翼で包み、夜に落とさない。痙攣が止まり、力が抜ける。死骸を枝から下ろし、汚れた布を扱うように地へ置く。置く場所は太い根の影。彼の視界の線を想像し、一厘でも入る恐れのある場所には痕を残さない。
最後の甲虫が土へ潜ろうと蠢く。黒光りの殻、八本の脚、鋸の口。泥を掻き飛ばし、粒が結界のそばへ跳ねる。
エララの顔がはっきり歪む。
「泥を」
低く。
「飛ばしたのね」
甲虫は危険を嗅ぎ取り殻を丸める。硬質の防御。普通の刃なら欠けるだろう。エララは刃を持たない。ゆっくり近づき、片足を上げる。白い靴底が月を返す。
「この靴ね、アレス様が『白の比率が良い』って言ってくださったの」
少女が褒められた記憶を撫でるような声色。
「本当は汚したくない。でも、あなたが泥を飛ばしたから。仕方ないね」
靴が降りる。
一撃で亀裂が蜘蛛の巣に広がる。二つ目で脚が折れ、三つ目で殻が内側に沈む。四つ目を踏む前に、彼女の目が障壁を向く。透明な膜の向こう、彼は池の月影を整える。横顔は静か。彼女が何をしているか知る由もない。
胸が甘く痛む。
見てほしい。見せたくない。
自分がどれだけ守っているか知ってほしい。けれど、この醜さは彼の瞳に似合わない。彼の目は薔薇と星と清冽なものだけで満ちていればいい。血も肉も恐怖も、自分が抱えておく。
足元の甲虫に向けて微笑む。清らかさとは別の弧。
「安心して。あなたの存在は、彼に届かない」
最後の一踏みで動きが消える。
森が息を潜める。いや、見え方としての静けさ。実際には遠くで無数の鼓動が震え、防壁の外縁に立つより大きな捕食者の気配を学習する。白いドレスを血に汚さず、炎の匂いも出さず、微笑みを崩さない者。
エララは闇を見渡す。
「まだいるでしょ」
木の奥で小さな気配が縮む。
「出てきなさいとは言わない。逃げなさいも言わない。ただ、覚えておいて。あの光に近づいたら、終わる。名前を知らなくても、顔を見ていなくても、近づこうとしただけで終わるの」
ことばを区切り、息を甘く吐く。
「彼に近づいていいのは、彼が選んだものだけ。風景に入っていいのは、彼の好みに合ったものだけ。……それから、隣に並んでいいのは」
唇が弧を描く。
「わたしだけ」
その声に合わせて、闇が一斉に後退する。足音、羽音、這う音。気配が遠ざかる。恐怖は便利。純粋じゃないが、境界を守るには有用だ。
足元は惨めな残骸だ。死骸、灰、裂けた土、折れた枝。彼が見れば、外の森でも眉を動かすだろう。ここからが彼女の本領だ。
両手を開き、糸のような火で死骸を包む。炎は音を持たない。熱は外へ漏れない。骨と肉は塵に変わり、毒は分解され、血は炭化し、炭は細かい灰になる。刺繍をするみたいな集中で操る火。
灰が舞い上がる前に翼で風を作る。灰は封じから見えない湿地へと運び、泥に沈める。折れた枝は元に戻せない。幹を焼き切る案もよぎるが、煙が出る。却下。切断面に黒い苔を貼り、影に紛れさせる。
最後に、防壁の外縁に黒い点を見つける。
針先ほど。膜には触れていない。けれど、この美しい透明の近くに泥色がある、その事実だけで冷たいものが胸に立つ。死んだ甲虫にさらに憎悪を向けられるほどに。
「許せない」
指先で泥をすくい、火で消す。落葉の配置まで整え、息をひとつ。
内側でアレスが背を向け、水面の月影を眺めている。気づかないことを選ぶ。庭は乱れない。白薔薇は正しく咲く。星は理想の位置に。
境に立ち、両頬を両手で包む。
幸福の震えが耳の奥で鳴る。
彼が知らないところで彼を守る。彼の目が汚れないよう、自分だけが汚れを抱く。透明の外で醜いものを潰し、燃やし、消し、最初から無かったことにする。これは献身。これは誓い。選ばれた証。
誰にも触れさせない。森の魔物にも、庭の花にも、空の星にも、いつか現れる人間にも。もし彼が誰かに微笑む日が来るなら、その人は幸福のまま眠らせてあげる。もし誰かの名を呼ぶなら、その名をそっと閉じてあげる。隣に立つものが出るなら、痕跡ごと消してあげる。
そうすれば景色は保たれる。彼の望む風景が守られる。
「エララ」
光幕の内側から声。表情が花のように開く。さきほどの影は湖底の黒い羽のように沈み、忠義の微笑みに変わる。翼も尾も消え、爪は白い指へ。裾は汚れ知らず。境を越え、何事もなかったように庭へ戻る。
「はい、アレス様」
「茶は?」
「用意できました。薔薇蜜はひと匙多めです」
葡萄棚の陰の銀盆へ手を伸ばす。本当に、白磁の細口カップと湯気の立つ茶がある。出る前に準備を済ませた。彼に不自然を感じさせないため。侍女としての技量を崩さないため。
アレスがカップを受け取り、香りを確かめる。
「悪くない。月の冷たさと釣り合っている」
「ありがとうございます」
頭を下げる。伏せた瞳の奥で黄金の孔が細く震える。褒められた。その一言で胸の内側が甘く燃え上がる。さっき血を焼いた炎より、たちの悪い熱。
アレスが外を一瞥する。
「外周の反応が消えた。離れたようだな」
「眩さに畏れを抱いたのでしょう」
「畏怖は美の影だ。しかし、それだけでは足りない。理解がなければ意味がない」
「ええ。理解できないものには、近づく資格がありません」
声音は澄みきっている。底に沈む赤は見えない。
アレスが茶を含み、池へ目を戻す。
「明日は外縁の光量を調整する。森側に漏れる輝きが強い。余計なものを誘うのは目障りだ」
「お手伝いさせてください」
「ああ。お前は手先が器用だからな」
息が止まる。「手先が器用」。その言葉が指へと落ちる。さきほど首を折り、骨を砕き、血を焼き、泥を消したこの指先を、彼が別の意味で認める。その無邪気さが、残酷で甘い。
胸元で指を重ねる。爪に血の匂いはもうない。薔薇蜜の甘さがまとわりつく。彼の好む清潔な香りだ。
「アレス様」
「何だ」
「ずっと、お側におります」
彼の眉がわずかに動く。意味を測る視線。エララは微笑む。月光の竜姫の微笑は献身と可憐を纏い、獣の飢えを覆う。
「風情は手入れが命です。アレス様のお作りになる精緻な空間、わたしも支えたい」
「当然だ。維持なくして完成はない」
「はい。維持なくして、愛もないの」
最後のささやきは湯気に紛れる。
光幕の外で死の森が深い沈みを見せる。近づいていた魔物の痕跡はもうない。灰も血も声も恐怖も夜に吸われる。ただ、森の奥の生き物たちだけが知っている。星降る結界の縁に、透明な膜とは別の壁があると。
竜姫の愛でできた壁。主のためなら醜さに微笑んで手を伸ばす、重すぎる忠誠。
アレスは池の月影を見て、杖を下ろす。
「今夜の趣は、悪くない」
エララは横顔へ目を寄せ、静かに胸の中で囁く。
ええ、アレス様。
悪いものは、ぜんぶ、わたしが消したから。




