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第1巻 第2章 死の森のインテリアコーディネート(2)

白磁のカップから立ち上る湯気が、頬にかすかな温もりを残す。ダージリンの香りは柑橘の縁を持ち、低く沈む甘みで喉をなでた。風は一刻の狂いもなく葉先を撫で、鳥のさえずりは耳を刺す成分を切り落として背面に回す。光は斜め四十五度、芝の露だけをやわらかく拾う角度。


「今日の温度差はいい。三度以内なら許容範囲だ」


アレス・ヴァン・アルジェントはひと口ふくみ、音にならない満足を舌の奥で転がした。金糸の髪が朝の輝きに溶ける。白い外套の裾が椅子の肘に軽く触れ、さらりと乾いた布の音が走る。カップの縁を指でなぞると、磁器の肌がわずかに冷たい。許容値ぎりぎりだ。


「少しだけ、次からは一度高めに。……いや、今の鳴り方を崩すのは惜しいか」


庭は計測の結果でできている。芝の先端の高さ、花壇の色の移り変わり、風の調律。見えない薄膜が全体を覆い、外からのざらつく粒子を弾く。ここは文字通りの箱庭で、内部の音も光も触感も、彼の指先から伸びる糸で扱える域にある。


「音、下のAで固定。風は五ノット。鳥、三羽まで」


囁くと、空気がわずかに振動して従った。カップをソーサーに戻す瞬間、台座の表面張力が小さく揺れる。カチャ、という短い音。アクセント、と彼は心の中で名をつける。


歩き出す。石畳は足の重心に合わせて心地よく返音する材質を選ばせた。大理石の表面を指で触れる。粉砂糖を薄く滑らせたようなきめ。刻まれたルーンが歩調に呼応して淡い光を吐き、目に見えない汚れをそこで終わらせた。


「悪いものは外で完結させる。内に持ち込まない。それだけだ」


自分に向ける言葉は短い。余計な飾りを挟むと、耳が濁るからだ。


庭の北端へ足を向ける。境界は透明でも壁だ。景色は借りるが、音色も色温度も、最後は彼の視界に入る前に整える。だが、そのフィルターを貫く異音があることも、稀に起きる。


視線の先。足が一拍遅れて止まった。眉間に小さな影。


「……あれは、何の冗談だ?」


結界の外、森の一角に、赤黒いぶちまけ。不規則で、厚みのある塊。線も面も汚く重なる。


「ペンキをこぼしたのか。色が悪い上に、乾かす気配もない」


吐息が低く漏れた。鼻先に金属臭が刺さる。フィルターが切ろうとした音と色が、波打って押し寄せる。塗り潰し、投げ捨て、積み上げた。彼はそこにそういう言葉しか与えない。


「バランスが崩れる。朝の光に沈んでしまう。……誰が」


足元の芝がやわらかく沈む。視線の端で、青い薔薇が露を落とすタイミングを一拍外した。彼の舌が乾いた。


「やめろ。露は三十秒後でいい」


光が調整され、露は葉の隅でさらに滞留した。


「あれは剥がすべきか。モザイクにするか。いや、あそこだけ目隠しにすれば全体の呼吸が滞る」


手を額に当てる。脈が手のひらに跳ね返る。外界の風景には、それなりの退廃の味もある。だが、量と出方が悪い。色の落ち着きがない。線が乱れすぎる。


「森の自己処理はどうなっている。鳥、掃除しないのか。虫は。……間に合っていない」


自分の庭の調子を優先するべきだ、と内側の声が冷たく告げた。アレスはきびすを返し、中心へ戻る。複雑な解像度が落ち着く範囲に視線を戻す。指先が外套の裾を直す。布の目が滑らかに伸びて、しわを呑む。


「掃除の話は後で。また光で帳尻を合わせる」


言葉が小さく消えた。


——同じ頃、境界の向こう側。


足元には赤。堆積。蜘蛛の脚が干からびる前の色で広がる。銀色の髪がところどころ固まり、白いドレスには飛沫が点描された。


少女がひとり、そこに立つ。顔は上向き。瞳は金。森ではなく、結界の向こうに視線を縫い止める。


「ねえ……聞こえてる? 今、あなた、眉を動かした」


彼女の名はエララ。小さく笑うと、背中の空気が鳴った。靴底に粘りつく何かを、そっと踵で払う。糸を引く音が耳の奥へ落ちる。彼女は頬に触れ、こすれた赤を指先で広げた。乾く前に散る匂いは甘く、少し鉄に寄る。


