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第2巻 第4章 失われる記憶(2)

甘い匂いが肺の裏を撫でた瞬間、ザイオンは足を止めた。


「……花、か」


 喉が勝手に動く。言葉にしないと、匂いの現実味に飲み込まれそうだった。ここまでの道で、鼻腔に残っていたのは腐りの湿度と血の鉄。沼の底から上がってくる冷たい瘴気、膨れた獣の肉、虫の殻、黒い樹液——そんなものばかりだ。


 なのに、いまは甘い香り。乾いた鐘の音の残響みたいに澄んだ気配。


「場違いだな」


 半ば欠けた刃に手を添え、彼はその剣に重みを預けた。元は聖剣。かつて王都の大聖堂に掲げられ、祝福の光を浴びた剣だ。今は泥で鈍り、革巻きは破れ、柄は汗と血でべとつく。鍔の青玉は割れて片側だけ。物語に出てくる聖具の名残を辛うじて持つだけの鉄塊。


「笑えるだろ……これでも勇者の象徴だったんだ」


 甲冑は裂け、肩当てが無く、靴に血が滲む。足を動かすたび、中でぬるりとした感触が踵を撫でる。鏡でも見なくてもわかる。頬は落ち、髪は泥で黒ずみ、髭は伸びっぱなしだ。


 勇者ザイオン。かつて、そう呼ばれた男。


「勇者ね……」


 自嘲が口の端で乾く。笑いの音は出たのに、胸の奥は動かない。


 壁のように続いた黒い樹々が、ふっと切れた。そこから先だけ、世界が別だった。足元の泥は途切れ、白い砂利の小道が緩やかに続く。踏むと星砂みたいに光を拾う。左右には銀葉の低木が揃い、葉の縁が研ぎ澄まされたように整っている。枝は互いに触れず、孤立もせず、規則に従って息をしている。


「ここが……噂の」


 視線の先に、庭が開ける。


 泉。芯から細い水柱が上がり、落ちる水が鈴の音のように響く。響きは周囲に溶けて、うるささにならない。白い花が輪を描き、花弁の開き方まで揃っている。作り物めいた気味悪さではなく、選び抜かれた姿だと訴える静けさ。


 そしてその奥、なだらかな丘の上。


 白。


 城。


 アレスの居城、と人が呼ぶ場所。


「……」


 噂は鼻で笑ってきた。美だの何だのが腹を満たすか。結界師など前線に出ない臆病者の仕事だ。だが、目の前の白は簡単に否定できる色ではなかった。月光とも雪とも違う、温度のない白。尖塔が空を切り、先端の結晶が光を砕く。蔦でさえ行儀が良く、窓の青い硝子が澄んだ空を映す。死の森の鉛色ではない。城の上だけ、金の薄膜が張られたように明るい。


 光に撫でられ、壁面が呼吸している錯覚。


「……なんだ、これ」


 白砂の上に落ちた呟き。足を出す。泥の靴底が白に黒い印を刻む。その瞬間、背の芯を針で触られたような寒さが走った。風はない。空気は穏やかだ。なのに、その黒い足跡一つが、世界の均し方に無記名の線を引いた。


「俺が、汚点か」


 唾を呑む。喉が焼ける。


 数日前まで、彼は思い込もうとしてきた。王都を「一時的に」離れただけ。民は忘れていない。「一部の貴族」が歪めただけ。仲間は去っていない。「事情」があっただけ。聖剣は鈍っていない。「本気」を出していないだけ。


