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第2巻 第4章 失われる記憶(3)

喉の奥に金属の味。息を吸うたびに舌が痺れる。


結界の下、死の森の残響が削り直される。苔も朽葉も、死臭すら模様へと組み替えられ、夜なのに薄い光があちこちから立ちのぼる。露は葉の縁に無数の点を描き、ひとつ動けば音のない鈴が震えるような細い揺れ。風に勝手は許されず、指定の方向を与えられ、順序を守って枝葉を渡る。鳥影も獣の気配もない。


その静けさの中心。樹皮を模した白い石の台座に片膝を置き、アレスが見えない線を指で探る。指が空を掻くたび、触れた場所が一瞬だけ擦りガラスめいて曇り、すぐ透る。遠い光の落ちる速度が、ひと呼吸だけ長くなる。戻る。伸びる。戻る。指先の迷いと、庭全体の拍が重なる。


深い藍の上衣は乱れ知らず、靴先の苔の沈みも左右均一。横顔は穏やかで、眉間の皺ひとつ動かない。世界の端々を磨き続ける男の、作業中の面。


逆方向から、足を引きずる音。


ザイオンは肩のマントの裂け目からかすかな光を受け、乾ききらぬ泥の重さを引き摺って歩を進める。かつて栄誉の象徴だった剣は鞘ごと傷だらけで、手入れを絶たれた刃が薄星を歪に映す。額の古傷が白く浮かび、踝の割れた革から血が細く流れる。吐息が透明な膜に当たって弾ける。


結界に入った瞬間から、何かが彼の動きを複写して進路を少しずらす。露の列が弧を描き、別の道を提示する仕草。彼は踏みつける。踏めば露が星に崩れ、足跡が眺めの一部に吸い込まれる。


「……いた」


かすれた声。台座の影へ視線を固定した瞬間、心臓があの頃の拍動に戻る。腐朽した回廊で剣を交えた夜。砂嵐の谷で背を預けた昼。雪上で血を吐き、無理に笑った黄昏。その横で風景を整え続けていた横顔。ここへ来るまでに剥がれた時間の感覚も距離も痛みも、一度に返ってきた。


「アレス!」


名を呼ぶ。足元の露が小さく震え、光が薄く揺れる。


中心の男の動きは止まらない。指先を線の交点に置き、微細な歪みを矯めるように軽く擦る。遠くで草が一枚、沈む気配。星の落ちる間が意図通りの数へ戻る。


ようやくアレスが顔を上げた。視線はザイオンを掠める。観察の目。頭から足元まで往復し、眉がほんの少し動く。埃の粒の位置、縫い目の糸の曲線。誤差の評価。ひと息に凝縮された沈黙。


「……誰だっけ?」


穏やかな声。刃はない。ただ、本当に記憶に引っかからないものへの丁寧な距離。柔らかく、容赦のない無関心。膝が抜けそうになる。胸のどこかを握り潰された痛みが遅れてやってきた。


「俺だ。ザイオンだ。忘れたのか?」


自分の耳にも薄く壊れやすく響く声。


アレスは首を傾げ、もう一度ザイオンを見る。今度は瞳の奥へ。そこにあるはずの炎、誓い、凍てた冬みたいな頑なさ。探す。引っかかりがない。「ザイオン」という音列が台座の縁で滑る。


「さあ……人違いだと思うよ」


そして片手を軽く挙げる。


「そこを踏まないで。露の列が歪む」


足元ではなく、足元の配置を注意する人。指先ひとつで露が瞬時に並び替わり、先ほどの乱れを帳尻合わせする光。ザイオンの内側で何かがさらに崩れる。名を名乗っても、声は情景の欠陥としてしか届かない。


「どういう……ことだ」


半歩退き、腰の剣柄へ手を伸ばす。最低限の誇りとして、それに触れていたかった。彼はこの男の前では剣を抜かないと誓った夜がかつてあった。今は自分を証明しなくてはならない。


柄に触れた瞬間、指先に冷たい痛み。細い糸が巻かれたみたいな抵抗。力を込めると、針先の点が皮膚の内側で増える。剣を引き抜く軌跡は風の経路に組み込まれ、露の列がその軌跡へ揺れる。怒りも屈辱の身振りも、景色の一部へ編み込まれていく。


