第1巻 第1章 追放と出会い(5)
光は、私の指先の意向を正しく読み取る従順な布のように、森の奥へ優しく垂れる。結界の天蓋は薄い硝子のような膜となって陽光をふるい、粗さを含む直射をすべて拒み、小さく刻んだ朝の破片だけを床へ届ける。風は、すき間から忍び込む小賢しさを取り去り、温度と湿度と匂いの成分に至るまで、私が決めた比例に沿って走る。深呼吸すれば、鼻腔は青い葉脈を通った水の冷たさを感じ、喉は苔の胞子がふわりと触れて抜けていくような柔らかさに撫でられる。死の森、と名ばかりのこの一角は、私の目には永久に保存すべき標本棚であり、指の延長として弄ることのできる掌上の世界だ。
私は、指先で空気をはかり、足裏の角度をわずかに変えて歩く。歩幅は苔の絨毯の節理に合い、台詞のない舞台俳優のように、私は自分が何者かをこの場に刻み込む。私は今日も、葉脈の透ける順番を確認して回る。光が裏から差す葉は、表から見たときよりも麗しい。自分が配置した葦の列は、風の速度に従って密度を変え、さざめく音に和音のような高低を持たせている。私の作った細い水路は、透明な糸を引くように石と石の間を縫い、曲がり角ごとに丸く磨いた小石を一つ忍ばせている。水面には、結界で作った微細な鼓動があり、それが水滴を定間隔で跳ねさせる。水滴は跳んで、落ちる位置に、私が指示した苔の上にだけ落ちる。
苔。苔はこの空間の基調だ。星のように微光を放つ星苔、薄い白い毛羽がわずかに風を捕らえる白髭苔、指で撫でたくなる絹のような絹雲苔。私は苔の湿度を一つずつ調整している。萎れない程度、膨らみすぎない程度、触れば微かに弾む程度。苔の間を走る枯枝は大胆すぎてはならない。端整すぎてはならない。目というものに余白を与え、目を奪うものに供せる布として存在しなければならない。
私の視線は、葉の陰から葉へ、石の陰から石へとゆっくり移る。結界はそれに応えてわずかに鳴り、金属でも玻璃でもない音を立てる。整合の音だ。私は耳を澄ます。
「まだ遠い」
寸分の狂いもない状態はいつでも遠い。だが、距離を測ることができるなら、それは到達可能に見える。だから私は、苔の葉一枚にまで、私自身の尺度を刻みつける。そして刻むための工具は、言葉ではなく結界だ。
腰に差した細い鋏と竹のピンセットを取り出し、小さく歪んだススキの先を切る。微細に白い毛を持つ糸状の菌糸が見えるが、これは私が意図的に植えたものであるから残す。足元に敷いた石は角度が狂っていないか。私はその石を爪先で押し、小さな振動を感じ、石の下に作った空洞に空気がちゃんと流れていることを確かめる。ほっと息が漏れる。そこに風が走り抜ける。音が一つ加わる。
その瞬間、違和の気配が、空気の肌理を逆撫でした。
鉄の匂い。湿度が一瞬で厚くなり、温度が半歩高くなる。風が持参しなかったはずの成分だ。私は立ち止まり、体の中の何かが緊張して固くなるのを感じた。
「許可していない匂いだ」
足の裏に、柔らかな苔の弾みが違う角度で伝わってくる。苔は苛立っている。苔は怒りを知らないが、育てた者にはそれが伝わる。
私の視線の先、森の奥で光が不規則に瞬いた。葉裏で転がる光ではない。より荒い反射だ。私は歩幅を広げた。苔の上に足跡を残さないよう重心を滑らせて進む。音はない。私が許す音以外は、私のいるところでは鳴らない。この庭で鳴るのは、私が麗しいと定めたものだけだから。
匂いは強くなる。鼻腔が勝手に収縮して、鉄と濡れた皮の混じった湿りが刺してくる。違う。皮ではない。この濃さは獣ではない。森の暗がりに破れ目があり、折れた木々が斜めに倒れている。私は吐息を飲んだ。倒木の断面は新しい。繊維が白く、香りが生木の緑を保っている。私が配置した角度ではない。倒れるべきでない方向に倒れ、光の筋の通りを歪ませている。
異物が、そこにあった。赤い液体の流れが苔の上を走り、石を濡らし、私の決めたリズムを乱している。