 薄い布で、薄くなった誇りを覆う。


 ここでは布を剥がされる。隠し場所が光の角度で消える。


「アレス」


 城を見上げて、名を吐いた。死の森を封じた男。結界で世界を整えたと讃えられる者。泥にまみれた者の歌より、塔から張り巡らせた術が話題になる昨今の主役。


「ふざけるな……」


 歯を合わせる。血の味。どれほど夜を越えたか。どれほど傷を抱えたか。その全てを一枚の見目に塗り替えるのか。人々よ、泥と血の手触りを忘れるのか。


「俺は……俺は勇者だ」


 かつては火種になった言葉。いまは空気を押すだけの音。


 白い花だけが揺れた。


「会わせろ」


 誰にともなく言う。


「アレスに会わせろ。俺はまだ終わってない。……証明する。勇者が」


 言葉を切り取るように、香りが変わる。花の甘さの底に冷たい金気。血に似て非なる匂い。竜の寝床で嗅いだ、古くて新しい熱が混じった匂い。


 階段の手前、白いアーチの影。


 誰かが立っていた。最初は彫像の延長だと思った。動かない。空気の層が、その周りだけ変わっている感覚。


 女。


 少女と呼ぶには気配が濃く、女と呼ぶには若さが過ぎる。髪は夜明け前の藍。光が走るたび、薄く虹が差す。額の左右から白銀の角。表層に細い紋が刻まれ、淡い光が流れている。


 紅い瞳。宝石の内側に小さな炎が燃え続けているような赤。吸い込まれる色。肌は雪みたいに冷たそうで、唇は薄桃。衣は白と淡紫の絹の重なり、銀糸で星の模様。揺れれば音の無い波。


 視線が肌を刺した。


「……誰だ」


 剣を上げようとして、肩が悲鳴を上げる。刃が持ち上がるだけで痛む。


 女は返事をしない。首をわずかに傾けた。髪が肩を滑り、角に光。無垢な仕草。だが、目の底が固い。


「あなた」


 鈴を転がしたような声。庭の水音に溶ける柔らかさ。なのに背が粟立つ。


「ここへ、どうやって入ったの?」


「門が……開いていた」


「門?」


 紅の焦点が彼の足元に落ちる。白い砂利の上に、黒い足跡。ザイオンも視線を落とす。靴底の形が恥の形に見えてくる。


 女の唇が弧を描く。笑ったように見える。喜びではない。怒りでもない。瞳の奥で何かが密かに凍りついた。


「ああ」


 小さく息が動いた。


「汚れているの」


「何だと?」


「あなたの足。服。髪。剣。息。視線。輪郭。全部」


 静かで硬い声が侮辱を減らしも増やしもしないまま真ん中に置いた。頬が熱を持つ。


「アレスに用がある。退け」


 紅が細くなる。


「その名を、あなたが?」


 その名を口にした途端、声色が蜜を含んだ。紅い瞳が濡れ、頬に朱。指先が胸元に添えられ、何か大事なものを守る仕草。


「あなたが、その名を」


「そうだ。俺は勇者ザイオン。あいつと話がある。結界のことも、森のことも——聞かせてもらう」


「勇者」


 彼女は言葉を舐め、形を確かめる。


「聞き覚えがある響きね。昔、人間の酒場で賑やかに流れていた言葉。誰かを斬った話や、竜に挑んだ歌に添えられる飾り」


「飾りだと?」


「だって、言葉が先に踊るでしょう」


 ふわりと微笑む。庭の淡い光が頬に乗る。


「世界は——整えられるべきものだと、わたしは知ってる。なのにあなたたちは血を撒き、泥を跳ね、声を上げて壊す。そして壊したものに名前をつけて歌う。騒がしいの。見苦しいの」


 手の中の柄が音を立てた。かつての握り方の癖だけが残っている。


「何者だ」


「エララ」


 名乗りは短く、はっきりと置かれた。ザイオンの記憶が拾う。竜姫エララ。アレスの傍らにある竜。国を焼ける力を持ちながら、なぜか結界師に寄り添っている女。噂。傍に近づいた女が消える。貴族の屋敷が跡形もなくなった。庭に無断で入った商人が骨で見つかった。どれも影で囁かれる名。


「竜姫、か」


「ええ」


 軽く頷く。


「アレス様の竜。影。爪。炎。あの方が眺める世界が澄んで見えるようにする役目を、わたしは持っているの」


 信仰の温度より濃いものが声に混じる。それが熱か凍えか判断できない種類の温度。ザイオンの首筋を冷たい汗が落ちた。この相手は交渉で譲る領域を持たない。価値の中心が一人で埋まっている。


