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第1巻 第1章 追放と出会い(4)

「……目が痛む。色の暴力というのは、こういうのを言うんだろうね」


 アレスは足先で泥の端を押し、指先でわずかに空気の流れを測った。鼻孔を刺す金属臭に、舌の奥がひりつく。重たい湿気が肌にまとわりつき、耳の奥では低い唸りが続くばかり。上空は灰黒の雲が幾層にも重なり、光の角度という概念が失われた暗がりだ。


「足元の泥、重たく沈む音……嫌ね。踏むたびに靴が泣いてるみたい」


 隣でエララが小さく顔をしかめ、裾をつまんで一歩引く。真紅の髪が瘴気と逆方向へふわりと流れ、血よりも鮮やかに視界を刺す。彼女の視線は周囲ではなく、ほとんどずっとアレスの横顔に吸い寄せられていた。笑みは柔らかいのに、頬をなぞる指先の冷たさが、彼女の背後で揺らめく見えない尾の存在を告げる。


「赤紫の霧、ねっとり絡みつく音、腐りきった木。なんとも酷い構成だ。規則性がない。音も色も匂いも、全部が張り合って喧しい。……見苦しい」


「ねえ、焼き払う? 火は早いわ。風も乗せようか。灰にしてしまえば、ここよりましになる。貴方がそう望むなら」


 微笑みながら、エララはアレスの袖の縫い目をすくい取るように指を滑らせた。爪先には薄く力。言葉は甘いが、足元の泥が一瞬だけ凍った。


「それは却下。灰色の平面なんて退屈だ。三日どころか、昼食の前に飽きる」


 アレスは肩をすくめ、揺れる髪を耳にかける。彼の白い衣は汚れを拒み、風も熱も触れない。薄い膜の内側、呼気は軽く、肌に触れる空気は春の朝のように澄んでいる。


「ここは神に捨てられた場所、って人は言うけれど……」


「神がこの眺めを是としたなら、その神こそ無能な装飾家だ。私は容赦しない。私の美意識が許可を出さない」


 アレスは掌をひらりと返し、周囲を一瞥する。泥に沈む骨、粘る樹液が地面に落ちて焦げる音。どこか遠くで、赤子の泣き声に似た鳴きが重なる。見上げれば、樹木は苦悶の表情を固めた像の群れと見紛う歪み。吐き気を誘うディテールの連鎖。


「貴方の目が汚れるものね。ああ、もう……」


 エララは言葉を切り、頬を緩く上げた。黙って一歩近づき、アレスの手の甲に額を寄せる。次の瞬間、彼女の背後に薄氷の音が広がり、目に見えない霜の花が空気に浮かんでは消えた。


「落ち着いて」


 アレスは短く言い、彼女の髪に指を差し入れる。指先に絡む髪は滑らかで、掌に伝わる温度が微妙に上がった。


「ここを拠点にする。まずは隔離、次に清掃。……それから整える。順番を間違えると、面白くない」


「命令して。何でもする。手も口も、全部」


「君の炎は最後の手段だ。破壊は誰にでもできる。創り替える方が意味がある」


 アレスは一歩前へ。足元の泥は、彼が踏む前に音もなく固まり、白い足跡が凹むだけで形崩れしない。空気の匂いがわずかに変わり、鉄錆の刺す香りから、湿った木のような匂に移る。


「始める」


 声は低く、乾いた。アレスの両手が胸の前で重なり、指先が空中の見えない複数の線を撫でる。彼の周囲で透明な膜が厚みを増し、耳の奥で音が一度だけ弾ける。金属を爪で軽く弾いた時のような澄んだ音色。


「展開――サンクチュアリ」


 ただそれだけ。詠唱は短い。だが足元から走った銀の線が瞬時に広がり、幾何の花が砂に描かれる速度で大地一面に走った。螺旋、円、多角形。重なる線は呼吸のリズムに合わせて伸び、天へ柱が立ち上がる。膜が膨張し、半球の皮膚がぴんと張る感触が肌に触れた。


 重たい雲がその表面に触れた瞬間、焦げる音がした。紫の霧がぶつかり、白い光粒へほどけ、外側に跳ね返る。外周でうごめいていた異形が、目に触れる前に光塵になって散る。衝撃波が走った気配に、足元の泥がひと瞬き分だけ震えた。


「第一段階。境界線、確定。外界は黙ってもらう」


「静かになった……ふふ、耳が喜んでる」


 エララが肩を落とし、天へと視線を上げる。彼女の睫毛に光の粉が一粒落ち、すぐに溶けた。結界の内側は温度が変わる。頬に触れる空気が少しだけひんやりして、喉の奥に引っかかっていた刺が取れる。


「次。空気の中身を換える」


 アレスは指を小さく弾いた。何もない空間に目に見えない格子が走り、微小な立方体が重なる気配。彼の視線の動きに合わせて、霧の粒子が方向を揃える。匂いが変化し、鉄錆は消え、乾いた果実と若葉を混ぜたような甘い香りが広がる。