私は歩を速め、枝を払い、そこにそれを見た。巨大な竜だ。銀と夜を混ぜたような鱗を持ちながら、その腹からは生々しい裂け目が走り、血が溢れ出している。竜の身体は、私がどんな風景にも配置しなかった規模を持つ。横たわるそれは、森の曲率そのものを歪める。ただそこにあるだけで、領地は私の手を離れているように見える。
血の匂いが強すぎる。苔の上に注いだ鉄色が、星苔の光を奪う。白髭苔は赤を吸い、毛先が垂れている。水路に流れ込む前に、私は動いた。手を上げ、結界の糸を引く。空気が薄く鳴り、透明な壁が水路の手前に立ち上がる。血はそこでせき止められ、ゆっくり直径を増やしていく球になった。私は指先で球の外側をなぞり、表面張力を強化する。どの液体の揺らぎも許さない。
怒りが喉元にあった。恐怖ではない。羨望でもない。純粋な不快だ。よく育てた苔が、染まっていく。誰に許された? 誰がここに赤を落としていいと言った? この緑は、私が何日も何日も湿度を測り、風の通りを調整し、水滴が落ちる音を聴きながら育てたものだ。苔は時間でできている。時間の合奏だ。そこに粗い赤の音が割り込むとは。
「勝手なことを」
噛み殺した声が漏れる。私は巨体に近づく。折れた木の断面が目を刺したが、それを気にしている場合ではない。血の流れる経路に目が行き、同時に足元の苔に目が行く。白髭苔は洗えばまだ持ち直す。星苔は……微光が弱まっている。胞子が血の成分と混ざれば、再生に時間がかかる。絹雲苔は繊維が細いから、血の浸透が速い。
私は息を吸い込む。苔のために何をするのが最も効率的か。原因を排除することだ。止血。流出が止まれば、被害はそれ以上増えない。まずそれだ。生き物を助けるからではない。眺めを助けるためだ。私は自分に言い聞かせる。
そして、目の前の竜を見たとき、私は思いがけず一瞬だけ、その存在の美に囚われた。
鱗の並び。それはただ堅牢な鎧ではなく、光の角度に反応して淡い青から深い黒へ滑らかに変化するグラデーションを持つ。腹部の柔らかい部分は銀の絹絵のように細かい翡色が差し込み、胸骨から喉へ続くラインには、規則正しい波紋が刻まれている。この波紋はきっと彼女の遺伝子が描いた装飾だ。角は曲線美を尊ぶ彫刻家が泣いて喜ぶほどの湾曲を持ち、翼は膜の張りを失っていてもなお、張られたときの張力を感じさせた。爪の付け根の鱗は他の部位より細かく、指を拡げるたびに表面の光が螺旋を描くように流れるだろう。言葉を失う。乱暴な巨大さではなく、パーツが全て調和して一体としてのリズムを持った巨大さだ。
だが、その全てのリズムの上に、血の赤が汚点として置かれている。紅い線は画面に偶然走ったノイズのように私の眼に刺さる。凛とした上の乱れ。私の仕事は、その乱れを消すことだ。私は左手を上げ、右手で腰の小袋から細い糸巻きを取り出した。糸といっても、それは私の結界が形をとったものだ。目に見える程度に結界の線を太らせている。透明な、ほとんど存在しないような糸。
「静かに」
自分にそう言い、私は竜の腹の裂け目の縁にその糸を浮かべた。裂け目は生々しい。肉が割れ、皮膚が剥がれている。丸い白い骨がちらりと覗く。血が糸に触れようとするが、糸はそれを弾く。私は結界を衛生的に保つ術を持っている。汚れを通さない。汚れという言葉には私の嫌悪が強く含まれる。苔が汚れるから嫌だというだけではない。汚れは、私が世界に描いた線を曖昧にするから嫌だ。
「圧を分ける」
私は低く呟いた。空気の中に線が増え、縦横に、斜めに、見えない布が幾重にも重なる。私は竜の体の周囲に封じの箱を幾つも作り、小さな箱同士を数式で繋げる。目に見えない計算式が空気の中を走り、膜と膜の緊張を調整する。失われた血管の圧力を代替するように、外からそっと押さえる。押さえすぎてはならない。硬すぎても、柔らかすぎても。苔を撫でるときと同じだ。触れ方の哲学。
私は足元の血を浮かべていた球をもう一つ作り、球からの蒸気を冷やす防壁を重ねる。鉄臭が弱まる。私は自分の嗅覚が収まるのを喜ぶ余裕を持っているわけではないが、不要な刺激が引いていくのは良いことだ。「後で漂白だ」と頭の片隅で考える。苔を漂白はしない。漂白するのは結界の記憶。血の匂いという記憶を消すことができる。