「抜かないで」


アレスの声は柔らかい。


「鉄の鈍い光が、今夜の星色と合わない」


お願いの形を取る確固たる禁止。手を止めるしかない。止めれば糸の痛みがふっと溶ける。見えない幾層もの膜が意志を無邪気に取りこみ、趣味へ替える。


大結界は拒まず、否定もせず、すべてを整える。侵入者の息も足跡も恥も怒りも、星降る図の区画として配置する。叫びは音程を整えられ、震えは葉の揺れと共鳴へ誘われる。


「本当に、覚えていないのか」


ささくれ立つ声。問いというより呪いの近く。


アレスはゆっくり首を横へ振る。


「私は、要らない縁を刈り込む。風情のために。君がどこかで私と交わったのだとしても——それはきっと、今見るものじゃない」


薄い霧めいた言葉。柔らかい響きの奥の硬さ。


刈り込む。その音を耳の奥で反芻し、ザイオンは唇を噛む。積み重ねてきた戦い、傷、勝利、敗北、笑い、涙、祈り、無駄にした夜明け。それらの全部がアレスにとっては不要な枝葉で、生垣の向こうに積まれているとしたら。ここでは自分の人生も一枚の枯葉に過ぎないとしたら。


その時、空気にわずかな熱の気配。


露の冷えに馴染んだ光の中へ、温度の違う輝き。足音はない。風に一層分厚い膜が重なる感触。背へ回り込み、すぐ後ろで端整に笑う気配。


「まあ」


甘く絡む、鋼線の張りを孕んだ声。


「ずいぶん無作法な来訪者が迷ったのね」


振り返らずともわかる。何度も彼は、彼女の吐息の焦げる匂いと、爪先に音のない歩みと、笑顔に牙の影を見ることを知っている。エララ——竜姫。細い金鎖を髪に絡め、深い緑の衣に身を包んだ人の娘の貌。肩の動きひとつで竜の翼の影が地に淡く掠れ、瞳は蜜めいてとろみを湛え、底に暗い渦。


彼女は迷いなくアレスの傍へ歩み寄り、肩に頬を寄せる。最小限の接触。それでも所有の証として過剰な仕草。


「そこ、露が」


「わかってる」


靴の先で露を壊さない立ち位置を調整し、柔らかい笑み。


「あなたの作るものは全部、私の胸より繊細だもの」


その笑みがザイオンへ向かう刹那、氷の冴えを帯びる。


「あなた、名乗りなさい。無名の影は庭を濁す」


ザイオンは唇を開く。何度名乗ってきた言葉だろう。世界がまだ彼を必要としていた頃、村の広場でも王城の階でも敵の老魔術師の笑いの前でも、この名で立った。今、音の輪郭が削られ、舌が異物に変わる。


