第3巻 第3章 人間の王国からの使者(5)
湿った土の匂いが、鼻の奥をくすぐった。
黎明の霧が庭の縁を濡らし、薄い青磁色の光がそれを縁取っている。アレスは白い指先で空気をなぞり、見えない線を引いた。結界が世界を織り直していく。死の森だったはずの土地は、いま、まだ植えられぬ苗木の青い陰影を抱いて、眠りから起き上がろうとしている。
土手に立ち、真新しい杭に結ばれた測量糸を、親指の腹で弾く。ピン、と張り詰めた音。その高さで、微細な傾斜を測るのが、彼にとっては呼吸と同じだった。
「ここは、北へ二度と三分の一、戻すべきだ」
ぽつりと告げると、石工頭のゴルドが顔を上げ、分厚い手で額の汗を拭っている。
「二度と三分の一……ってのは、そんなに違うもんですかい? 見た目には、まっすぐで」
「違う」短く、しかし熱を秘めた声だった。「光は、肉眼に嘘をつく」
「光が、嘘を……?」
「二度と三分の一戻せば、冬至の午後三時、太陽が対岸の白樺の幹に光の帯を架ける。その帯の幅は、お前の手のひらほどだ。そこを歩く者の心が、ほんの少し軽くなる」
「……それが、水路の仕事だ、と?」
「水は、心の重さを運ぶ」
ゴルドは曖昧に頷き、しかしアレスの眼差しに圧されて、すぐに部下へ指示を飛ばした。杭が抜かれ、線が引き直される。アレスはその様子を眺めながら、足元の土へと意識を落とした。湿った琥珀のような匂いが、結界の糸を伝って、彼だけに聞こえる旋律を奏でる。
「アレス」
低く甘い声が、背後から落ちてきた。振り返るまでもない。黒曜石の鱗に朝日を混ぜた竜姫、エララが、水路の上空を旋回し、やがて人の姿となって彼の隣に降り立つ。長い黒髪が風に舞う。
「今日も朝から、忙しないのね」エララは指先で彼の肩に触れ、すぐに離した。「でも、あなたの背中は綺麗。無駄な線が一つもない」
「無駄なものは削ぎ落とす」アレスは淡々と返した。「水路の曲率の話だ。筋肉の話ではない」
「ふふ。曲率?」エララは目を細める。「今日だけは、水の曲率に妬いてあげる。あなたを撫でる権利を、少しだけ譲ってあげるの」
返事の代わりに、アレスは足元の砂をひとつまみ、掌の中でほぐした。結界がそれに応じ、流下速度の数値が頭の中で踊る。
「アレス様」
書板を抱えた小柄な文官、ミリヤが駆け寄ってきた。緑の瞳が、心配げに揺れている。
「王都の技師たちが、下流の方の視察を始めています。護衛を二組、つけましょうか」
「つけろ。ただし、彼らの前で武器は見せるな」
「と、いいますと」
「彼らは測るふりをして、こちらを測っている」
水路に沿って、青い外衣の男たちが山羊皮の巻尺を引いていた。歩幅は不自然なほど均一で、足元ばかりを見ている。長身で鼻筋の通った男――リュケイオスと名乗ったあの男が、ふと顔を上げ、穏やかに微笑んだ。視線が交差する。
「光の庭の方を案内しろ。水鏡に映る空は、親切な嘘つきだ」
「承知しました」
ミリヤが頷いて去る。エララが、唇に指を当てて笑った。
「あなた、嘘も綺麗に編むのね」
「嘘が綺麗なとき、真実はその影に穢されない」
言い捨て、アレスは足元の石をひとつ、指幅二つ分だけずらした。たったそれだけで、午後の影の走り方が変わる。月光が水面に落ちる角度も。
土手の下では、子どもの背丈ほどの白樺の苗が、新しい土に根を張ろうとしていた。彼はその一本の前でしゃがみ、両手で幹を挟み、ほんの僅かに回した。ミリ単位の調整。それで根の向きと、将来伸びる枝の形が決まる。
「痛くない?」
声をかけてきたのは、植樹隊の少女、ラナだった。土で汚れた頬が、不安に歪んでいる。アレスは目の高さを合わせた。
「木は、触られるのが嫌いじゃない。正しく触れば、喜ぶ。ほら、葉が少しだけ跳ねた」
「……ほんとだ」
「水の声も同じだよ」アレスは少女の耳に手を添え、水路の方を指差した。「あの流れの音、今、少しだけ濁っているだろう。石が一つ、余計な角度で水を裂いている。直せば、子守唄になる」