竜の腹の裂け目に糸を掛け、内側の膜を縫う。それは縫合ではあるが、針は使わない。防壁の糸は膜の縁を撫で、細胞の縁に立ち上がる微小な電位差に沿って自らの張力を調整する。組織が互いに近づくと、それを運動として記憶させる。支えながら、支えたことを忘れさせる。最終的に結界の糸は「過去」になる。何もなかったかのごとく。
「流れを再配線」
私は別の線を走らせる。血の流れを内側に戻す。溢れたものは球に集め、球に閉じ込めた血液は後で土に還元するか、私の言葉で、美術的に処理する。色の話だ。色が変質する前に、紅を紅として扱えるうちに。
竜は微かに息を吐く。その息は熱く、風の流れを少し乱す。私は眉を寄せるが、すぐに風の補正をかけ、乱れを小さな渦の形に閉じ込めて隅へ追いやる。乱れの中にもパターンを作る。乱れを乱れのままにしない。それが私のやり方だ。
「静かに」
私はもう一度言う。声は強くはないが、障壁がその声の意味を空間に翻訳する。音は熱と振動と意味の複合体。結界は意味だけを取り出して竜の周囲に撒く。「」という意味の粒子が空気中に沈み、竜の筋肉の微細な震えが沈静化する。その間隙を狙って私は作業を進める。
近くで見る鱗は、また別の艶やかな美を開く。鱗の端に、細い金の線が走っているのが見える。それは装飾ではない。隣り合う鱗と鱗の間に傷が入りにくくするための、細胞の強化線だ。細胞の構造が現す、自然選択の意匠。私はそこに美を認め、それが壊れないよう、糸のテンションをわずかに調整する。糸は鱗の縁に吸着し、薄く、薄く、透明な膜を伸ばす。防壁は手術具であり、絵筆であり、箒であり、布巾であり、私にとってはどれも同じ意味を持つ。風景を整える道具。いのちという光景を整えることも、苔の湿りを整えることも、同じ線上にある。
裂け目の深さを測る。私は目を閉じ、耳で測る。血液の音。心臓の音。彼女の心拍は遅い。しかし、まだ強い。竜の心臓は大きい。低いドラムの連が胸で鳴っている。血が内側に戻り始めたことを確認したとき、私の肩から少し力が抜けた。流出が止まった。
「よし」
口の中で言う。音にしない。森が聞くと乱れるから。私は球に閉じ込めた血液に注意を移す。球の中で血はゆっくり回っている。渦の中心に何かが沈んでいくように見える。私はそこに微細な防壁の「濾器」を仕掛け、血液から苔に害を与える鉄分の過剰を抜き取る。抜いたものはさらに小さな球に分け、地中に流す準備をする。土が食べるものは土に返す。苔が食べられないものは苔に触れさせない。
仕事が進むにつれ、匂いは弱まっていく。湿度は許容の幅に戻り、風は先ほどまでの和音の調子を取り戻す。折れた木々はそのままだが、後で手を入れればよい。構図として、倒木を生かすという選択肢もある。何にでも怒っていては構成が立ち行かない。怒るのは、苔が汚れたときだけでいい。
竜の体がわずかに縮むように感じられた。いや、縮むのではなく、軽くなる。血の重さが抜けたからか。しかし、その小さな変化が、不意に私の防壁の針を震わせる波を作った。波は体内から外へ、皮膚を通って、鱗の縁へ、そして空気へ。私は目を伏せる。こちらの意匠に干渉するうねりだ。どこか計画外の変換過程が走っている。
私の眼前で、鱗の一枚が光に溶ける。銀の薄片が煙のようにほどけ、風に拐われることなく、むしろ集まって一点に沈む。それは胸元の少し上、喉の付け根あたりに集まって、透明な果実のように丸いものをつくる。胸骨が音を立てて移動する。翼の骨は折りたたまれ、肩甲の深い奥へ引っ込む。骨の縮小は異様な速度だ。封じがひとりでに支えのテンションを調整し直す。皮膚が新しいラインに沿って滑る。毛が生える。髪が出る。鱗が消えていくにつれ、肌の色が出る。薄い白磁に、血の色がわずかに差している。