「アレス様、見てたのね」


そこでようやく口元でその名をやわらかく形作る。唇に血がついたまま、彼女は微笑を保った。肩が小さく上下する呼吸。胸の中心で何かが焦げ付くように熱い。


耳の奥で、古い声が再生される。


「私の視界を汚すな」


あの日。地面に伏していた自分を見下ろす影。彼は、指をひとつ鳴らしただけ。それで空気が静まり、迫る足音が消えた。


「……音は一度でいい」


短く、筋を通した声。彼の背に光がついた。自分の世界の色が裏返る感覚。彼は去った。その後を、彼女は見続けた。


「ね、今の私……ちゃんと聞こえてるでしょう?」


視線は結界の内側をなぞる。彼が戻っていく背中の白。布が空気を切る音。彼の不快げな息。彼女にはそれが別の意味に置き換わる。


「気づいたのね。あそこ、嫌なのね」


彼が眉を寄せた瞬間、胸の内側から音が弾ける。弦を思い切りはじいたような痛み。けれど、それは彼女には嬉しさの強い形で届いた。


「アレス様、任せて」


口の端が上がる。声はそこまで柔らかいまま。足先の痙攣を、そっと足裏で止める。鈍い音。何も感じない表情。視線は一度も下に落ちていない。


「この森、手が回っていないのね。あっちも、こっちも」


彼女は指先をすり合わせる。乾きかけの感触が皮膚にざらりと絡む。そこに冷気が滲む。吐息の端に白が乗る。笑う。歯を見せない笑み。


「アレス様が歩くなら、足を濡らしたくないでしょう?」


くるり、と踵を返し、森の奥に視線を投げ込む。瞳孔がわずかに開く。遠くから、細かい脈動が砂上の蟻の列のように浮上してくる。生命の点滅。彼女の中では、それは黒い染みの座標。


「全部拾うの、気持ちいいかしら」


囁いてから、地に溜まった靄を裂くように踏み込む。土が抉れる。破裂音。空気が動揺を残して揺れる。彼女の形が、空白に変わった。


走りながら、両手を軽くひらく。指の間に明滅が走る。圧の高い光の粒が集まり、風が鋭い刃になる。彼女の周囲に渦。触れれば形を失う縁。


「いなくなって」


ささやきに合わせて木々が横倒しになり、枝葉が紙のように裂けた。地面が息を吸うように開いて、根を露わにする。その先にいた狼に似た影が、ざらざらと粒になって散った。


背後から重い呼気。牙の長い猫の異形。足音が大きい。振り返らない。彼女は中指だけ軽く動かした。空気が線を描く。裂く音。胴がすう、と滑り落ち、地面に赤い線を引く。彼女の頬に飛んだ雫を、舌先で取り、味を確かめるしぐさ。瞳の焦点が、瞬きの間だけ遠くの白に抜ける。


「ねえ、そこ邪魔」


前方から鉄の光沢が迫る。装甲に覆われた群れ。鼻先に油と獣の混ざった匂い。彼女は両手を水平に保つ。手のひらの中心に小さな星が生まれる。粒子が鳴り、空気がゆっくり沈む。次の瞬間、目に見えない雨が降り、硬い皮膚は柔らかなものに砕け、音を立てずに崩れた。


「掃くね。全部」


息を吐く。そのたびに白いしじまが寄る。彼女の足跡に赤が混じる。ドレスの裾が吸い上げるように色を重ねる。だが彼女は速度を落とさない。指先で空に列を描くと、そこに並んだ影が線で引き裂かれた。音は遅れて届き、森の深い所で反響する。


「アレス様、ここ通れるようにする」


開始の合図のように、その名で一度だけ呼びかけ、目を眇めた。口の端がまた上がる。喉の奥で笑いを押し殺す。耳の後ろあたりで氷の粒が鳴ったような音。空気に冷たい筋が走る。


