第1巻 第4章 神霊野菜と崩壊の始まり(2)
朝の光が、結界の天蓋を斜めに射抜く。薄い膜を幾重にも重ねたような空が、光をほどき直して七色をつくる。珊瑚の淡い橙から、藤の花を押しつぶしたような紫、そして水底を覗くときの青緑へ。境目に指を当てれば、指先に色が冷たく触れるのではないかと錯覚するほどの滑らかな移ろい。
白亜の館のテラスに立ち、アレスはその角度を測る。頬に当たる風は乾き、木肌の匂いが弱く残る。遠景の雲はひと束だけ歪んでいる。そこに目が止まる。
「……二度」
彼は空に向けて指を鳴らした。乾いた音。遠くの雲が、目に見えぬ糸で引かれたみたいにわずかだけ並びを変える。外界に知られぬように貼りめぐらせた偽装の膜が、微細な命令を受けて呼吸を整える。
「よし」
息を吐く。胸の内側で、小さな石が定位置に戻る手応え。世界がひとつ噛み合った音がした気がした。
「アレスさま」
背中にひとつ、鈴が落ちた。振り返る。回廊の影から、白い足首が光の縁に触れるように現れる。エララだ。彼女は今日も人の姿を選んでいる。長い黒髪に朝の色が泳ぎ、髪の間に生まれた細い光の糸が、彼女自身の体温でゆっくりほどけていく。
両腕に抱えた布の塊が、朝霧を抱えたみたいに柔らかく揺れた。
「起こしてしまうかと迷いましたの。眠っておられるお顔が、とても穏やかでしたから」
「起きてた。今」
「ええ、わたしは少し前から。扉の前で、ね」
彼女が言う。肌の上を指でなぞるような調子。アレスは眉を上げる。
「いつからだ」
「星がほどけ始める頃から。鳥が最初の音を落とすより、少し前」
ためらいのない返事。罪の匂いもしない。そこにあるのは、朝の温度だけ。アレスは肩の力を抜いた。
「次からは、ノックしてくれ」
「それで眠りが乱れたら、どうしましょう。わたし、しばらく動けなくなるかもしれません」
彼女は冗談めかして唇をすぼめ、すぐに笑う。その笑みは、見ているこちらの喉の奥に微細な氷片をひとつ残していく。
「それより」
エララはテラス中央の石卓に近づき、抱えていた細い絹の束を丁寧に置いた。包みを解く指が、まるで蕾を開くみたいに遅い。布の層がほどけるたび、指先の動きに微かな反射光が追いかける。最後の一枚を外すと、黒が現れた。
アレスは視線を奪われる。
黒はただの黒ではない。深い夜に手を差し入れたときの感触に近い。表に浮く銀の縫い取りが、空の星図を丸ごと裁ち取ってきたみたいに胸元から袖口へ広がっている。肩から落ちる長いマント。その裏地は、この結界の朝焼けを握りしめ、色が逃げないうちに閉じ込めたような薄い紫。触れずに見ているだけでも、糸がどのくらい細いかが喉の奥でわかる。
「……」
音にならない息が漏れるのを、自分で聞いた。
「どうぞ」
エララは視線を上げずに言った。自分の動きと布の反応だけを見ている手つき。期待が音を立てぬよう、息継ぎの場所まで決めてきたのではないかと思うほどの整い方。
「着て、ね。アレスさまのために、わたしが織ったの」
「織った?」
「糸から」
彼女が布の端に指を沿わせる。銀の糸が軽くうねり、指の熱を吸い上げて発色が一瞬だけ濃くなる。
「一本ずつ。わたしの鱗から」
アレスは手を止める。空の構造が一瞬白紙に戻る感覚。耳の後ろの皮膚が冷える。
「鱗を……。エララ、それは君の」
「だからこそ」
小さく、覆いかぶせる声。
「肌に触れるものは、まちがえたくないの。見知らぬ糸なんて、からだが拒むでしょう?」
彼女の指が襟元を示す。柔らかく弧を描く銀の針目。縫い目は線の概念から逃げている。どこからどこまでを一と思えばいいのか、目が迷う。職人としての脳が、それを分析するより先にひざまずきたがる。
「竜の鱗は、簡単に……」
「簡単じゃないから、意味があるのかもしれません」
彼女は微笑んで、視線をアレスの手に落とす。手の甲の薄い血管まで見ているような距離。
「街でね、みんな見ているの。酒場で。通りで。仕立屋の双子の子たちも。手を伸ばしかけて、引っこめるの。アレスさまの袖に触れてみたくて、でも届かないから、目だけが触れようとするの。かわいいでしょう?」
「そうだったのか」