私は手を止めない。変化が起きても、支えの線が切れれば台無しだ。縫ってきた糸が引っ張られ過ぎれば、内側で再び裂ける。だから私は、縮む骨と薄くなる膜に合わせて、こちらの封じのメッシュも細かく、細かく張り直す。新生の肉の脈動が勢いを増す。変化は竜の意志、または彼女の血の記憶が行わせているのだろう。私はその自律を尊重し、ただ道を整える。
女の姿が現れ始めたのは、顔が人の骨格を取り戻したときだ。鼻梁が形を変え、瞼が長くなり、まつげが伸びる。角は縮み、ただの飾りのような細い骨になって耳の後ろに隠れた。耳は尖らず、しかし完全な人のそれよりも鋭い。唇が薄く開き、小さな息が漏れる。その息の音は、さきほどの竜の息とは違う、人のものだ。
「どういう……つもりだ?」
私は独り言を言った。問いは竜にではない。私自身にだ。今、私がしていることは、救命か、佇まい修復か。答えは分かっている。情景だ。苔を救うためには原因を止血し、異物を片付けなければならない。結果として生命が救われるなら、それは……付随物だ。
「起きるな。まだだ」
呟きは命令ではなく、願いだ。しかし防壁はまた意味を空間に翻訳する。彼女の新しくなった肉体は、その意味の粒子を受け取り、筋肉を緩めた。呼吸が静かに整う。私は血の球の一つを手のひらの上でひょいと動かし、人肌ほどの温度に下げて、苔の上に陰影のように置く。影のように見える球は、しばらく地上に存在し続け、やがて土に吸われていく。私が選んだ場所だ。苔の根が薄い一帯。苔に負担をかけない。
しばらくして、竜の形は完全に女の形にまとまった。草の上に横たわる身体は、血の色で汚れた布を身にまとっているような状態だが、肌はほとんど汚れていない。封じが汚れを弾いたからだ。私の心はそれで少し落ち着く。身体の輪郭は滑らかで、骨の構造が健康であることを示す影のつき方をしている。髪は長く、鱗の残り香を含んだ黒と青の中間色だ。光が差すと、その髪の束の一部が薄く透け、私の用意した光の破片がそこで揺れる。
目を閉じたままの女に、私は片膝をついた。苔が潰れないよう、他の足の指で重心を支える。手の甲で彼女の額に軽く触れ、熱を測る。温度は正常に向かっている。呼吸は一定。血の臭いは皮膚からではなく、髪に少し留まっているだけだ。後で洗えばいい。いや、洗うのは苔だ。苔が吸った分の処理だ。髪のことまで私が気にする筋合いはない。そう思ったところで、私は自分の指に触れた肌の滑らかさを意識してしまった。道具として触れたものが、人のものとしての温度を持っていたというだけだ。
「汚した張本人に、苔の上で寝ていてもらうわけにはいかない」
私は小さく呟いて立ち上がる。女の身体を動かすにあたり、私はまず苔を守る。腰の後ろで指を組み、障壁の薄い浮床を作る。空気が薄く密度を高め、女の身体の下にゆっくり滑り込む。苔は潰れない。浮いた彼女は、私がゆっくり歩くと、その背後からついてくる影のように移動する。
血の滴下はもうない。しかし、染みは残っている。私はそれが我慢ならなかった。黙っていられない何かが喉を押し広げる。しばし、私は女を結界の浮床に乗せたまま、苔の染みの上に片膝をつく。手に布を持っていない。布の代わりに私の封じがある。私は指先で染みに触れ、そこだけにかける小さな降雨を作る。水滴は現れては消え、現れては消え、染みの中の鉄分とタンパク質だけを引き剥がす。苔の緑は徐々に戻り、白髭苔の毛はふわりと起き上がっていく。星苔はその段で光を戻すまでに時間がかかるだろう。私は星苔の待機に二日の光を計画する。光に含まれる青の成分を少し増やすべきか。いや、やりすぎると絹雲苔が焼ける。バランスだ。こういうときこそ、慎重に。
耳の後ろで音がした。小さく喉を鳴らすような音。浮床の上の女が、息を変えた。私は顔を上げる。瞼が震え、まつげが光を掬う。目が開いた。
その目は、人と竜のあわいにあった。虹彩が深い琥珀で、中心に黒い縦の線。動く光が縦の瞳孔に吸い込まれ、さらに細かい光が虹彩の縁に沿って踊る。彼女は視界を定めるのにほんの数秒を要した。目は、最初に光を見た。次に、光の向こうの空気の肌理を見た。それから、目の前の男を見た。