「子守唄……アレス様、どうしてそんなことまでわかるの?」
「わかるように、作っているからだ」
立ち上がり、軽く手を振る。ラナはぱっと顔を輝かせ、走り去ろうとした。が、その背中にエララの声が降りる。
「アレスに笑ってもらえて、よかったわね」
鮮やかで、甘美な微笑み。けれど、その奥でうっすらと冷気がたちのぼった。空気の温度が、ほんの一度、下がる。
「今夜、いい夢が見られそう?」
ラナは肩をすくめ、何かを察したように足を速めて去っていった。エララの瞳は、その小さな背中を見送る間、瞬きをしなかった。彼女はアレスの腕に絡みつくように近づく。彼は半歩、身体を引いた。拒絶ではない。風の通り道のために、空間に余白をつくる。それも、眺めの一部だった。
「また離れるのね」
エララの声が、微かに震えた。指先から薄い霜が浮き、地面の草を白く縁取っていく。
「少しくらい、いいでしょう? ……あの王都の犬たちごと、水に流してしまえば、もっと静かになるかしら」
「流すな」アレスは短く答えた。「水に流すのは、煩雑さだ。骨ではない」
「骨」
「彼らの骨は、いずれ折れるべき場所で折れる。今は、折らせない」
エララは顎に力を込め、尾を引きずるように一歩、退いた。それから髪を掬い上げ、日差しにかざす。
「じゃあ、せめて私にも役割を頂戴。私の鱗は、金の比を呼ぶの。角度を教えなさい」
アレスの目が、一瞬だけ柔らかくなった。
「南東の広場の噴水、二時と四時の間。夏は四時寄り、冬は二時寄りに。お前の光で、虹が架かる」
「ふふ。いいの」
エララは踵を鳴らし、鱗の光を纏ってふわりと浮かび上がる。
「あなたの庭は、私の翼で彩られる。――他の女の入り込む隙間は、要らないでしょう?」
その独占の烈しさが、彼の箱庭を守る刃にもなる。アレスは計算に入れ、次の指示を飛ばした。
「そこ、段鼻を一寸削れ。影が厚すぎる」
「噴水の縁、面取りをもう一つ深く。子どもの手を前提に」
「水草は、香りが強すぎる。午後の市場と喧嘩する。柔らかいものに替えろ」
口から零れる言葉は、注文というより祈りに近い。水路は単なる水の通り道ではない。星の通り道であり、光と影の巡る道でもある。
羊皮紙に碧色のインクで描かれた図面を広げた。中心に楕円の池、その周りに七つの小さな水場。
「焦点は……ここと、ここか」
指先が紙の上を走る。楕円の二焦点に立つ者は、互いの囁き声を反対側まで届かせることができる。恋人たちは秘密を大切にする。秘密のある庭は、人を繋ぐ。繋がりは、侵入者を拒む網となる。
「アレス様」
ミリヤが再び駆けてきた。顔が、強張っている。
「王都の技師の一人が、勝手に北の堰制御の塔に近づこうとしています」
エララの瞳が、すっと細められた。
「……ねえ、首だけなら、いいかしら?」
冷気が、彼女の指先からゆっくり這い上がる。地面の霜が、一拍で輪を描いた。
「殺すな、と言ったはずだ」アレスの声に、さざ波のような苛立ちが混じる。「ミリヤ、彼を『導水路の亀裂』の検査に行かせろ。亀裂は、彼の足元だけに現れるようにする」
「すぐに」
ミリヤが去ると、アレスは森の縁へ視線を向けた。結界の外、首のない鹿の形をした悪意の素片が、薄い霜のような光の縁に押し止められて鳴く。光と影の境界線。その線を、彼は綺麗だと感じた。
腰をかがめ、地面に白い粉で新たな線を描く。橋の位置だ。
「橋の材は?」ゴルドが問う。
「白楡。肌理が細かく、年月で銀に変わる」
「最初から完璧な色を、ってのは駄目で?」
「完璧は、変化の果てにしか宿らない」アレスは言葉を切り、低く呟いた。「見せかけの完成は、死だ」
エララが、わずかに目を伏せた。
昼近く、公園予定地の中央に仮の噴水が立ち上がった。粗く組まれた石から水が湧く。アレスは耳を澄ませ、眉を顰めた。