「気づかなくていいの。気づいたら、わたし、困るから」
囁きが鋭い刃の背を見せる。笑っているのに、頬に影が落ちたみたいな印象が残る。笑みは相手に見える角度だけに固定され、うなじのあたり、見えない場所からは薄い冷気がこぼれる。テラスの欄干に広がる露が、彼女の体温の変動に従って一滴だけ形を変えた。
「だから、考えたの。触れられる場所を、ひとつにすればいい。触れようとすれば、それはわたしに触れることになる。匂いも、温度も、全部。そうすれば、ほら、余計なことが起きにくいでしょう?」
「余計なこと?」
「わたしにとって、余計なこと」
微笑のまま、視線だけが一度、アレスの肩越しに白い街を撫でる。市場に張られた天幕の布が、朝の風にわずかに揺れている。遠くで獣の耳がひとつ跳ね、屋台の板がこすれる音。生活の匂い。彼女のまぶたがゆっくり下り、すぐ上がる。指先が一瞬だけ強く布を握った。指の腹が白くなる。すぐに戻る。
アレスは喉を鳴らし、言葉を選ぶ。頭の中にある線と面の配置は、目の前の衣装の完成度に降伏している。色の取り合わせ。星図が袖へ流れる角度。結界紋の置き所。それらは彼の審美眼が求める「隙間のない景色」の一部として、危ういほど美しく呼応している。着ればこの庭に馴染む。馴染むどころか、庭の一要素が一段階精密になる。
けれど。けれど、だ。
「身体を削る真似は、二度としないでくれ」
短く言う。言葉に余分な飾りがつく前に吐き出す。
エララの睫毛が揺れる。小さな羽根に風が当たるみたいに。
「気に入らないの?」
「違う」
間髪入れずに否定する。
「出来は見事だ。見たことがない。手の跡が消えてしまったみたいな仕上がりだ。ただ、君がこれを作るために費やした時間と、手間と……痛みを考えると」
「そう」
彼女の頬に色が差す。熱を持った薄桃色が、肌の下で静かに広がっていく。その表情は、無垢の衣を重ねた危うさ。さっきまでの影は引き出しにしまわれ、指からは柔らかい熱だけが伝わる。
「心を向けてくださるのね。わたしのことに。うれしいの。鱗はまた育つ。落とした髪がまた伸びるみたいに。必要なら、何度でも」
その言い回しが心臓の裏側に貼りつく。何度でも。声に温度は少ない。淡々と、確信だけでできている。
アレスは視線を遠くに投げる。白い街の屋根の継ぎ目。煙突の薄い煙。鍛冶場の鉄が冷えるときの匂い。舌の上に鉄の粉の味が少し乗る。空は今、薄い水浅葱に近い。色が変わり切る直前の、最も柔らかい時間帯。
その柔らかさの中で、ふと意識が足元から浮いた。エララはいつから、こうして自分の傍にいるのだろう。死の森の最奥。最初の結界を張った夜。彼女は確かにそこに——。
「アレス?」
呼び戻される。彼女の声はすぐ近くから。頬の側面に彼女の髪が少し触れ、冷たくも熱くもない温度が残る。
「少し考えごと」
「疲れているのかしら」
「たぶん」
「なら、早くこれを着て。肩が軽くなるから」
エララが布を両手で持ち上げる。袖が朝風を受け、銀の星が瞬いてから、すっと落ち着く。左右の手の高さが、彼女の呼吸にぴたりと合っている。長い時間ひとりで練習したのだろう、とアレスは直観する。
「着るか、着ないか」
彼女の声は上から落ちるのではなく、足元から立ち上る。選択のふりをして、道の片方に銀の鈴をいくつも吊るしてあるような声色。
アレスは衣装の裾に指を差し入れる。絹の手触り。植物性の糸ではあり得ない密度。滑るのに、かすかな抵抗がある。熱がある。エララの体温の名残というより、布自体が呼吸しているみたいな温度。
「……着る」
アレスは短く答えた。
エララの顔が光を受ける。目元だけでなく、耳の先まで表情が広がる。ほっとした吐息が、彼の胸元に落ちた。
「ほんとうに。うれしい。ねえ、条件は? 言っておきたいこと、あるのでしょう?」
彼が口を開くより先に、彼女が促す。予想していた。彼の気質が、何を好み、何に眉をひそめるかを、よく見てきた者の声。
「ひとつだけ。次に同じことをするときは、必ず相談する。鱗一枚でも勝手に抜かない。約束だ」
「相談」
エララはその言葉を舌の上で転がし、味わってから飲み込むみたいに、少し間を置く。