私は、苔を擦る作業を止めないまま視線だけで彼女を見る。私は自分の心臓の鼓動には興味がない。関心があるのは苔の具合だ。だが人一人が目を覚ましたという現実には、私の障壁は反応する。空気が少しだけ緩んだ。
「目が覚めたか」
言葉としてはそれだけだ。そこに柔らかさはなく、冷たさもない。淡い。感情の線は、その言葉に含まれていない。含めないようにしているのではなく、含めるべき意味がないと判断しているだけだ。
女は唇を一度開き、舌で乾きをなぞってから、声を出した。
「ここは……どこ、ですか……?」
声は細く、しかし耳に残る。風が拾いやすい音域だ。私は面倒に思わず答えた。
「死の森だ。だが、私の光幕の中、結界の内側の一角だ」
女はその言葉の意味を求めて、少し眉を寄せた。
「あなたが……助けたの?」
「止血した。苔をこれ以上汚さないために」
正直な言葉がときに人の胸を刺すことがあるとも知らず、私は本心を言う。理由は景色。動機は清潔。目的は整合。女は一瞬瞬きをして、それから、笑ったのか泣いたのか分からない微妙な表情を浮かべた。喉が小さく震え、息が少し変わる。目の奥が熱を帯びるのが見えた。彼女の視線は、私の手の動きにくぎづけになっている。苔の上に指を走らせ、汚れを剥がすその指。水滴を生み、消し、空気を撫でる指。防壁の糸を操るときの指。竜としての本能がある。あれは獲物を狩る手ではない。あれは巣を作る手だ。あれは風景に触れる手だ。あの手が自分に触れたとき、どうだった? 熱と冷たさの中間。規則正しい。体温の流れと一致する押し方。痛みを増やさない位置を選ぶ感覚。彼女は思い出す。眠りの中で身体を誰かに預けたとき、初めて恐怖を感じなかっている。
「あなたは……」
言葉は途中で消えた。言うべき語が多すぎて、一つに選べない。彼女は代わりに、私の衣の肩口に目を落とす。布の縁は真っ直ぐで、折り目は深く、縫い目は見えない。私自身の封じの線のようだ。布が私の動きに応じて揺れると、その揺れにも法則があるように見える。彼女の胸の内で、何かがゆっくり、しかし確実に芽を伸ばす。芽はやがて蔦になり、枝になり、森になるだろう。私の世界を守るという意志だ。私の世界と言うとき、その世界はアステリアの森という意味であり、私自身という意味だ。
「名前は?」
私は問う。苔を撫でながら。
「……エララ」
彼女は答える。名前は自分の内側から泉のように出る。言うべき相手を得たときだけ、名前は本当の音になる。エララは自分の名が自分の口から出るとき、自分の口よりも私の耳に入る音として、それが完全になるのを感じた。
「エララ。起き上がるな。まだ」
命令の形に聞こえるが、私の意図は苔の保護にある。起き上がれば苔を踏む。エララは従う。身体が重いのもあって、従う以外に選択肢はない。だが、従うことが、私の望みを叶えることに他ならないと感じられた。彼女の中で、従うという行為が、奴隷のそれではなく、伴侶のそれに変換されていく。私の望みに沿うことが、喜びとして蓄積されていく。
「私の血、これ以上落ちないように……してくれたんですね」
「ああ。苔は繊細だ。苔の毛は細い。毛の間にたんぱくが残ると腐る。腐れば匂いが出る。匂いは虫を呼ぶ。虫は配置が難しい。だから止めた」
淡々と、私はプロの説明をする。自分の美学を、ただの手順に分解して話す。エララは熱に浮かされながらも、その一言一言を舌で舐めるように味わう。「苔は繊細」。私の世界の中心にある言葉。私自身が繊細だ。私が苔に掛ける言葉は、将来彼女が私に掛ける言葉になる。「あなたは繊細」。今はまだ言わない。言えば、私が苔の方を優先してしまうから。苔と自分を、私にとって同じ棚に並べるまでは、待つ。