さらに奥へ。地表を這う毒の気配。彼女は足元の土を指で抉り、指先についた泥と赤いものをまとめ、樹の幹に撫で付けた。そこが合図になる。次の瞬間、樹皮ごと内側から裂け、潜んでいた長い体が露出する。彼女は視線だけでそれをほどいた。節々がばらばらに外れるように落ち、地面の上で線の形を失う。


「ほら、邪魔が減る」


彼女は独りごち、髪に手を差し入れて、絡まった乾いた塊を指の腹でほぐす。爪に残った色を、ドレスの裾でそっと拭った。その布が冷えた空気に触れて張り付く。彼女は気に留めない。


遠くの枝が跳ね、蜘蛛の気配が降りる。硬い殻に覆われた大きな体。八つの目が光る。彼女は歩幅を崩さず、片足を踏み出し、空間の糸を掴むように指を立てた。見えない線が脚の付け根に絡みつく。一本、二本。引く。ポキ、と湿った音。引く。引く。体液が地に落ちる。彼女の手首に冷たい飛沫がかかる。彼女は瞬きもしない。


「ほら、静か」


言葉は無感情だが、顔は穏やかだ。両頬の赤が薄く広がる。呼吸は浅く速く、胸で小さな音を立てる。彼女の耳の裏から、次の座標の脈動がまた近づく。


「全部整える。この色、似合わないもの」


彼女の弾む足音が消えるたびに、森から色と匂いが一つずつ剥落する。枝が折れる音、骨が軋む音、液体が土に落ちる音。耳には曲として聞こえる。調子の合う音だけが残ればいい。彼女はそう信じたまま、切り捨てる。


境界のこちら側では、アレスが庭の中心で指先の汚れを払うように空気を整えている。露のタイミングが修正され、鳥の声がわずかに下がる。砂糖菓子のように軽い空気が、椅子の周りを回る。


「北は見ない。今は見ない」


言い聞かせ、カップをもう一度口に運ぶ。香りは先ほどより落ち着いた。舌の底に響く柔らかさ。息を吐き、肩を一つ落とす。だが視界の隅には、先ほどの赤が空想の形で忍び込む。脳がそこに色をあてがい、境界の向こう側に置き直す。彼は、これを何と名づけるべきか悩む暇を自分に与えなかった。


「設定を見直そう。今日のうちに。フィルターの層を増やすか、屈折の点で……」


独り言が長くなる前に、彼は黙った。過ぎた言葉は音を濁すからだ。彼は指を鳴らし、庭の西の陰を一段階薄くした。光は従う。影が短くなる。


その間にも、森の奥で銀の髪が跳ねる。エララの足は止まらない。肩で息をしながらも、目は細部を逃さない。立ち木の隙間からちらりと見える白。境界の向こうの彼の衣。距離は遠い。けれど、彼女はそこに手を伸ばしている幻想を持ち続ける。


「見てて。ここまで片づけたの」


細い声が漏れる。誰にも届かない。届かなくていいとも、思っている。彼の視界が濁るものを一つでも減らせれば、それだけで自分の胸の中の熱が和らぐからだ。


「もっとやる」


言い切り、彼女は土を蹴った。あちこちで獣の目が閉じ、息が止む。風が音を運ばない。森の奥で、それまで聳えていた生の気配がまばらになる。生態の線が乱れ、やがて切れ目だらけの網になる。彼女にはその図が美しく見える。


「ねえ、ここ、通りやすくなったでしょう?」


自分に問いかけ、微笑む。誰も答えない。答えは初めから決まっている。答えは「うん」。彼女の中でだけ鳴り、広がる。


「アレス様、手を汚さないで済むの」


その名を二度目に呼ぶ。猫のように喉を鳴らした。光の粒が指先から零れて、すぐに消える。


——


時間がいくつか過ぎ、庭での調整を終えてから、アレスは再び北へ歩いた。己の呼吸音が石畳から反射して戻る。境界の辺で立ち止まる。目を細める。


赤。さっきより広い。厚い。色の重みが増している。形の崩れ方が悪い。


「……ひどいな」


唇の端がわずかに引きつった。喉奥に乾いた味。指先が冷える。頭の奥で何かが脱線する音。


「自浄が死んでいるのか。指数関数か?」


言葉はいつも通り短く並んだが、心臓の鼓動がテンポを乱した。彼は一歩、引いた。吐いた息が少しだけ荒む。倒れそうに足元が軽くなる。だが、すぐに背筋を伸ばす。姿勢は崩さない。彼はあくまで、景色の乱れに対する処置としてしか考えを進めない。


