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第3巻 第4章 大結界の秘密(1)


鑿の音が、朝霧を縫う。


 結界の内側で、亜人たちが石を積んでいた。岩人族が白磁の大理石を運び、半魚人族が水路の流れを整え、エルフの工匠が壁面に弧を刻む。アレスの図面に従い、それぞれの種族が持つ技能を注ぎ込む。かつて奴隷として、観賞物として、軍用犬として使い潰された者たちが、ここでは設計図の一端を担う。


 誰も泣かない。誰も感謝を叫ばない。ただ手が動く。石の粉が舞い、水が光を返し、鑿が韻律を刻む。それだけで十分だった。


 丘の上に、黒髪が揺れる。


 エララは白百合の群れの中に立ち、腕を組んで街区を見下ろしていた。金色の瞳が細まる。水路の傍で、半魚人の女がアレスの図面を胸に抱えて微笑んだ瞬間——エララの足元の土が、音もなく霜を帯びた。


 「……あの手で」


 囁きは誰にも届かない。指先に紫紺の竜気がちろちろと灯る。白百合の一輪が、根元から黒く焦げた。


 図面に残るアレスの筆跡。あの流麗な銀の線を、鱗の手が撫でている。その事実だけで、エララの爪が自分の腕に食い込んだ。白い肌に赤い筋が走り、血が花弁を汚す。


 水路を蒸発させることは、容易い。半魚人ごと。


 けれど——。


 「エララ、亜人たちは私の街を構成する要素だ。壊すな」


 昨夜のアレスの声が、耳の奥で反響する。命令ではない。事実の確認。だからこそ絶対だった。


 エララは深く息を吐いた。紫紺の気が霧散する。爪を抜き、血を舌で拭う。


 水路の傍で、半魚人の女が不意に振り返った。背筋に走った寒気に、首を傾げる。丘の上には、もう誰もいない。焦げた百合と、血に染まった花弁だけが残る。


 「……気のせいかしら」


 女は身震いし、水に手を戻した。


 丘の裏側で、エララは百合の茎を一本、指で折った。ぱきり、と乾いた音。折れた茎を唇に当て、目を閉じる。


 「もう少しだけ。目をつぶっていてあげる」


 竜姫の囁きは、風に溶けて消えた。


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