「低すぎる。足元で散りすぎている。耳をくすぐるが、心臓まで届かない」
「どうすりゃ、いいんで」
「舌先で触るような音を」
「した、さき……?」
ゴルドが首をひねるあいだに、アレスは結界の糸を水の内側へと差し入れていた。水中に、微細な渦が生まれる。規則正しく、けれど規則を悟らせない――そういう渦だ。音が、変わった。耳の奥に、柔らかな痺れが走る。
「……これだ」
「これね」
エララが吐息と共に呟き、彼の横顔を凝視した。
「その顔。あなたが『これだ』って思う瞬間の顔――誰にも見せたくないの」
彼女の指が、噴水の縁に触れる。水面が、薄く凍りかけた。
「いっそ、止めてしまおうかしら」
「止めるな。この音は、お前の翼の音と共鳴するようにできている」
「私の……?」
「飛べ。影が水に入れば、音が深くなる」
エララは瞳を細め、しかし従順に翼を広げた。鱗が陽に焼け、光の粒があたりに散る。風が起き、水面が震えた。確かに、音は、遠くまで届いた。
「ふふ。ご褒美は?」
「水路の角度を保つこと」
「つまらないの」
舌打ちをして背を向けながら、エララは翼の先で彼の肩を掠めていっている。
午後、王都の技師たちが戻ってきた。リュケイオスが帽子を取り、礼を見せる。張り付いた笑みは、訓練された礼儀の匂いを帯びていた。
「アステリアの森の主。あなたの噂は王都にも届いております。この水路、見事だ。谷の風をうまく使っている」
「風は私のものではない」アレスは答えた。「借りているだけだ。返す時が来たら、機嫌を損ねずに返す」
「謙虚な言葉の裏に、誇りと、秘密がある」
「誇りは隠さない。秘密は隠すためにある」
「あなたの閉じた楽園は、王国のものでもある。王はそうおっしゃる」
「王の詩は、読み終わらないうちに燃える」アレスは淡々と続けた。「私は燃えかすから肥料を作る。あなたは燃えかすの重さを量る。役割の違いだ」
エララが一歩、前に出る。数歩離れていてもなお、彼女の存在がリュケイオスの肌に切っ先を突きつけたのだ。
「ねえ、技師さん」
「は」
「逃げ足の速さって、噛み砕くときの歯触りを悪くするのよ。ご存知だった?」
エララは唇に弧を描いた。指先で、自分の喉元を、つ、と撫でる。
「固すぎると、顎が疲れるから。……だから、あまり走らないでね?」
リュケイオスの頬の筋が、一瞬だけ強張った。それでも彼は礼を崩さず、肩をすくめた。
「美しい庭には、麗しい持ち主がよく似合う。私はただ逃げる者です」
「話は終わりだ」アレスが手を叩いた。「午後は北の水鏡を見学してもらう。地図も、綺麗になる」
「ありがたい」
彼らが離れると、アレスは指先を嗅いだ。水の匂いの奥に、微かな金属の臭い。磨かれた道具の臭いだ。落ち葉の匂いより正確で、少し不快だった。
日が傾く頃、公園の導線が見えてきた。北の入口に広い芝生、風の跡、段々の花壇、香りの層。最初は薄い緑、次に白い甘さ、最後に水に溶けるような香り。そこへ水の音が加わる。アレスにとって、それは楽譜を書く作業に似ていた。
「アレス」エララが肩を寄せた。「あなたの顔、今日は少し柔らかい。うまくいってる?」
「予定の半分と、三分の一」彼は答える。「星石の運搬が遅れている。夜の光が足りない。だから、今夜は月を借りる」
「月を、借りるの?」
「結界で光を拡げて、薄い霧を下降させる。月は騙せる」
「ふふ。天に向かっても同じ調子なのね、あなたって」
「天は庭の屋根だ。雨漏りを確かめるのは当然だろう」
夕刻、最初の水が、新しい水路に流れ込んだ。透明な舌が石の間を這う。アレスは身体を固くして、その音を聞いた。生まれたばかりの赤子の泣き声と同じほどに、彼にとって重要な瞬間。
水は一瞬、躊躇った。結界が軽く手を添える。躊躇いは消え、音は走り出した。
「聞こえるか」
「ええ」エララが頷く。「あなたの庭が、あなたの腕の中で寝返りを打つ音」