「明日までに戻らなければ、結界の層数を上げる。あの区画、光の経路を断つ」


彼はそう決め、視線を切る。歩きながら外套の裾を払う。布が鳴る。指先の温度が戻る。


「それで十分だ」


自分に言い聞かせる語尾は、硬い。心の中の別の声が、何かを囁こうとしたが、彼はそれを短く切った。


——一方で、赤の中心で息を弾ませる少女は、両手を胸の前で絡めていた。指の間に乾いた色が残る。彼女はそれを気にしない。顎の線が薄く上がる。目の端に水が光る。喜びと熱が混ざった涙。


「もう少しだけ、ね」


彼女は囁き、空気に口づけた。冷気が唇に触れて弾ける。背中の上にぴたりと張り付くドレスの冷たさが、逆に彼女を熱くした。彼は目を伏せて、遠くを見ている。彼女はその横顔まで想像で塗る。


「アレス様、ほら、道が開いたの」


三度目。声に光が乗る。彼女は小さく笑い、背後の空間にひとつ指を滑らせて歪みを作り、そこで残っていた影を紙片のようにまとめて捨てた。


「気に入ってもらえるでしょう?」


誰に答えられるわけでもない問いを投げる。返ってくるのは自分の呼吸だけ。けれど十分だった。


彼女の掃除は止まらない。森の中に残る点が減る。小鳥さえ、いつもより歌わない。土は色を記憶し、しばらく手放さない。雨はまだ遠い。風は行き先を見失い、渦の内側で巻き直される。


境界の線。片側には白。片側には赤。線は動かない。交わらない。けれど、互いの存在が相手の色を濃くする。白は白く、赤はさらに赤く。


アレスは庭の中心に戻り、ティーポットの角度を半度調整する。注ぎ口から落ちる筋が、美しい曲線でカップの底を打つ。音は小さく、高さは一定。彼は息を合わせる。


「余計なものを削ぐ。そうすれば、形は出る」


呟きは自分に対する言い聞かせ。結界の層が一枚増え、外からの色の一部は届かなくなる。視界が澄む。喉に残っていた乾きが薄くなる。


それでも、数時間後。北へ再び出向いた彼は、さらに拡大した赤に直面する。脛から力が抜ける感覚。カップの柄を握ったときの磁器の滑りを思い出すような冷たさが手のひらに戻る。


「……これは、ひどい」


低く、淡々と出した言葉。彼の思考は最後まで現場の意味に届かない。推論は「森の自浄作用の不全」に括られる。原因は天候、病原、瘴気、何かの流れの変化。人為、という項目はほぼ検討から消える。彼にとって外は、偶然の集合でしかない。


「屈折の設定をもう一度。あの区画には別の層を。露出を切る。たぶんそれで——」


折り畳むように思考を収め、彼はその場を離れる。背の白が木々の影に溶ける。布の音だけが短く残る。


赤の側では、エララが目を閉じ、耳を澄ませていた。遠くから彼の足音がわずかに響く。たぶん、こちらを見た。たぶん、驚いた。たぶん——喜んだ。


彼女はゆっくり目を開いた。瞳には光。唇には薄い笑み。背後で氷の気配がまた鳴る。だがすぐ収める。彼の庭に冷気を吹き込む想像をしただけで、彼女は自分の肩をそっと抱いた。


「次は南もね」


独り言の調子は軽い。足元の色の上で踵を返す。土が小さく鳴る。髪が揺れる。肩の上の冷たさが、今度は心地良い。


——完璧な眺めと、血に染まった掃除。箱庭の線を間に置いたまま、どちらも自分の愛するものにだけ正直だ。白は白の論理で世界を均そうとし、赤は赤の理屈で世界を拭い続ける。今日も、それぞれの手の中で音がそろう。だが交わらない。ただ、微かに響き合う。そういう日が、静かに積み重なっていく。

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