「毒は魔力粒子に。水分と結びつけて……光を持たせる」


 彼は短く説明しながら、結界内部の屈折を指先で撫でて調整した。霧は雪のように降りる。だが冷たくない。頬に触れて、光る粉はすぐに消え、舌先にはほんのわずかに甘味を残す。


「綺麗。貴方のやり方、いつ見ても背筋が震える。音まで澄むのね」


 エララの声は囁き。彼女は胸の前で手を組み、肩の力を抜いた。外縁に残っていた魔物たちは、声を上げる暇もなく薄く崩れた。肉の匂いは出ない。音もない。跡が残らない。アレスは瞬きを一つし、頷くだけ。


「掃除、完了。次は配置だ。ここからが面白い」


「見ている。全部」


 アレスの腕が、指揮者のそれに変わる。手首のスナップひとつで地面の水分が抜け、泥は白に転化する。表面は艶やか。指先で触れたら、冷たく滑るに違いない。空気中の砂粒は余計な角を落とされ、触れた音が柔らかくなる。


「この土、色がうるさい。濾す。不要な混ざりを外す。――白、決定」


 無秩序に伸びていた木々には鋭く薄い膜が走り、余分な枝と瘤が音もなく落ちる。残った幹は、見えない帯でぎゅっと絞り込まれ、円柱へ矯正される。木の内側から響くきしみが遠く寂しげに消えた。


「三ミリ右。……違う、もう一ミリ左。そうだ」


 彼は空間に淡い印を残しながら、木々の間隔を整えていく。足音が響かない。根は深く潜り、地表は乱れない。均整がとれていく。視線が滑っていく道筋が出来上がる。


「水が要る。鏡。空を映す面」


 アレスが軽く息を吐き、掌を下へ押す。大地の中心が静かに沈み、すり鉢の底に透明が集まる。先ほどまで毒だったものから濾し出された水だ。表面は動かない。風が通っても波を許さない滑らかさ。


「底、光を持たせる。反射の粒は……このくらいの間隔だ」


 彼は泥の中の炭素に視線を落とし、片手をひねる。圧がかかり、深部で小さな音が弾けた。はじけた先に、硬質な輝きが生まれる。無数の透明が、規則に従って底面へ敷かれていく。光が落ち、跳ね返り、天井の紋様が水面に映る。鏡が誕生。


「もう少し。白と青だけでは冷える。生きた色を置く」


「どんな色を載せるの? 濃いの、淡いの?」


「両方だ。配置して、光で味付けする」


 アレスは地面の随所に小さなドームを生み出した。内部で土が調味され、時間の針が早まる。芽がない場所に、緑が滲む。息をする間に蕾がふくらみ、弾ける音が耳の奥に微かに響く。


 弾けた瞬間、ドームが割れて香りが溢れた。真紅の薔薇は、布のように柔らかな光沢を持ち、花弁の縁で光を柔らかく折り返す。淡い黄金の百合は、自ら光を持つように揺らぎ、瑠璃の蘭は冷たい炎めいた彩を落とす。銀の小花が星の粉を撒くようにつぶやき、透明な葉を持つ未知の草は光を集めて水のように流す。


「赤、強い。影を深めて落ち着かせる。直接色を触るより、光で整える」


 アレスは極小のレンズを幾つも空中に浮かべ、角度をひとつずつずらした。ひとひらの花弁の影の濃さが緩み、隣の色が引き立つ。鼻先をくすぐる香りが互いに喧嘩しないように、空気の流れも微調整する。


「ねえ、その薔薇、少しこちらを向かせて。貴方が見る角度が一番似合う」


「了解。茎のしなり、五度。葉脈の角度、二度。……よし」


 時間が流れる。だが疲労という概念が、この場からは排除される。動くたび、空気が変わる。光が移り、視界の端に極彩が映る。遠くで、水面がかすかに呼吸をしている。


「貴方、今の動き、好き。指先が踊ってる」


 エララは頬杖をつき、アレスの手を目で追う。彼の視線の先で世界が形を得ていく様を、食い入るように眺める。彼女の靴裏の周囲だけ、薄く霜が降りた。


「……ここまで」


 アレスが小さく息を吐き、肩の力を抜く。周囲を巡る視線が、完成した輪郭をなぞる。白い大地。整列した柱。真円の水鏡。色と香りの庭。音は静かだが空虚ではない。空気の層が薄く重なり、歩けば靴底で軽い音が奏でられる。


「ふふ……ふふふ……」


 エララは膝から崩れ、アレスの足元へ身を沈めた。指先で靴の縁をそっと撫で、唇を寄せる。濡れた音は立てない。彼女は目を閉じ、涙を一筋だけ落とした。涙は白い床に触れる前に、空中で粒になり、消える。


「許されている、という感覚。ここにいられることだけで、胸がいっぱいになる」


「そこにいるのが当然だろう」


「当たり前、か。……嬉しい」


 彼女は顔を上げ、微笑む。視線だけで外を示す。結界の外縁では、なおも外界の影が蠢いている。音は届かない。だが動きは見える。彼女の笑みは崩れない。けれど、背中に走る冷気が強まる。空気が薄く割れる音。