「ええ。あなたの前でなら、いい。目の前で、ひとつずつ。許されるなら」
彼女は笑う。両の手を胸の前で組み、指が祈りの形をつくる。震えは微弱。喜びと、別のなにか。彼女の足先の周りにだけ、露が面白い形に集まる。丸ではなく、細い楕円。冷気がほんのわずか漏れ、石の目地の間に星みたいな霜が一粒落ちる。
「約束は、約束。わたし、嘘はきらいなの」
言いながら、彼女は衣装を持ち直し、アレスの肩へ丁寧に運ぶ。布が首筋に触れる。人間の肌と異種の体温が出会う瞬間、皮膚がしずかに覚醒する。
「……ああ」
思わず声が出る。喉の奥がわずかに熱くなる。布が肩に落ちる重さ。軽いのに、存在が濃い。重力の向きが、衣装の意志に合わせて僅かに変わる。胸元に滑らせた彼女の指が、襟の角度を整える。指は爪を立てない。柔らかい面だけで押し、彼の形に合わせて布の意志を説得していく。説得に時間はかからない。従わせるのがうまい。
「似合う」
エララは囁いた。吐息が布を温め、温まった布が彼の皮膚を撫でる。彼女の声は喜びそのもので、けれど響きの奥底に小さな鍵穴がいくつも光る。鍵の先は彼女が持っている。
「似合う、なんて薄い言葉じゃ足りない。あなたが着るために生まれたもの。あなた以外では形にならないの」
彼女はマントの皺を伸ばしながら、袖口の星図の上を指でなぞる。指先が星々の間を渡るたびに、銀の糸がわずかに音を立てる。それは金属の擦れる音ではなく、雪の上に最初の一歩を置いたときの音に近い。冷たいのに、安心する音。
アレスは欄干に片手を置く。石は朝の冷たさをしっかり保持している。指の腹にそれが移り、彼の熱と混ざり合ってちょうどの温度になる。目の前の街。屋台の布が鮮やか。肉を焼く香りが早くも風に乗る。水をくみ上げる滑車が、軋みを一度鳴らす。今日も動いている。この偽装の空の下で。
「行こう」
アレスは短く言い、歩を進める。自分の声が思いのほか低い。体の奥に蓄えた疲れが音に色をつける。
「お供します」
エララは半歩下がり、彼の影へ滑り込む。マントの裾に白い指が触れ、そのまま添えられる。握るわけではない。ただ、そこに在る。だが、その触れ方をしている限り、彼が歩幅を変えても彼女は離れない。触れている場所が、目に見えない鎖の輪を増やす。
歩き出す前に、アレスはふと尋ねた。
「これ、どうやって紡いだ?」
彼は自分の好奇心が顔を上げるのを許す。職人は、技を知りたい。どれほど嫌でも、技だけは美しい。
「聞いてくれるのね」
エララがうれしそうに目を伏せる。朝の光が瞳の中で割れて、細い光の粒が二、三個、彼の頬に飛ぶ。見えないはずの粒を、彼は確かに感じた。
「火を弱くして、息を細くして。水の上で冷ましながら引くの。鱗の端を、糸にしたい分だけだけ取り上げて、ほどく。ほどいて、撚る。わたしの息が糸の芯になる。そうすると、切れない」
「水の上で」
「溶けて流れてしまわないように。熱が強すぎると、柔らかくなりすぎて戻らないの。息を絞る練習、随分したのよ。ほら」
彼女がそっと指先を広げる。指の間に薄い霧が生まれ、すぐ消える。空気に色はないはずなのに、彼女の吐息は微かに銀の粉を含む。光を拾う粉が、瞬く間に風にほどける。
「その練習の間、眠らなかったの?」
「目は閉じてた。ずっと扉の前で」
その言葉が、さっきの「夜明け前から」という情報と繋がる。アレスは片眉を上げる。
「眠ってたのに、扉の前で?」
「夢の中にも扉はあるでしょう。開けたら、あなたがいるの」
さらりと。そこに危うさを帯びた羞恥も誇張もない。ただ、自分の地図の描き方を説明しているだけ。彼女の地図には、彼の居場所が固定されているらしい。ずれないように、点を釘で止める人の手の癖が頭に浮かぶ。
「ところで」
エララは少し首を傾げ、彼のローブの胸元に視線を落とす。星図のひとつひとつを数えるみたいに目の焦点が動く。
「星の配置、どれが好き?」
「北の方」
「理由は?」
「ここから見上げたとき、いつもそこから風が最初に動くから」
「風が最初に動く」
エララが繰り返す。その言葉を気に入ったのだろう。彼女の口元が柔らかくほどける。