「ただし、第三の曲がりで、音が一つ濁った。石が、半分、間違っている」
彼は土手を駆け下りた。第三曲線の内側、殴られたように角の立った石。膝をつき、手袋を外し、素手で石に触れる。
「悪いね」低く呟いた。「お前を責める気はない。お前は、お前の形を守ろうとしただけだ」
ぐっと力を込め、指の力だけで石を滑らせる。結界に支えられた、庭の主の力。石はわずかに回転し、角が水に対して鈍くなった。水の声が変わる。濁りが取れ、細い銀の糸が数本、音の中に加わった。
「石一つで、音が変わるなんて――俺にゃ、わかりませんよ」ゴルドが半ば呆れた声で言う。
「わからなくていい。だが、覚えておけ」アレスは立ち上がった。「石は流れを作る。流れは人を作る。人は街を作る。街は王を作る。王は、王を殺す。だから石は、正しく」
「……」
「内政というのは、石拾いだ」
その夜、灯りの下で最後の調整を続けた。帳が降り、星が頭上に集まる。エララは塔の上で、鱗の角度を細かく変えていた。彼が望む角度のためなら、いつまででも待つ。
「眠らないの?」
「眠るには、まだ音が騒がしい」
「私が見張ってる」エララが囁いた。「王都の犬たちも、森の外縁のひび割れも。あなたは図面だけ見ていればいい。誰も彼も、私が噛んで――」
「噛むな、と言った」
「噛まない」彼女は少し考え、舌を出した。「舐めるの」
「舐めるな」
アレスは息と共に笑い、筆を置いた。
「明け方、南の東屋の位置を一尺ほど南にずらす。朝日が柱を裂く」
「裂くの?」
「裂く光は凛とした光だが、柱の寿命を縮める。寿命と綺麗さの折り合いをつける。柱は石で、柱頭は木」
「あなたはいつも、二つの極を抱かせるのが上手いのね」エララは目を伏せた。「私と、あなたのように」
「極は抱き合っても、混ざり合わない」アレスは真顔に戻った。「混ざらなければ、世界は保たれる」
遠くで、王都の測量器の金属が夜露を弾く音がした。彼はそれを耳で拾い、位置を計算し、封じの糸を伸ばす。彼らの地図に記される道は、目には見えないほど、少しずれていく。
東の空が灰色に明るみを帯び始めた。徹夜の紙の匂い、濃くなったインクの黒。アレスは背筋を伸ばし、踵を返して公園の入口に向かった。
芝生の上に立ち、目を閉じる。水の音、風の音、遠くの鳥の声。すべてが混ざり、また分かれる。
「……いい」彼は呟いた。「今日の朝は、正しい」
エララが背後で翼を畳む気配。彼女は躊躇なく近づき、彼の肩に顎を乗せた。
「正しい朝。なら、私の朝も正しくなるの」
「……」
「あなたの庭に、あなたの匂いが満ちている。誰かが近づけば、すぐにわかる。私が嗅ぎわけるから」
「嗅ぎわけるだけでいい」アレスは笑った。「噛みちぎるのは、夜にしろ」
「夜に?」エララは愉快そうに囁く。「約束ね」
朝の光に、公園の輪郭が浮かび上がる。水は銀の糸となって流れ、石は座り、木は枝を伸ばす準備をしていた。やがてここに、子どもが走り、老人が座り、恋人たちが秘密を囁き、孤独な者が一人で泣くだろう。それらすべてを、抱える器。
「仕事に戻る」アレスは宣言し、足元の砂を軽く蹴った。「まだ直す場所がある」
その声に応じて、人々が動き出す。ゴルドが石を持ち上げ、ミリヤが書板を走らせ、エララが光を撒く。王都の技師たちは眩しい笑みの裏で計算を続け、遠くの森は光幕に鼻先を押し当てて、侵入を断念する。
そして彼はまた、石を一つ動かした。ほんの指の幅分。朝の光が、その変化を見逃さなかった。水の音が、わずかに澄む。エララの笑いが、ほんの少し柔らかくなった。王都の技師の眉が、気づかぬまま、一瞬だけ上がる。
誰もが自分の位置で、美の重さを支えている。今日も、閉じた楽園は呼吸をしていた。空と水の間で。愛と暴力の間で。アレスはその呼吸を、指先で数え続ける。終わりのない、設計者の数え歌を。