「誰かがここに手を伸ばしたら」


 そこで彼女は口を閉じた。言葉の代わりに、指を一本立てる。立てた指先に軽い霜の白が宿り、次の瞬間、ふっと消える。彼女はただ小さく頷いた。


「頼もしい。けれど、ここを汚すのだけはやめてくれ。赤は場違いだし、掃除が手間だ。もし排除するなら……」


「外で。跡を残さない。分かってる」


 エララは息を吐き、頬を緩めた。アレスは彼女の髪を指で梳く。髪を滑る音がわずかに響き、掌に心地よい重みが集まる。


「さて、居住空間だ。庭が整えば、次は家。屋根の傾きは三十五度にしようか。いや、周囲の柱の高さとの釣り合いを考えると三十三が妥当かもしれない」


「入口は東向き? 朝の光、ここなら柔らかいわ。床の素材は、この白の延長?」


「入口は東だ。朝の光は水鏡を経由させて、壁に模様を走らせる。床は白の延長でいい。ただ、中央に薄い灰のラインを引いて、視線を誘導する。階段は浮かせる。影をデザインする」


「手すりの高さ、貴方の肘に合わせる? それとも私?」


「君に合わせると低い。二人の間に線を引こう。中庸が良い。……それと、窓は風を掴む角度で切る」


「風?」


「香りをちゃんと抱き込むには必要だ。庭の薔薇の匂いが室内で喧嘩しないように、吐き出す場所と吸い込む場所を作る。音も同じだ。水面の気配が、この室内では囁きに変わるように」


「調和、だね」


「一回だけ、そう呼ぼう」


 アレスは笑みを薄く浮かべ、顎に指を当てる。視線の先で、白い空間にまだ埋まらない余白がある。それを埋めたい衝動が、喉の奥に小さな塊となって居座る。


「柱、もう一本。ここだと視線がつまる。……よし」


「椅子は? どんな椅子にするの?」


「座面は低く、背は高く。背面は曲線。木目は横に走らせ、触れたときに手のひらが安らぐように。脚の付け根は強くしすぎない。座るとき、少しだけ沈む気配が必要だ」


「テーブルの角、丸める? 私、貴方の手に傷がつくの嫌」


「角は落とす。触れたときに指が滑るくらいが良い。鋭さは他に取っておく」


 会話の合間に、アレスの視線は庭を巡る。湖面は風を受けず、ただ天井の模様を映す鏡として存在する。色は多いが喧しくない。薔薇の陰に隠した小さな草が、彩度を緩める役を担っている。花弁の先を撫でるだけで色が変わるように、光の薄い膜が随所に浮いている。


「ねえ、アレス。あの外の連中、ずっと見てる。私の視界の端で、まだざわつく」


「放っておこう。境界の外だ。こちらに触れない限り、音にすらならない」


「うん。……でも、ね」


 エララは言葉を切り、口角だけ上げた。視線は柔らかい。指先は、見えない何かを軽くひねる動きをして、すぐに止まるのだ。


「何もしない。今は」


「賢明だ」


 アレスは短く答え、白の床に膝をついて手を這わせる。指先に伝わるのは、冷えと滑らかさ。目を閉じて、耳に集中。遠くの水面、花の重さが空気に沈む音、木々の間の微風が薄く布を撫でる音。余計なものが剥ぎ取られた世界の層が重なり、ひとつの場をつくっていく。


「……瑕疵、ないな」


 それは独白。彼の口元がわずかに緩む。場が整い、気配が座る。匂いは甘く、しつこくない。温度は肌が喜ぶ程度に低く、光は目を撫でる。音は遠い。触れるものすべてが、手のひらに正直だ。


「貴方の世界、怖いくらいに美しい。息をするたび、胸が苦しくなる」


「なら、息を浅くすればいい」


「そうする」


 エララは短く笑い、立ち上がる。スカートの裾を弾き、背筋を伸ばす。彼女の足取りは軽く、床の上で音を残さない。視線が一度、湖へ落ちる。水は鏡。鏡のこちら側と向こう側、二つの世界がそこにある。


「次は壁。光をどう遮るか、だ」


 アレスは立ち上がり、指先で空中に線を引く。新しい創造が始まる。外の暗闇など、彼には関係ない。彼の美意識が満たされるまで、この空間は変わり続ける。


 死の森の最深部。絶対的な死の領域の中心で、狂気の結界師は次なる『インテリアコーディネート』の構想に胸を躍らせている。


 彼の異常な美意識が満たされる日は、永遠に来ないのかもしれない。しかし、だからこそ彼は、この聖域を拡張し、寸分の狂いもない完成を求め続けるのだ。


 外界の絶望など意に介さず、ただ己の美学だけを追求するアレスの聖域建国は、今、この最悪の地で、そして華麗に幕を開けた。

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