 一歩。彼女が階段を下りる。音はない。なのに世界がわずかに沈んだ。肩に重み。花弁が震え、水面に小波。人間ではない圧。


 竜。


 眠る山の支配者。吐息で森の色を変える存在。その血が、静かに流れている。


 剣を構える。腕が震える。疲労だけのせいではない。


「止まれ」


 低く言う。


「それ以上は、斬る」


「斬る?」


 真顔で首を傾げるその無邪気さが、嘲りより恐ろしい。


「俺を甘く見るな。落ちぶれたって、戦ったんだ。竜ともだ」


「そう。よくある思い違いね」


 小さく頷く。


「かすり傷をつけられたからって、自分が届いたと思う。血が落ちたのを見たからって、距離が無くなったと錯覚する。虫に刺されたからって、人と虫が並ぶことにはならないのに」


「黙れ!」


 踏み込む。白砂が跳ね、泥が散る。欠けた刃が鈍い光を引いて弧を描く。昔なら雷。いまは記憶が筋肉を引く。痛みを噛み殺し、軌道に心を貼り付ける。


 届かない。


 避けない。彼女が指を少し持ち上げただけで、空気が鉄になった。


「……っ」


 喉で潰れた音。見えないものが全身を縫う。腕も脚も動かない。振り下ろしの姿勢のまま針で止められた。骨がきしむ。傷が開く。呼吸が薄くなる。


 見上げるエララの表情に怒りはなく、あるのは——庭に落ちた腐り果てた果を見つけたときの、純粋で揺れない嫌悪。


「やっぱり」


 囁き。


「散るのね。あなたが動くと、泥も血も息も音も、全部が線を乱す。ここは、余計な線が嫌い」


「ぐ……っ」


 光が昔の祝福を思い出そうと刃を震わせる。蛍の瞬きほどの頼りなさ。圧は揺るがない。


「あの方は」


 彼女はゆっくり歩み寄り、宙に縫われたザイオンの前に立つ。香りが近づく。花と炎と古い鱗。美しいのに、恐ろしい。


「この場所を大切にしているの。朝の光が尖塔に触れる角度も、風が薔薇を撫でる強さも、泉の音がどの廊に届くかも、全部考え尽くされたもの。ここは——あの方の美意識が、形になった場所」


 白い指が頬に触れた。冷たい。泥がその指に乗る。それを見た紅が一度だけ大きく開く。


 世界が軋んだ。目に見えないはずのものが質量を持つ。胸に重い杭。腹の内側に鈍い爪。心臓が一拍、忘れる。喉が閉じて、舌が痺れる。視界の端が黒く滲む。


 微笑みが消える。そこに立つのは人の形をした竜。


「汚したのね」


 低い声。


「わたしに触れさせた。この手は——あの方の頬に触れるかもしれない手なのに」


「お、俺は——」


「喋らないで」


 それだけで声帯が固まる。魔か、ただの気迫か、判別の意味が無い。


 汚れた指先を見つめる。眉が寄る。唇がわずかに震える。悲しみにも怒りにも似た何かが、静かに光る。袖から薄い布を取り出し、指先を拭う。何度も。泥はとっくに落ちたのに、なお動かす。布に灰色が移ると、それを見て、指先で火を生む。