私は浮床を指示して、エララの身体を苔から少し離れた平らな岩の上へと移した。岩は温かい。日光の破片を溜めるように障壁が設定してある。そこに寝かせるのが最善だ。エララは身体の負担が軽くなるのを感じ、岩の熱を背中で受ける。温かさは安心であり、所有の予兆でもある。彼女は、この岩も、この苔も、この光も、この風も、私のものだと直感し、同時にそれらが自分のものになっていくのを想像する。私のものは自分のもの。そうした世界の姿を、彼女は頭の中で小さく紡ぐ。
「あなたは……この森を、ずっと……」
「ずっと、だ。死の森の心臓に光幕を置いてから、一つ一つ置き直している。風を調整し、光を篩い、水を配り、苔を植える。正しいものだけが正しい場所にあるように」
言いながらも、私の目線は血の濡れで色が変わった苔の一角に戻る。星苔は思ったより持ち直している。私は指先で光の当たり方を変え、光の粒を集めて星苔に当てる。
「あと二刻したら、微細なミルクの霧をかける」
私は計画を口にする。計画を口にすると、それが空間に溶け込み、実現に向けて動き出すからだ。光幕は私の言葉を行動に翻訳する。
「誰にも、汚させない」
エララが水に溶けたような声で言う。その声には高熱の煌めきが含まれている。言葉は彼女の決意の核心から出てくる。私の世界を汚すものを、彼女は焼くだろう。切るだろう。噛むだろう。血を吸うだろう。それが私の望みでなくても、私の望みを守るために彼女が勝手に定める望みだ。
「汚す者がいないのが理想だ」
私は答える。
「流れのない平面は苔を窒息させる。だが乱れすぎれば苔は剥がれる。重要なのは、許された乱れだけがあることだ。……君のことを乱れと言うつもりはないが」
そこに、私なりのユーモアがわずかに含まれていたかもしれない。だが、それを拾うのは、今の彼女には不可能だ。彼女はその最後の一言に、奇妙な喜びを覚えた。「乱れと言わない」。彼の世界の言語において、「許可」の外に置かれることは死に等しい。乱れでないと言われたことは、許されたことだ。許されたものは、内側に置かれる。内側に置かれるものを排除する者は、外側にある。「誰も、あなたの内側に傷を付けさせない」。この言葉を胸の内で繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、言葉は刃になり、刃は光る。
「君は何故、ここに」
私はまた仕事の手を止めずに尋ねる。理由を知れば対策が打てる。次に汚されないように。
エララは唇を湿し、目の奥に燻る怒りと痛みとを一つの球に丸めて、私に見せないように呑み込む。
「追われて……いました。外の者たちに」
「外の者」
「私が……竜であることを嫌う者。あるいは私を使いたい者。どちらも、あなたの苔を嫌う」
最後の言葉は、私に合わせた。私の世界の中心を守る言葉に変換した。私は彼女が言葉を選んだことに気づかない。
「追われたなら、しばらくここにいるといい。外の乱雑は、ここには入れない」
はっきり言えばよいところを、私はそう言う。彼女は微笑む。入れないのは、私の封じが強力だからだろう。だが、彼女はそれに加える。「入れさせない」。自分がここで目を光らせる。私の際引いた線に手を添える。誰が踏み越えようとしても、爪で切る。牙で断つ。血で染める。血で染まることを、苔の上でだけはしない。苔は汚さない。血は外で流す。
「私は……あなたに……守られるのは、嫌」
彼女は唐突に言葉を生む。私も苔も、眩しく、あまりにも整っていて、手を触れていいのか悩むほどだ。そこに触れることは破壊に違いない。だが、彼女は破壊ではなく保護の形で触りたい。
「私は、あなたを守る」
「守る必要はない」
私は即答する。
「ここには侵入はない。侵入があれば、それは封じの責任だ。責任は私が取る」
彼女の目が細くなる。私が無自覚でいることは彼女にとって有利だ。私が内側のものに無頓着であればあるほど、私の外側に向ける刀を自分が持つことができる。
「必要がないと言っても、私はする」
私は返答しない。返答に値しないと思うからではなく、苔の毛を一本、まだ立ち上がりきらないものを見つけたからだ。私は息を止め、指を伸ばし、毛の根元に微細な振動を与える。毛が、立つ。私はほっとする。世界が戻る。世界が戻ることは、私にとって呼吸に等しい。