「じゃあ、そこにだけ、ひとつ秘密を入れておこう」
「秘密?」
「縫い方の癖みたいなもの。誰が見ても、気づかない。わたしと、あなたが着ているときだけ、少しだけ感じる。肩の重みが楽になるはず」
彼女はもう、そこに「何か」を仕込んでいる。声が知っている。アレスは肩にかかる布の落ち方の違いを、確かに感じ取る。僅かに楽だ。重さが前ではなく斜め後ろへ逃がされている。体を前に倒さずに済む。歩きやすい。
「ありがとう」
短く礼を言うと、エララは目を伏せ、頬の色がまた少し深くなる。照れの色。うれしさの色。裏側に、別のものが重なって見えるのは、朝の光が多すぎるせいかもしれない。
「そうだ」
アレスは思い出したように声を出す。さっき浮かんだ霧のような違和感について、もう一度触れてみる。
「最初に会った日のこと。死の森の……」
「雨が降ってた」
エララが即答する。彼の言葉に重ねる。彼の記憶が刺激される前に、先回りして形を与える。
「あなたは濡れた土の匂いを嫌がらなかった。手で触れた。わたしは、それを見ていた。名前は、その夜の終わりに呼び合った。あなたが先に」
「そうだったか」
「ええ。忘れても、困らないの。今、覚えているなら」
彼女は微笑んで、話をそこで閉じる。これ以上は開けない、という鍵の音がした。
アレスは無理にこじ開けるのをやめる。無理にこじ開けると、どこかが欠ける。欠けたものは戻らない。そういう感覚だけが確かで、その正体は掴めない。
「市場、覗いていきましょうか」
エララが提案する。マントの裾から指を離さずに、声だけ軽く跳ねさせる。
「双子の仕立屋の子たちが、新しい布を取り寄せたの。海の方の。触りたそうにして、触れられないの。かわいそう」
「触らせてやればいい」
「だめ」
即答。声がひとつ沈む。笑っているのに、目の奥の色が変わる。彼女の肩の周りの空気の温度が、一度だけ下がる。テラスの手すりの上の露が、音を立てずに小さな針の形になる。誰も気づかない。けれど、確かに寒い。
「なぜ」
「布は触られていい。でも、これは別。これは、わたしの……」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込み、代わりに微笑を濃くする。視線の高さをほんの少しだけ下げ、従順の形を作る。
「見せるだけで、十分でしょう?」
アレスは息をひとつ吸い、鼻の奥で焼けた油の匂いを捉える。屋台だ。肉が焼け始めた。香辛料の匂い。舌の側面が刺激される。空の色は、青が勝ってきた。朝の低い角度の光が石畳の目地の影を長くする。
「行こう」
言葉を切り替える。相談は後でもいい。条件は伝えた。彼女は頷いた。納得したかどうかは、別の話だ。
「ねえ、アレス」
珍しく、彼女が名を呼ぶだけで始める。冒頭に敬称をつけないひと呼吸が、距離の取り方を巧妙に撹拌する。
「わたしの手の温度、届いてる?」
「肩に」
「もっと、近くで」
彼女が一歩近づき、彼の胸元の布に頬を寄せる。静かに。こすらない。ただ、寄せる。頬から布へ、布から皮膚へ熱が流れる。自分の体温が、彼の皮膚に流れ込む音を、彼女は聞いているのだろう。目を閉じ、ほとんど祈りの形に戻る。
「満足か」
「まだ」
短く交わしてから、エララは離れる。離れるとき、彼女の髪が布を撫で、銀の一本が彼の肩に残そうになって、すぐに風に隠れる。痕のない手つき。痕を見せない配慮。痕がある部分は、目に見えぬ場所に仕舞う癖。
アレスは歩き出す。テラスから回廊へ。白い柱が続く。柱の間を抜ける風が、衣装の裾を遊ぶ。新しい重みが、体の軸を定める助けになっている。歩幅がいつも通りに戻る。
回廊を曲がる直前、エララがふと思い出したように振り返った。
「そうだ。雲、きれいに揃ってた。朝いちばんの作業、見てたの」
「少し、指を鳴らしただけだ」
「その音で、世界が整うのを感じるの。あなたの指の音、好き。余計な言葉がないところが」
彼女の言葉は、彼の「引き算」のやり方を見抜いている。彼の指が鳴ると、余分な線が一本消える。音は小さいのに、遠景の雲までが従う。彼女はそれを聴いている。扉の前で目を閉じながら、きっと何度も。