 布は一瞬で灰。灰は地に落ちる前に光に消える。


「処分しないと」


 庭師の独り言の温度で呟く。


「見せたくないの。あの方に。視界に入る前に片付けるのが、わたしの役目」


 圧が強くなる。骨が悲鳴。聖剣が落ちかけるが、指まで縫われ、落とすことすら許されない。睨もうとしても、視線に力が入らない。恐怖が怒りを飲み込む。


 ここで終わる。アレスに会う前に。終わりの仕方すら与えられない終わり方。血も灰も足跡も許されない消え方。歌にもならない。


「……」


 歯を食いしばる音さえ出ない。


「あら」


 彼女は小さく笑う。


「怖い顔」


 答えられない。


「面白いの。勇者と呼ばれたのに、その目を持つのね」


 白い爪が胸当てを撫でた。鋼が紙のように裂ける。冷たい空気が肌に触れた。


「薄い」


 一言。それだけで刃より深く刺さる。


 黙れ、と叫びたかった。戦ってきたのだ、と。誰かを待っていたわけじゃない、と。泥の中で剣を振ってきたのだ、と。


 心の底から別の声が上がる。本当にか。誰のために。称賛は欲しくなかったか。名を守るために剣を握っていなかったか。アレスを憎む理由は、その男が世界を救ったからではなく、血を見せずに讃えられたからじゃないのか。


 磨かれた白の中で、胸の底の濁りが露わになる。


 エララは彼の葛藤に関心を向けない。ただ準備を進める。背に紅い力が揺れる。炎の類に似ているが濃い。竜の吐息が形になり、薄い影の翼が広がった。


 花が一瞬しおれかけ、すぐに持ち直す。庭のどこかに張られた見えない網が淡く光り、熱を抑える。泉の水面が再び滑らかに戻る。竜姫の力にも風景を優先する網。ザイオンは愕然とする。彼女の息ですら、この場のルールに収められるのか。


「大丈夫」


 やわらかな声。


「痛むのは短く済ませる。声も上げさせないようにする。血は落とさない。灰も残さない。あなたの足跡はすぐ洗う。夕方の西庭の光が綺麗なはずだから、景色を壊したくないの」


 頬に薄い朱を差し、城を仰ぐ。その目は夢を見ている。


「今日の光の入り方、褒めてくださるはずなの。『よく保ったね』って。ね、それを聞けるなら、ひとつの汚れを片付けるくらい、何でもないでしょう」


 胃の底が冷える。自分の命が、誰かの褒め言葉のための掃除に換算される。それが当然の算術として扱われる。


 紅い瞳が戻る。


「教えておく」


 囁く。


「ここは大結界の中心。いちばん透き通った場所。いちばん汚れが似合わない場所。壊れて濁って、過去に縋るだけの人間が立つ場所じゃないの」


 脳裏に灯がともる。ここが鍵だ。森を封じたやり方。清浄が成立している理由。すべての答えがこの白に埋まっている。


 死ねない。自分の物語はここで終わらせない。名を持つかどうかは今ではどうでもいい。あの男に会って、決着をつける。それだけが残っている。


「……っ、あ」


 喉を無理矢理震わせる。音にならない。


「まだ?」


 初めて、彼女の声に軽い苛立ちが混じる。


「広げるつもり?」


 指がわずかに動いた。山を押し返すほどの努力で、爪の幅だけ。刃先が震え、目に見えない空気に細い光の亀裂を刻む。


 紅から温度が消える。


「しつこい」


 置かれた言葉の次に、気配が跳ねた。炎ではない。存在を抑え込む圧だった。白い花が一斉に伏せ、泉の水柱が止まり、光が赤を帯びる。背後に竜の幻。巨大な翼、長い首、角、星を焦がすような眼。咆哮はないのに、魂だけが震える。


 死の文字が皮膚の内側に書かれる。


 ザイオンは悟る。ここは白の聖域の門ではなく、聖域を守る最も冷たい罠の前。


 彼女が右手を上げる。白い指先に紅い光。小さな火種に見えて、彼には太陽の欠片。放たれれば、痕跡は残らない。骨も、血も、名も、後悔も。白のために消える。


 光の向こうで、城が静かに輝く。近くて遠い白。そこにあの男がいる。世界を塗り替えた結界師。端正な光景に命を賭ける者。


 会う。会わなければ、何も終わらない。


「さようなら」


 エララが微笑む。紅い光の縁が白の光を喰い、空気が一瞬鳴った。


「落ちぶれた勇者。あなたは、あの方の景色に要らないの」

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