「この辺一帯……漂白と洗浄、あとは光の調整。それから……」
私は呟く。自分のメモだ。光幕はその呟きを受け取り、私の代わりに淡い光の札を上空に並べていく。札は書かれた順に光って、やるべきことの順番を示す。私は札に頷き、ひとつずつを指でなぞる。指は、何度見ても規則的で、細い血管が淡い青に透けて見える。エララはその指を見るだけで胸が熱くなる。炎ではなく、光で炙られるような熱。私が札をなぞるたび、彼女の内側に糸が張られる。糸は私の指の動きと同じ速度で振動する。
「あなたの……手、きれい」
彼女は誰に言うでもなく、声にした。私は聞こえているのかいないのか、答えない。苔の薄い一角にまた空気の降雨をかけ、白髭苔の毛を乾かすための層流を作る。乾燥は敵だ。だが乾きは必要だ。湿りと乾きの間に、正しい波をつくる。私は波を愛する。波は苔に歌を教える。苔が歌えば、森が歌う。森が歌えば、私の心も歌う。
遠くで、何かが私の防壁に触れた。私は即座に顔を上げる。触れたといっても、押し破ったのではない。外側から触れただけだ。指で布を触れる程度に。それでも私は反応する。札の一つが赤く光り、触れた方向を示す。私はそれを見て、小さく息を吐いた。
「君は悪い状態で変化したため、しばらくは人の形でいるしかない。そのつもりでいなさい」
私は断定するように言い、予告するように告げる。エララは頷く。頷くという動作は、従うことを表すが、彼女の頷きは誓いでもある。私が不在のときでも、設計された空間で起こることに対応する者がいるという誓いだ。彼女自身が結界ではない。だが、防壁に牙を与えることはできる。
「ああ、それから」
私は浮床の制御を確認し、エララが岩から滑り落ちないように微妙に角度をつけるのだ。
「血の汚れは、君の髪にも少し付いている。洗う」
「……はい」
私が苔より先に彼女の髪に言及した事実が、彼女の胸に小さな鐘を鳴らす。私が彼女の中の何かを揺らしたわけではない。私の言葉が偶然、彼女の形に適合しただけだ。だが偶然は彼女には運命として響く。私の手が髪に触れる。障壁の柔らかい雨が髪の上だけに降る。血の分子は髪から剥がれ、私の球に吸い込まれる。髪は、水の重さで少し寝る。彼女は目を閉じる。私の手の動きを感じながら、竜の身体の奥に眠る火が穏やかにゆっくり熱を増す。火は誰かのために燃えるのが好きだ。風を与えられた火は、風の方向だけを見て伸びる。
「これで苔の匂いも戻るはずだ」
私が言う。私は、苔の匂いが戻ることに満足していた。彼女の髪の匂いがどうなるか、私は興味がない。だがエララは違う。苔の匂いが私の匂いだ。閉じた楽園の構成すべての匂いが、私の肌に触れて移っている。私の指には、苔の胞子の匂い、水の匂い、石の匂いがある。その匂いが彼女の髪に移る。彼女の髪は、私の匂いになる。彼女は息を吸う。肺の奥に私の世界をしまう。しまえば、それはいつでも取り出せる。独占ではない。共有だ。彼女はまだそこまでの言葉を持っていないが、身体はそれを知っているのだ。
私は最後に、折れた木の断面に目をやる。断面は見事な年輪を見せている。これはこれで一枚の絵だ。苔の上に散った木屑を取り除き、断面に薄い膜を張って乾燥を緩やかにする。虫が来ないように香りの防壁を薄く散らす。私は、整えたことの満足を自分に許す。
「よし」
小さな声で言う。視線を落として苔に「よくやった」と言うでもなく、言わないでもなく。
「これからが大変ですね」
エララが岩の上から言う。彼女の声は静かで、どこか甘い。私は顔だけ向ける。
「何が」
「あなたの苔。私の血で汚した分、倍、いや、三倍、世話をしなければならない」
「当然だ」
私は同意し、さっさと立ち上がる。
「その間、君は動くな。苔の上を歩くなら特定の道に限る。今から道を敷く」