「……」
アレスは答えず、指を軽く弾くふりをする。音は鳴らさない。その代わり、目で雲の位置を確かめ、角度を頭の中で少しだけいじる。音がなくても、雲は己のいるべき場所に戻る。戻るとき、小さな喜びが胸に灯る。
「あなたがいる限り、この空は迷わない」
エララがぽつりと落とす。褒め言葉。祈り。呪い。どれであっても彼女の口から漏れるとき、音色は同じだ。
「迷うのは下の方だ」
アレスは街を見下ろす。人は迷う。迷った方がいい。迷わない方が危ない。そう思うのに、彼女の笑みは迷いを許さない形に美しい。美しいものは、人の判断を鈍らせる。わかっている。
階段へ。石段を降りるたび、衣装の裾が足首に触れる。触れるたび、布の温度が微妙に変わる。エララの体温が、布を通して彼に伝わる。彼の体温が、布を通して彼女に戻る。循環。互いの温度が釣り合うまで続く循環。
「ねえ」
エララがまた口を開く。今日はよく話す。言えば言うほど、言わないことの密度が上がっていく。
「さっき言った、秘密。もう一つ、あるの」
「また?」
「また。あなたは今、知らなくていい。いつか、必要なときに」
彼女は目を眇める。光の粒が睫毛にかかり、短い虹ができる。虹はすぐに消える。
アレスは返さない。問い詰めても、言わない。言葉の蓋が固いときは、無理に開けるとこぼれる。こぼれたものは拾えない。
市場の入り口に近づく。色鮮やかな布が頭上を渡る。空の色と混ざり、人の声が混ざり、香りが混ざる。金属の鳴る音。笑い声。犬の吠える声。果物の甘い匂い。焼いたパンの温い匂い。皮袋に注がれる酒の香り。
「新しい一日」
エララが呟く。呟きは期待に満ち、同時に、どこか確定の響きを持つ。彼女にとって、新しさは常に彼に絡む。絡み、結び目を増やす。
アレスは足を止めず、内側でだけうなずく。新しい重み。新しい手触り。新しい視線。今日、街の者たちはこの衣装を見るだろう。そして匂いを嗅ぎ、触れようとして、触れない。距離が一歩、増える。彼はその結果を知っている。選んだ。選ばされたのかもしれないが、最終的に選んだのは自分だ。
彼の肩の上で、銀の糸が光を集める。星図の一点。誰にも見えない位置。マントの内側。刺し口が一つ、余計にあるのを、彼はまだ知らない。
それは、エララの真名。竜が生まれたとき、最初に浴びた風の音であり、最初に触れた水の温度であり、最初に口にした土の味でできている名。名は、彼女そのもの。名は、鎖。名は、鍵。
真名が織り込まれた衣は、持ち主の心臓の鼓動に合わせて一度だけ伸び、すぐ元に戻る。見えない伸縮。誰も気づかない。けれど確かに、結び目がひとつ増える。世界のあらゆる術がこの結び目を解こうとしても、真名は笑って逃げる。幻を得意とする魔王軍の四天王——幻影のシオンが姿を変え、声を変え、記憶を撹拌しても、最後に残るのは、刺繍の手触り。指先で触れたときの、あまりにも生々しい銀の冷たさ。そこに刻まれた音節。エララという音の、沈黙の部分。
朝の青が完全に空を満たす。低かった影が短くなり、人の声は太くなる。鍛冶屋の煙突に細い煙が踊る。屋台の串が油を弾く。子どもの笑いが通りを跳ねる。
白亜の街は動き続ける。空は今日も欺きと庇護を与える。テラスから遠ざかる足音。新しい布の手触り。裾に触れた白い指。離れない距離。
竜姫の織り上げた、見えない檻。その檻の内側で、アレスは歩く。彼の頬に当たる風の角度は変わらず、匂いは少しだけ甘い。彼の肩に乗る重みは柔らかく、温度は一定。彼の耳に届く声は、静かに、しかし途切れない。
「ねえ、アレス。朝の間に、もう一度、雲を見上げましょうか。今日のわたし、あなたの指の音をあとひとつ、聴きたい気分」
彼女は笑った。笑いに含まれた小さな氷は、誰にも刺さらないように包んである。けれど、冷たさが消えたわけではない。
アレスは空を一度だけ見上げ、指を鳴らすふりをして、鳴らさない。唇だけが小さく動く。
「……後で」
それだけ。約束にも宣言にもならない言葉。けれど、彼女は満足した。薄く目を閉じ、その短い音の余韻を胸に仕舞った。
端正な朝。新しい一日のはじまり。見えない糸が、確かに増えていく。