「……ザイオンだ」


空気は嘲らず、ただ淡い。抑揚がこの場に似るように整えられる。エララは目を細め、ゆっくり笑う。


「あら」


軽蔑と愛撫を混ぜた声。愛撫はアレスへ、軽蔑はザイオンへ。


「落ちぶれた勇者の名を、まだ背負うのね。重さで足が沈むでしょうに」


指先でアレスの首筋の髪を整えつつ、視線はザイオンを刺し続ける。彼女は首を薄く傾げ、露骨に眉を顰めた。


「ねえ、早く追い出して。庭が曇るもの」


「騒がないで」


アレスはふたりの間に目配せすら置かず、空中の目に見えない線を再び探る。微妙な曲率の修正。音が重なれば光の落ちる間が乱れると、淡く口にする。


ここすべてが彼の意に沿うよう組まれている。ザイオンの存在すらも一部へと収まる。自分の影を踏んだように足が鈍る。


ザイオンは息をひとつ荒く吐いた。


「なあ、アレス。砂嵐の谷で俺は背中を預けた。覚えてるだろ」


「風は砂を運ぶ。私はその日、風の音しか数えなかった」


「じゃあ、氷の湖を渡った夜は。氷が鳴いた音に合わせて俺たちは歩幅を合わせた。俺は二歩目で滑って、お前が腕を引いた」


「冷たい音は好きだ。規則がはっきりする。私は、割れる予感を延ばすことに夢中だった」


「修道院で。鐘楼の下で地図を広げたとき、お前は笑った。俺が方角を間違えて、僧の子供たちが笑い転げて——」


「地図は今も美味しい。線の交差に舌触りがある。笑い声は風に紛れて消えた」


「なら、俺の剣の重さは? お前が左手で柄に触れて言った、『重みの位置がずれてる』って。俺は重心を直した」


「重さは数えられる。言葉は数に含めない」


「お前が——お前が俺の背に手を置いた夜があった。雪の中で火が消えそうで、お前は星の位置を変えた。ほんの少しだけな」


アレスの指が一瞬止まり、露の列がわずかに息を合わせ損ねる。星の落ちる間が伸びる。戻らない。


エララの指先が動く。空気が細く弧を描き、ザイオンの喉に冷たい襟が置かれた感覚。囁きが耳の奥に無音で届く。蜃気楼の熱のような微かな発熱を伴って。


「やめなさい」


甘い声。穏やかさの下で、針が光る。


「この人の耳に入らない音は庭が飲む。知らなかった?」


比喩ではない。ここは音の質を選り分ける。時間と響きが均され、光の粒の隙間に間合いを設定する。許されない音は星屑の音に吸い込まれて輪郭を失う。名も消える。


「アレス。なぜ、俺を忘れた」


求めるのは針の穴ほどの隙間、渦の中心の静けさ。そこに声を落とせたなら。


アレスは少しの間、動きに間を置く。天幕へ視線を上げる。この庭の天は数が決まった光だけを吊るし、どの密度なら目を奪うかを知っている瞳。呼吸ひとつ。


「忘れたのではない」


氷の薄片のような声。


「最初から正しい位置に、置き直しただけだ」


「正しいって、誰の正しさだ」


「私の視界の正しさ。ここに立つ者の責任」


「じゃあ俺は、どこに置いた」


「外。風の側」


「勝手に外へ置くな」


「勝手ではない。刈り込むと決めた」


「庭を守るために、記憶を切るのか」


「音が濁ると光が落ちる間が狂う」


「光の間なんて知ったことか。俺は人間だ」


「それでも数は動かない」


ザイオンは笑う。音が薄く吸われる笑い。目を閉じると睫毛が頬へ触れる感触だけが残る。影が長く伸び、光の落ちる角度に合わせて微妙に形を直され、芝地に描かれた黒い絵へ変貌する。


エララが一歩踏み出す。滑るように軽い足取り。草が光の跡を背後へ残す。翅の影が樹皮に浮かび、露がそれを映して震える。手を伸ばし、触れる寸前で止まり、空気だけが触れ合う。その震えが刃になる。


「まだ剣を抜く気?」


微笑は崩れない。


「それとも、このまま消える?」


ザイオンは剣から手を離さずに、逆に柄を握り直した。


「消えはしない。名を取り返しに来た。俺の名は庭木じゃない。勝手に刈って積むな」


エララは目を伏せ、喉の奥で小さな笑いを転がす。指先で露の粒をなぞり、ひとつだけ動かす。乱れは出ない。代わりにザイオンの呼吸の間が変わる。


「名を掲げるものほど、ここではよく迷う」


「迷うのは、お前が道標を隠すからだ」


「道標はある。見えないだけ」


「なら見えるようにしろ」


「見えないくらいがちょうどいい」


アレスが小さく息を吐く。その吐息に星の間が一つだけ合わせ直されていく。


「ザイオン。君はなぜ来た」


「呼ばれたからだ」


「誰に」


「お前の欠落に」


「欠落はない」


「ある。お前は自分で自分を穢せない。だから他人を刈って、白い所に積む」


アレスの視線がわずかに揺れ、また固まる。


「私は穢すことを好まない」


「だから忘れるのか。忘れれば穢れないから?」


「忘れるのではない。線を引く」


「線の外に俺を置いておいて、それで次に会ったとき『誰だっけ』で終わらせるのか」


「終わらせたい」


「終わらせさせない」


エララが指をぱちりと鳴らす。鳴ったはずが、音が鳴らない。代わりに葉が揺れ、露が一粒だけ落ちる。


「もうたくさん。庭は夜を続けたいの」


ザイオンは一歩前へ出る。結界が足裏の力を吸い、姿勢を整える。その整えに抗って、身体がきしむ。


「アレス。俺はお前を信じた。あの回廊で剣を合わせたとき、お前は言った。『私の背は庭じゃない。人の背だ』って」


アレスのまぶたがわずかに震える。指が空中で見えない結び目を撫で、解ける。星の間がまた一つだけ長くなる。


「そんな言葉は、風に混ざった」


「風は覚えてる」


「風は通り過ぎるだけ」


「じゃあ俺は風じゃない」


「なら、何だ」


「人だ。お前の隣に立った。血を流した。息を吐いた。名前で呼んだ」


「名は数に含めない」


「お前の数など知るか」


エララがザイオンの喉元へ手を近づける。触れぬ距離で、空気だけが皮膚へ押し当てられ、鎖の幻が冷たく掛かる。彼女の瞳がとろみを増し、底の渦が濃くなる。笑みは柔らかいままなのに、爪の白さが微かに増す。