私は足先で苔を傷つけないよう、空気中に目に見えない歩道を描く。薄い光の糸が地面の数センチ上を走る。エララの目には見えないが、彼女の肌は感じる。私の意図の引いた道が、空気の密度として存在する。私の引いた道以外を歩けば、私の顔が曇るだろう。私の顔を曇らせることは、この世界を曇らせることだ。彼女は頷く。
「私は……あなたの道だけを歩く」
小さく、しかしはっきりと宣言する。彼女の中に芽生えた蔦が岩に吸い付き、根を下ろす音がした気がする。彼女はその音を愛する。愛することを、自分に許す。
私は、彼女の言葉を半分聞いていない。
「血の汚れの掃除が先だ。漂白の……いや、漂白はやめる。星苔が弱る。ミルク霧と乾きの波で……そして香りの調律を……」
私は独り言を続け、札を増やす。札は風に揺れ、光る。地面は私の思い描く通りの色を取り戻していく。私は、苔が立ち上がるのを見て、わずかに口元を緩めた。笑みと言うほどでもない。だが、私の世界が正しい方向に進んでいる証拠だ。
エララはそのわずかな緩みを、見逃さない。私の顔に現れた、微かな兆し。私に喜びを与えるものは何か。苔だ。苔が喜ばせるのなら、苔を守ろう。苔を愛そう。私が苔に向ける目を、自分に向けさせるまで。苔の匂いを自分の髪に移すだけで満足している場合ではない。彼女はそっと、冷たく、熱い決意を胸に掲げる。私の世界の中で、私の課した線の上で、私を手に入れる。小さな王国の中で、小さな王国の法を用いて。
私は気づかない。私の世界は清冽な、私の仕事は終わりがない。終わりがないことは幸せだ。終わらないことは、私にとって完成の証明と等しい。私は指を湿らせ、苔の毛をもう一本起こす。柔らかい毛が立ち上がり、私にだけ見える光の中で、わずかに揺れる。
「これで、だいたい……許せる」
囁きは風に溶ける。風はそれを葉の裏に貼り付け、光が通るときに読み上げる。その光が、エララの横顔を照らす。彼女の目に光が入る。縦の瞳孔が光を細く切る。私の世界の光が、彼女の目の内部に印刷される。彼女は目を閉じる。閉じれば、その光は内側から見える。私の世界が、自分の胸に写る。胸の中の世界は、私の世界を守るために、毒も刃も糸も受け入れる。私の知らぬところで。
遠く、光幕の外の森がざわめいた。死の森の本性が、薄く、遠いところで牙を見せる。私は顔を上げる。札が少しだけ動く。風が新しい線を作る。私は笑わない。私の顔はいつもと同じだ。だが、指が動く。線が増える。
苔が、そこにある。私の世界が、そこにある。彼女が、そこにいる。
血の朱が、苔の翠に飲み込まれ、竜の眠りは人の目覚めに変わった。私の世界は、また一つ複雑になった。私は、それでも、苔の毛一本の立ち上がりに心を砕く。エララは、その毛一本にさえ嫉妬し、同時に愛する。愛することは、守ること。守ることは、排除すること。排除することは、私の世界の匂いを保つこと。私の世界の匂いとは、私の匂いだ。
私は最後に、空気に向かって軽く手を振った。掃除の終わった苔の上を、風がひと撫でしていく。風は指の形をしている。指は風の形をしている。どちらも私の形をしている。
「さて。次は、どうやって血の匂いを完全に消すかだ」
私の関心は最後まで、そこにある。彼女の目が私を射抜く熱を、私は知らない。知らないままで、私は一分の隙もない世界を整え続ける。彼女はその背中に熱を植え、私の歩く道を染め上げる計画を緻密に練り始める。
世界は静かだ。透き通っている。危うい。非の打ちどころのないように見えるものほど、割れることを彼女は知っている。だが、割れることを私は許さない。許さないことを彼女は喜ぶ。割ろうとするものが現れるなら、彼女は先に割る。割った破片を、彼女は苔に触れさせない。
苔は揺れ、光は降り、風は通り、私は指を動かし、彼女は目を閉じて私の匂いを吸い込む。理想通りの状態は遠い。だが、遠いからこそ、歩む道がある。道は私が引く。その道を、彼女は歩く。私が指示した通りに。私の指の動きの通りに。私の光幕の線の通りに。だが、心の線は彼女が引く。私の胸の内に、彼女の線がゆっくり、見えないほど薄く描かれ始めているとは、このときまだ、私自身も苔も知らない。