「帰りなさい。夜はあなたの歩を数えない。ここでは息も歩幅も私たちのものよ」


ザイオンは首を振る。


「帰らない。聞け、アレス。俺が持ってるものを一つ置いていく。忘れられないものだ」


「必要ない」


「必要があるかどうかは、お前が決めることじゃない」


「ここでは私が決める」


「決めない場所もある」


エララが笑う。


「外の話を持ち込むなんて、退屈ね」


「退屈してるのはお前のほうだろ」


エララの笑みが薄く傾く。彼女は片手でアレスの袖口を掴み、爪先が白くなるほど布地を押さえる。それをすぐに離し、何事もなかった顔で露の列を直すような指先の動き。


「早く片付けましょう。星の間が狂う前に」


アレスが頷く。


「頼む。あの間は今夜の目印だから」


エララが一歩踏み込み、ザイオンの前。彼女の影がザイオンの顔に触れる距離。息を飲む音すら庭に吸われる。


「最後の問いを許すわ、落ちた人」


「俺は、落ちてない」


「問いは?」


「アレス。お前は自分の庭に、ひとつだけ汚れを置けるか」


「置かない」


「なら、お前が汚れろ」


「汚れは数えられない」


「そうやって逃げるのか」


「逃げない。決める」


「決めるなら——俺をもう一度、名前で呼べ」


沈黙。露の一粒が落ち、芝へ消える。星の落ちる間が呼吸ひとつ分だけ伸びる。アレスの口元がわずかに動き、止まる。目の奥を何かがかすめ、また沈む。


「君」


「違う」


「侵入者」


「違う」


「風」


ザイオンは息を吐く。肩が落ちる。


「そうか。なら、そうだと思うといい」


エララが指を軽く振る。地面の露が弧を描き、ザイオンの足元に道を敷く。結界の縁へ向かって伸びる、細い消色の道。


「出なさい」


「嫌だと言ったら」


「息が続かなくなる」


「お前が止めるのか」


「庭が止める」


ザイオンは剣から手を離し、空を見上げる。数が決められた光。指でなぞると届く距離に見える光。彼は静かに首を垂れ、背を向ける。踏み出すごとに結界が足の形を整え、姿勢を真っ直ぐへ導く。その矯めに反発しながら、一歩ずつ縁を目指す。背中に冷たい層が重なり、離れるほど密度が薄くなる。露はまた形を整え、音の間はきっちり数へ戻る。


歩きながら、彼は口を開く。背中に向けて。


「アレス。俺はまた来る」


「風は戻らない」


「風じゃない」


「なら来ればいい」


「来る」


「来ればまた数える」


「ああ、数えてみろ」


「数に入らなければ、消す」


「消させない」


エララの笑いはもう背に届かない。アレスの指だけが、彼の背へ淡い影を落とす。


やがて、世界が戻る。汚れた森の匂い。獣の気配。風が勝手に吹く音。先ほどの静けさは、まだ内側に残る。忘却の冷たい印が心臓の左側へ押される。この印を消すには剣では足りない。名を奪い返す必要。彼はそう思う。


——


庭の中心。アレスがひと息を落とす。エララが髪の乱れを直し、頬へ唇を触れさせる。彼は頷かず、目を閉じる。先ほど一瞬引っかかった小さな不揃いの粒が、頭の中で還元される。名の形をした不揃い。どう扱うか、彼の規準は揺れない。刈り込み、整えて、見えないところへ収める。それが彼の正義。刈り込まれたものが別の芽へ変わることを、知らない。あるいは、知っているふりをして無視するのか。


「ねえ」


エララの声にやわらかな棘。


「あんな影でも、あなたへ近づくのね」


アレスは目を開き、光の落ちる角度を測る。


「風はどこからでも吹く。彼が風なら、通り過ぎるだけだ」


軽い言葉。軽いのは表だけ。


エララは満足げに笑う。笑いながら、袖口の微細な乱れを直す指先が一瞬止まり、爪の先が白くなるほど布を掴む。それから何事もない顔へ戻る。


「そう。通り過ぎるだけ」


穏やかな声。


「ちゃんと通り過ぎるといいわね」


露が落ちる。光の落ちる音が一分の隙もない間で続行される。アレスの指が踊り、その踊りが世界を均す。ザイオンの影は、その踊りから意図的に外へ置かれる。外へ置くことすら意匠。


夜は深くなる。結界の膜はさらに透明になり、月が透ける。アレスはまた光の落ちる角度へ手を加える。理想へ近づく。それが彼の狂気の形であり、救いの形でもある。

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